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ペン表卓球への道

大阪市在住のサラリーマンです。趣味は、卓球、読書などです。大学時代までやっていた卓球を再開しました。現在、卓球練習を週1回2時間、試合を月2回のペースでやってます。

 今日は、デフリンピックの銅メダリスト「井藤博和」選手(左ペン表)の紹介と題してBlogしたいと思います。


 井藤博和(いとう ひろかず)選手は、鳥取県出身の卓球選手で、聴覚障害者の国際大会であるデフリンピックにおいて、日本代表として活躍されています。


 2022年にブラジルで開催された第24回夏季デフリンピックでは、男子団体で銅メダルを獲得し、その功績が認められ、2023年8月には文部科学大臣より表彰を受けました。 


 現在、千葉県浦安市に在住し、株式会社オークネットに勤務されています。


  また、千葉市内を中心に活動する卓球クラブチーム「CCW」に所属し、チームのエースとして活躍中です。 


 井藤さんは、左利きのペンホルダーで表ソフトラバーを使用する選手として知られています。 


 また、X(旧Twitter)では、卓球に関する情報や練習風景を積極的に発信し、卓球コミュニティとの交流を深めています。 




 今回は、「卓球王国」Webの記事をそのまま(原文)で紹介したいと思います。

この記事を読めば、井藤選手の全てはわからないものの、多くはわかると思います。

 私も、鳥取県出身でペン表!読んで「グッ」とくるものがあります。




    「卓球王国」Web・アーカイブ(2022.5.4)


【5月5日卓球競技開幕】36歳でつかんだ初のデフリンピック。あきらめの悪い男の卓球観




(出所:「卓球王国」Web・アーカイブ(2022.5.4))



 4年に一度開催される、ろう者(聴覚障碍者)の世界最高峰の総合スポーツ大会・デフリンピックが5月1日(現地時間)からブラジル・カシアスドスルで開幕した。5月5日からスタートする卓球競技には、日本から男女4名ずつが出場。男女団体・シングルス・ダブルス、混合ダブルスの7種目でメダル獲得を目指す。

 卓球競技の男子主将を務めるのは、36歳にして初出場の井藤博和。競技開始に先立ち、「あきらめの悪い」井藤の卓球人生を紹介する。(初出:卓球王国2021年3月号「Another Story 38」・本文中の肩書きはすべて当時)


●色が変わるまで繰り返した壁打ち。達成感と悔しさ半々の高校時代

 羽田空港の展望デッキで、その男は泣いていた。男の名は井藤博和。34歳にして4年ぶりにつかんだ国際大会出場の夢は、無情にも打ち砕かれた。

 鳥取県の西部、米子市に周囲をぐるっと囲まれた日吉津村で井藤は生まれた。聴覚の障がいは先天性のものだが、特別支援学校ではなく、補聴器を装用して小・中・高と普通学校に通った。

 兄の影響で小学生時代はサッカーチームに所属。しかし、中学では卓球部を選んだ。理由はふたつ。サッカーでは補聴器が接触プレーで破損したり、雨で濡れてしまう懸念があったこと。また、もうひとりの兄が中学で卓球部に所属しており、時々、家のテーブルを卓球台代わりにして「ピンポン」で遊んだのが楽しかったことも、井藤が卓球を選んだ理由だった。

 井藤が卓球にのめり込むのに時間はかからなかった。中学校の体育館が使える日は週に3、4日程度。それでも、体育館が使えない日には同級生を誘って公民館で練習し、家での日課は壁打ち。毎日繰り返し壁にボールを打ち付けたせいで、壁の一部分だけ色が変わってしまい、母親から壁打ち禁止令が出された。それでも井藤は壁にテーブルを立てかけ、そこにしか打たないという条件で壁打ちをさせてもらった。

 しかし、目立った成績は残せずに中学校を卒業。高校は通学しやすく、兄も通っていた県内屈指の進学校である米子東高に進んだ。当然、井藤は卓球部に入部するが、入学早々に米子東高は中国高校選手権の学校対抗に出場。井藤はダブルスで起用された。勝利はあげられなかったものの、初めてこの規模の大会に出場したことで「もう一度、大きな大会に出たい」という目標が生まれ、中学以上に卓球に没頭していった。現在は表ソフトを使用する井藤だが、高校入学時は裏ソフト。ループドライブに対するブロックができず、先輩の勧めで高校1年の途中から表ソフトを使用するようになった。

 井藤が2年生になり、3年生が引退すると、部員は井藤と1年生3人の4人だけに。中学時代に実績のある後輩がおり、部をまとめる立場となった井藤は、彼と相談しながら練習内容を考えていった。その成果はすぐに現れ、秋に行われた高校選抜の県予選を勝ち抜き、1年生の春以来となる中国大会に出場。この大会では1勝することができた。高校3年のインターハイ県予選は「ダブルスならチャンスがある」と感じていたが、代表権をつかんだペアにフルゲームで敗れ、井藤の高校での卓球生活は「達成感と悔しさ半々」で幕を閉じた。

 「進学校だし、何となく大学に行くんだろうなと思っていた」という井藤。中学では勉強はできたほうだが、進学校の中で卓球に没頭した結果、高校での学業成績はどんどん下降線をたどっていった。成績はいつも学年で平均以下。国公立大への進学を希望していたが、センター試験も散々な結果に終わり、浪人することとなった。

 当時、米子東高には「専攻科」と呼ばれる浪人生を対象としたクラスがあり、井藤もこの専攻科に通っていた。専攻科の生徒も高校の制服を着て登校し、クラスとして球技大会にも参加。さながら「高校4年生」のような1年を過ごし、井藤は山口大理学部数理科学科に合格する。

 

●数学で吹き飛んだ卓球への興味。東京で、ろうあ者卓球と出合う

 大学でも卓球を続けるつもりだった井藤は、入学前に何度か卓球部の練習にも参加した。入部する気満々でいたが、最初の数学の授業で衝撃が走った。

 「『数学ってスゴいな』って衝撃を受けたんです。高校までは受験数学で、問題をひたすら解くだけだった。大学の数学は問題を解くんじゃなくて、厳密にひとつひとつ理論を構築していく感じ。最初は教授の話もまったく意味がわからなかったけど、これが理解できたらすごくおもしろいと思ったんです」

 自分の性格を「これだと思ったら、ガーッと行くタイプ」だという井藤。体に走った数学の電流によって卓球への興味は吹き飛び、朝から晩まで数学の勉強に明け暮れる。色が変わるまで壁打ちを繰り返し、勉強そっちのけで卓球ばかりしていた息子の変貌ぶりに、母親が「大丈夫?」と不安を覚えるほど数学に没頭した。あれだけ情熱を注いでいた卓球は、サークルや学生寮にあった卓球台で遊ぶ程度。今となっては井藤自身も信じられないほど、数学漬けの大学生活を送った。

 大学卒業後も「4年間では勉強し足りない」と大阪市立大の大学院へ進学。いずれは研究者に、という将来も描いていた。だが、数学が好きというだけでは追いつけない存在がいることを思い知らされる。大学院の研究室にいるのは、自分よりも遥かに優秀な学生ばかり。彼らの存在は、次第に井藤に研究者への道を諦めさせ、就職活動へと動かしていった。

 その就職活動の最中、井藤は卓球を再開する。家の近所に障がい者スポーツセンターがあることを知り、就職活動のストレス発散にと、卓球経験のあるスポーツセンターのスタッフと卓球をするようになった。そこで練習する肢体不自由の選手たちとも次第に仲良くなり、徐々に井藤の日常に卓球が戻ってきた。

 2011年、大学院を卒業した井藤はシステムエンジニアとして東京で就職。東京でも障がい者スポーツセンターを探して練習するようになった。そんな中、井藤にひとつの転機が訪れる。「東京都の障がい者卓球選手権に聴覚の部があるから出てみれば」と誘われたのだ。この大会で井藤は、後に日本ろうあ者卓球協会の理事長を務める藤川太郎ら、ろうあ者の選手たちと知り合う。彼らと出会い、ろうあ者スポーツ最高峰の大会・デフリンピックをはじめ、それまで知らなかった、ろうあ者卓球の世界を知った。

 2012年には東京で世界ろう者選手権が開催され、井藤も会場に足を運んだ。その数カ月後に開催された、ろうあ者の関東大会に出場した井藤は、世界ろう者選手権に日本代表として出場していた望月翔太、有馬歓生と対戦。団体戦では2人にボコボコにされたが、翌日のシングルスでは会心の当たりで有馬にリベンジを果たした。望月との再戦ではまたも敗れたが、「やっぱり卓球はおもしろい」、そうひしひしと感じるようになっていた。

 ろうあ者の大会では、プレー中の補聴器の装用は認められていない。高校まで補聴器を装用して健常者の大会に出場していた井藤にとって、それは未知の体験。身体のバランス感覚というのは複雑で、聴覚もそれを保つうえで大きな役割を果たしている。今は補聴器の有無に関係なくプレーできるが、最初に補聴器なしで練習した際は「ボールとの距離感がつかめなくて、普通のフォア打ちで空振りしていた」という。


●スタッフから、世界への挑戦。2年連続の日本一で代表をつかむ

 ろうあ者卓球との関わりを深めていった井藤のもとに、日本ろうあ者卓球協会から、強化部スタッフとして日本代表選手のサポートをしてくれないかというオファーが届く。井藤自身も選手として大会に出場していたが、「日本代表になる」というような考えはなく、この依頼を受けた。

 そして、強化部スタッフとして岩手・富士大での日本代表合宿に参加した際、井藤の運命を変える出来事が起きる。選手たちの昼食の買い出しに行く車中で、富士大監督の小田桐憲仁からこう言われた。「絶対に選手としてやったほうが良い」。午前中の練習で、富士大の選手がひとり空いていたため、井藤も練習することになった。それを見ていた小田桐が、スタッフではなく日本代表を目指したらどうかと勧めたのだ。

 午後の練習では小田桐が井藤に付きっきりで指導してくれた。シェークフォア表ソフトの小田桐は青森商業高時代、ペン表ソフト速攻型として世界チャンピオンに輝いた同校監督の河野満から表ソフトの極意を叩き込まれた、いわば「世界王者の弟子」。その小田桐が「表のイロハ」を井藤に伝授してくれた。

 「表は弾く・かける・ナックル、すべてが必要」、「表でも回転はしっかりかけられる」、「相手のラケット角度をどうやって狂わせるか」など、小田桐からの指導は井藤がそれまで触れたことのない、珠玉の数々だった。東京へと帰る新幹線の中、井藤はそれらをノートに書き記し、何度も頭の中でその感覚を思い返した。「挑戦してみよう」。合宿を終え、選手たちがリラックスして談笑する中、井藤だけがメラメラと燃えていた。

 日本代表を目指すと決意したものの、仕事が忙しく、平日にはほとんど練習はできない。それでも、土日になれば、各所を点々として一日中練習に明け暮れた。恵まれた練習環境とは言えない中でも、この時期を「めちゃくちゃ楽しかった」と振り返る。

 「小田桐さんをはじめ、この頃はそれまで知らなかったこと、新しいことをたくさん教えてもらった。それを自分のものにしようと必死でした」

 井藤のプレースタイルは、片面にのみラバーを貼ったペン表速攻型。トップ選手でも少数であり、お手本は少ない。そこでマスターズの大会に足を運び、坂本憲一など、年代別のペン表の名手たちから技術や戦術を学んだ。現代卓球では不利な面も多い戦型だが、だからこそ頭も使うし、おもしろい。

 「回転や球質の微妙な変化を使い分けて戦うのがペン表。どうやってスマッシュやカウンターができるボールを誘い出すかを考えて、ラリーを組み立てていくのが楽しい部分ですね」

 2015年にはチャイニーズタイペイでアジア太平洋ろう者競技大会(アジア大会)が開催され、各種大会でアピールを続けた井藤は、強化本部推薦で初めて日本代表に選出された。団体、シングルス、ダブルス(男子・混合)に出場し、団体で銅メダルを獲得したが、4番手で選ばれた井藤の出番は予選リーグの1試合のみ。その試合で勝利したが、あとの試合はベンチでサポートに回った。個人戦3種目はすべて決勝トーナメント初戦で敗退。初の国際大会でメダルを獲得したものの実感は薄く、心からは喜べなかった。

 また、短期間で追い込んだ代償か、大会終了後はモチベーションがガクッと落ちた。アジア大会の翌年、翌々年も井藤は強化指定選手に推薦されたが「30代の自分に強化費を使うよりも若手に使ってほしい」という理由で辞退している。時が経つにつれ、井藤の中で日本代表に代わるモチベーションも生まれていた。それは「日本一」。未だ果たしていない全国大会での優勝を新たな目標に歩み始めた時期でもあった。

 

●レジェンドからの「一緒に頑張らないか」

 だが、井藤を日本代表に再び招集したいと考える人物がいた。当時、次の日本代表監督に内定していた梅村正樹だ。梅村は現役時代、デフリンピックで6度金メダルを獲得したレジェンド。自身も40歳近くまで世界で戦った梅村が「もう一度、一緒に頑張らないか」と声をかけてくれた。この言葉に井藤は揺れた。だが、年齢のこともあって即決はできなかった。

 そんな井藤の背中を押したのは、笹尾明日香(早稲田大)の母・良枝の言葉だった。元実業団選手の良枝と偶然知り合った井藤は、代表復帰への迷いを打ち明けた。「やってダメなら踏ん切りもつくけど、やらなかったら後悔する」。良枝のその言葉で心は決まった。

 決意を新たにした井藤は、2017年度の全国ろうあ者選手権で32歳にして念願の初優勝。大会前、日本代表のアドバイザーである楊玉華(日本名・大倉峰雄)が監督を務める東北福祉大で練習させてもらったことも大きかった。目標の日本一を手にし、梅村に「代表を目指したい」と伝えた。そして、この優勝で井藤はある決断をする。それは、より卓球に専念できる環境を求めての転職。勤めていた会社に不満があったわけではなく、仕事にやりがいも感じていた。ただ、日本代表を目指して卓球と向き合うには時間が足りない。

 転職活動を進める中、井藤は企業に対し、「当然、仕事には全力で取り組む。そのうえで選手としてレベルアップできる環境で業務に当たりたい」という要望を提示していた。難しい条件であることは承知していたが、その熱意を汲み、要望を認めたうえで採用してくれる企業が現れた。その企業は、中古車や医療器機など、幅広いオークションビジネスを手掛ける株式会社オークネット。井藤の入社以前に、ろうあ者フットサル日本代表の東海林直広が入社していたこともあり、ろうあ者スポーツにも理解があった。

 オークネットの井藤に対するサポートとしては、練習時間を確保できるよう就業時間への配慮、遠征費などの補助、合宿など日本代表行事への参加は業務と見なすといったもの。環境が大きく変わり、「これだけサポートしてもらって負けられない」というプレッシャーの中で挑んだ2018年度全国ろうあ者選手権。井藤は見事2連覇を達成する。わがままな要望を認め、応援してくれる今の会社、そして自分の夢を理解し、快く送り出してくれた前の会社に結果で恩返しができたことが何よりうれしかった。

 この優勝により、翌年11月に香港で行われるアジア大会の日本代表に内定。推薦で選ばれた前回大会から4年、自分の実力で代表権をつかんだ。目標としていた舞台に「全日本王者」として立てることに、気持ちを昂らせていた。


●2度の大会中止の悲劇にも、あきらめの悪い男は前を向く

 再び世界で戦う機会を得た井藤だが、アジア大会の開催地・香港には暗雲が立ちこめる。逃亡犯条例改正を推し進める中国政府と香港政府、それに反発する香港市民が衝突する香港民主化デモが発生。2019年3月に始まったデモは鎮まる気配を見せず、激化の一途を辿る。井藤が「もしかしたらとは考えた」という最悪のシナリオ、大会中止が伝えられたのは開幕まで1カ月を切った10月中旬だった。

 大会に向けて出発する予定だった10月下旬、井藤は羽田空港の展望デッキに向かった。本来であれば自分が搭乗していたはずの便を見送ると、涙があふれてきた。悔しさなのか、悲しさなのか、失望なのか、怒りなのか。何に対して、どんな感情をぶつければ良いのか、わからなかった。しかし、井藤に降り掛かる悲劇はこれだけでは終わらない。

 2019年度の全国ろうあ者選手権はコンディション調整に苦しみ5位。それでも、強化部推薦で2020年6月の世界ろう者選手権の代表切符をつかんだ。だが、今度はパンデミックが世界を襲う。新型コロナウイルスの影響で、世界ろう者選手権は中止となり、またも井藤が世界で戦う舞台は奪われた。もちろん、度重なる不運に落胆もしたが、井藤は前を向く。

 「35歳という年齢を考えると、2年連続で国際大会中止はキツいし、運がないなとも思います。『しょうがない』で済ませたくはないけど、それでも、卓球ができなくなるわけじゃないですから」

 2度の悲劇を経験しても、まだまだ世界で戦うことは諦めていない。若い選手には身体のキレや体力では勝てないことは知っている。それでも、技術や戦術、駆け引き、すべてを使って「最後に卓球で勝てば良い」、今はそう考えている。その中で最近は、井藤らしい卓球に対する考え方の変化も生まれた。

 「代表になることも大事だし、やる以上はそこを目指します。その中で卓球というものを、どれだけ深く知れるかに挑戦したい。結果だけにこだわるより、最近はそう考えるほうが自分に合っている気がするんです。数学も似た部分があるんですけど、卓球って、考えて、考えて、ようやく少しだけわかってくる瞬間がある。それが楽しいんですよ。なんでこんなにハマっているんでしょうね? 性格上、しょうがないですね」

 落ち込むだけでは何も変わらない。年齢を言い訳にするのは、再び世界を目指すと決めた時にもう止めた。何度転んでも立ち上がって、卓球と向き合い続ければ道は開ける。何より、たくさんの人に背中を押してもらって今がある。

 回り道もしたし、不器用な生き方かもしれない。でも、そんな井藤を見て思う。あきらめの悪い男もカッコいいじゃないか、と。(文中敬称略)


【PROFILE】

井藤博和(いとう・ひろかず)

1985年8月15日生まれ、鳥取県出身。箕蚊屋中学で卓球を始め、米子東高校時代に学校対抗で2度中国大会に出場。2015年アジア太平洋ろう者競技大会男子団体で銅メダルを獲得。2017・2018年度全国ろうあ者選手権男子シングルス2連覇。2019年アジア太平洋ろう者競技大会、2020年世界ろう者選手権日本代表。2022年デフリンピック男子団体銅メダリスト、混合ダブルス・ベスト8。左ペン表速攻型。株式会社オークネット勤務


(出所:「卓球王国」Web・アーカイブ(2022.5.4)