ペン表卓球への道

ペン表卓球への道

大阪市在住のサラリーマンです。趣味は、卓球、読書などです。大学時代までやっていた卓球を再開しました。現在、卓球練習を週1回2時間、試合を月2回のペースでやってます。

●「卓球にとり憑いた男」(伊藤条太著)の要約


 伊藤条太氏の著書『卓球にとり憑いた男。 岩城禎の人生、才能0なのに3万時間練習し続けたら起きた奇跡と18分』は、ネットで話題となった「卓球ストーカー」こと岩城禎(いわき ただし)氏の半生を描いたノンフィクション本です。

 効率やコスパ、生産性が重視される現代において、何の役にも立たない(しかし本気である)ことに人生を全振りした一人の男の生き様を描いた、強烈な「人間讃歌」となっています。

 本のタイトルが何故「卓球にとり憑かれた男」でなく「卓球にとり憑いた男」なのか?

 あくまでも正気かつ主体性に、才能のない卓球に一方的に思いを募らせて、まるでストーカーのようにつきまとっている様を表現したものです。



 本書の主な内容や見どころを以下に要約します。


1. 主人公・岩城禎氏の圧倒的な生き様と「異常性」


・才能ゼロ、しかし練習量は3万時間

 トップ選手に必要な練習時間の目安が「1万時間」と言われる中、彼はその3倍にあたる3万時間という破壊的な練習量を誇ります。「試合の疲れは練習で取る」「練習1回の日は休み扱い」という狂気的なスケジュールで卓球に没頭しています。

・すべてを卓球に犠牲にする人生

 練習時間を最優先に確保するため、司法試験への挑戦や公務員の職を投げ打ち、投資などで生計を立てながら人生のすべてを卓球に捧げていました。司法浪人中に後輩へ「人生を卓球一色に染める方法を考えろ」と詰め寄るなど、数々のエピソードが示す通り、その執着は常軌を逸しています。

・「18分」の結末

 執念の末、35歳で全日本卓球選手権に奇跡的な初出場を果たしますが、当時中学1年生だった松島輝空(現・日本代表)選手にわずか18分で完敗します。しかし、敗北の翌朝には当然のように何食わぬ顔でラケットを握っていました。


2. 本書の構成と魅力


・狂気のエピソードとユーモア溢れるツッコミ

 岩城氏の常軌を逸した行動(エピソード)に対し、著者の伊藤条太氏が独特のシニカルなユーモアと愛を込めて鋭いツッコミを入れる構成になっています。

・脱線する卓球歴史語り

 本筋の岩城氏の人生エピソードの合間に、著者お得意の「マニアックな卓球の歴史や昭和の卓球雑誌の深掘り」が絶妙な脱線として挟み込まれ、卓球ファンなら思わずニヤリとする読み応えになっています。

・効率至上主義へのアンチテーゼ

 「小学生のときに卓球の女神に微笑みかけられたと誤解した」ことから始まった歪みながらも一途な情熱は、効率やコスパばかりが求められる現代社会において、強烈なインパクトと「人間って面白い」という爽快感を与えてくれます。


3.まとめ


「もしも圧倒的な才能がなくとも、一つのことに魂を売り渡すように人生を費やしたらどうなるのか」という問いに対する、笑えて、少し切なく、そしてどこか羨ましさすら覚えるリアルなドキュメントです。卓球の知識が全くなくても、一人の男の壮大な「おバカで愛すべき生き様」としてエンタメ感覚で楽しむことができます。



●岩城氏の卓球をする意味とは?(私的感想)


 岩城禎氏にとって「卓球をする意味」とは、一般的な愛好家やアスリートが掲げるような「試合で勝つため」「健康のため」「名誉や実績を得るため」といった枠組みを完全に踏み越えたところにあります。

 著書の行間や彼の行動原理から浮かび上がってくるのは、彼にとって卓球をすることが「自分の存在証明そのもの」であり、「生きている実感を得るための唯一の呼吸」になっているという点です。

 具体的には、彼にとっての卓球の意味は次の3つの階層に分けて捉えることができます。


1. 唯一無二の「自己存在の証明」

 岩城氏にとって卓球は、「自分が自分であるための根拠」です。 司法試験への挑戦や公務員の職を諦め、一般的な社会人としての成功や世間体(キャリア・世帯・収入など)をすべて手放した彼にとって、「卓球にすべてを捧げている自分」こそが唯一のアイデンティティです。


・「才能がない」「社会的に何の役にも立たない」と他人にどう評価されようと、3万時間という正気の沙汰ではない時間を卓球に投じた事実だけは誰にも奪えません。

・卓球台に向かい、球を打ち続けている時間だけが、彼が自分の存在を肯定できる唯一の聖域となっています。


2. 「効率・コスパ主義」への魂の反逆

 現代社会は「いかに効率よく成果を出すか」「コスパ(費用対効果)が良いか」という合理性で動いています。しかし、岩城氏の卓球人生はその真逆を行くものです。


・3万時間練習して、全日本選手権でわずか18分で完敗する。合理的に見れば「無駄」「コスパ最悪」の極みです。

・しかし彼にとって卓球とは、そうした大人の損得勘定や社会の物差しを完全に無視し、「無意味に見えることに魂を全振りする」という純粋なロマンの追求です。損得を超えた領域で「自分は本気で生きた」という手応えを得ることこそが、彼がラケットを握る意味となっています。


3. 結果を超えた「過程(プロセス)そのもの」への愛

 多くの人は「勝つこと」や「強くなるという結果」を目的として練習します。しかし、岩城氏の本質は「卓球という行為そのものへの没頭」にあります。


・敗戦の翌朝、何事もなかったかのように再び練習場に向かう姿が象徴するように、彼にとってのゴールは「勝利」ではありません。

・「強くなろうともがき、練習し、卓球の世界に浸り続ける日々」そのものが彼の人生の目的であり、生きている実感です。勝敗という結果は、卓球をし続けるための単なる通過点(あるいはダミーの目標)に過ぎません。


4.まとめ

 岩城氏にとって卓球をする意味とは、「世間の物差しから解放され、己のすべてをぶつけて『自分はここに生きている』と実感するための命の燃やし処」と言えます。

 「勝つため」ではなく、「卓球をやり続けること」それ自体が彼の人生の意味であり、彼という人間そのものなのです。


●岩城氏は真の「勝ち組(幸福)」か?


 岩城氏のような生き様を前にしたとき、「家族を巻き込んで離婚し、社会的なキャリアや安定をすべて捨てて卓球だけに没頭する人生は、果たして本当に「勝ち組」(幸福)と呼べるのか?」という問いが立ち現れるのは、至極当然の疑問であり、むしろこの物語の核心をつくきわめて鋭い視点です。

 結論から言えば、彼の人生は「個人の主観的幸福(ロマン)」と「社会的・倫理的幸福(責任と調和)」が激しく衝突する典型例であり、どの角度から見るかによって「究極の幸福」とも「悲惨な自己満足」とも評価が真逆に分かれます。


 本書および彼の生き様が投げかける「勝ち組(幸福)の条件」について、いくつかの側面から整理できます。


1. 「究極の主観的幸福」という側面

 「本人の内心」に限って言えば、これ以上ない幸福の中にいることは間違いありません。


・妥協なき純粋性

 多くの人間は、社会生活、家族への責任、世間体、将来への不安などのために「本当にやりたいこと」を諦めたり妥協したりして生きています。しかし彼は、世間の価値観(キャリア、安定収入、世間体)をすべて削ぎ落とし、自分が魂を震わせられる「卓球」だけに人生の全エネルギーを注入しています。

・承認欲求からの解放

 他人から「可哀想」「愚かだ」と蔑まれようと、自分が決めた一つの物事に3万時間を捧げ、今も卓球場経営や指導で卓球漬けの毎日を送れている状態は、彼個人の世界線においては「完全な自己実現」と言えます。


2. 「社会的・倫理的な欠落」という側面

 一方で、家族や他者との関係性、社会的責任という観点に立てば、到底「幸福な人生」や「模範的な生き方」とは呼べないのも事実です。


・他者(元妻や子供)への負担と犠牲

 自身の情熱を優先するあまり、家庭を顧みず離婚に至り、子供に親としての十分な責任(経済的・精神的な安定供給)を果たせなかったとすれば、それは周囲の犠牲の上に成り立った「エゴイスティックな幸福」でしかありません。

・挫折と逃避の歴史

 司法試験、市役所、株のトレーダーと、社会的なコミットメントを次々と途中で投げ出してきた歴史は、見方を変えれば「社会の厳しい現実や責任から逃げ続け、居心地の良い卓球の世界へ逃避しただけ」という冷徹な批判を免れません。


3. なぜこの著書は彼を描き、読者は揺さぶられるのか?

 伊藤条太氏が彼をただの「悲惨な男」や「偉大な聖人」として持ち上げるのではなく、その異常性や痛々しさも含めてエンターテインメント(ノンフィクション)として描いた理由もここにあります。


・美化されない「人間の業(ごう)」

 彼は聖人君子でも成功者でもありません。身勝手で、不器用で、欠落だらけの人間です。しかし、「何かに狂うこと」の凄みと恐ろしさを同時に体現しています。

・現代人へのアンチテーゼ

 私たちの多くは「まともな大人」として責任を果たし、世間に合わせて器用に生きていますが、どこかで「自分は本当に自分の人生を生きているだろうか?」という虚無感を抱えることがあります。岩城氏の「周囲を犠牲にしてでも、己の狂気に命を燃やし尽くす姿」は、道徳的には責められるべきものでありながら、同時に「自分には絶対に真似できない圧倒的な狂気への憧れと恐怖」を同時に抱かせます。


4.結論

 世間が何と言おうと、その人が「勝ち組(幸福)」と思うことがすべてである。


 それを「勝ち組(幸福)」と呼ぶかどうか?

 「家族を犠牲にし、自分一人だけが満足している状態」を幸福と呼べるかどうかは、「勝ち組(幸福)」の定義を「他者との調和・責任の完遂」におくか、「自己の情熱への完全な殉教」におくかによって決まります。

 客観的に見れば「社会的・道徳的には不合格だが、本人の魂にとってはこれ以上ない至福」という、歪で凄まじい幸福の形であると言えます。

 だからこそ、この物語を読んだ私たちは「素晴らしい生き方だ」と手放しで称賛することもできず、さりとて「哀れな男だ」と切り捨てることもできず、その強烈な生き様に眩暈(めまい)を覚えてしまうのではないでしょうか。


 あなたは、岩城氏のこの生き方や幸福のあり方について、どのような感想をお持ちになりましたか?