3月11日……あれから13年 | 92のブログ

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明日は3月11日。


今でも忘れない、

2011年3月11日の金曜日。


午後2時半くらいだったか。


俺はゆりかもめの竹芝駅の目の前にある、

客船ターミナル中央広場のすぐ横の

ビルの2階で働いていた。


デスクの自分用箱ティッシュが切れたので

息抜きも兼ねて、

隣のビル内にあるコンビニまで買いに行った。


その帰り。

自分の職場のビルの階段で

2階まで上がろうとしたら、

なんかちょっとフラついて壁にもたれかかった。

「ああ、疲れてるのかなぁ、俺」

と思ったら、違った。


フラついてたのはビルの方だった。

すぐに

ミシミシミシ、ギシギシギシ……

という異音が耳に入ってきた。

ビルのロビーの方からは

「ヤバい、ヤバい! いったん外に出よう!」

と大きな声が聞こえてきた。


俺もロビーの方に移動すると、

エレベーターホールからも何人かが小走りで

ビルから出ようとしていた。

つられて俺も外に出た。


すると、

シャンシャンシャンシャン……

という音を鳴らしながら、

ビル全体が揺れているのが外から目で見れた。

こんなにビルって動くのか、

というくらい左右にしなっていた。


外に逃げた俺らは

なんとなくビルの側から離れて、

開けた交差点辺りまで移動していた。

倒れてくるんじゃないかと思ったからだろう。

全然知らないおじさんと

「すげえっすね……震度ヤバいんじゃないですかね」

なんて会話を交わしたくらい、

とんでもない揺れでした。


揺れは5分くらい続いたんじゃないだろうか?


身体が揺れを感じなくなってから

ビルの2階に階段で上がった俺は

フロアがざわざわしてるのを感じた。


席について仕事を再開してしばらく後に

また大きな揺れが来た。

車輪付きのイスが大きく後ろに引っ張られた。

2度目の揺れも相当デカかった。


その揺れの後に、

フロア内から「お台場で火の手が上がってる」と

声が聞こえてきた。

窓からお台場を見ると煙が上がっていた。


さらにそのしばらく後、

地震から1時間近く経ったあとだろうか。

ネットニュースを見たら

宮城県のとんでもない映像が流れていた。


街全体が津波で流されていた。

家やビルが黒い濁流に飲み込まれていた。

俺の隣で作業していた宮城出身の人は

実家に連絡したがつながらない。

その人は気が気でないまま

東京駅近くの客先まで打ち合わせに出かけた。


夕方16時半すぎくらいに

うちらの会社から、

早めの退社を促す通達が出された。

ビル内の放送では、

明日までビルは閉めないので

無理な帰宅をせず

留まる人はビル内に居ても良いことになった。


すでにJRは全ての路線で

この日の運休が決まっていた。

東京メトロと都営地下鉄はまだ動いていた。


俺の隣の席の人が、近くのホテルに泊まろうと

電話をかけると、

「湾岸沿いのホテルは、津波警報が出ている間は

 法律で予約を受け付けられないことに

 なっています」

と言われて断られたらしい。

そんな法律があるのか、とその時初めて知った。


泊まりになりそうだと予想していた俺は

さっき行ったコンビニにもう一度行って

おにぎりや弁当などの食料を買い込んでいた。

電車では帰れないため、晩メシにするつもりだった。


周りの何人かは歩いて帰ると言って

17時すぎくらいに退社していった。

聞けば、横浜まで歩いて帰るらしい。

軽く30kmはある。

けど、

家の中が心配だから今日中に帰りたいらしい。


会社に泊まることにした俺は、

仕事仲間と晩メシを食いに外に出ることにした。

買い込んでいた弁当やおにぎりは

他の帰れない女性社員の人に譲った。


夜の21時半頃に近くの中華屋に入った俺らは

いろいろ注文をしようと思ったが

店員さんによると

夕方からの地震の混乱で

食材が店に届かず、

食事はチャーハンしかできないと言われた。

仕方なく俺らは

チャーハンとビールを注文したが、

ビールはすぐに出てきたものの

チャーハンが来るまでは30分くらい待った。


結局、店を出たのは23時すぎ。

ビルに戻る前にコンビニに寄ったら、

コンビニ内の食べ物という食べ物が全て

棚から消えていた。

あんなに棚が空になっているコンビニは

初めて見た。

残っていたのはお線香とか蝋燭とか文房具とか

食べられない物だけだった。

お菓子の棚ですら真っ白だった。


その後、ビルに戻って仕事を続けたが

なかなか集中できず、

なんとなく自然とネットニュースを見てしまう。

東北では未曾有の大惨事が起きていた。

各地で津波が街を襲い、

死者の数が分からないくらい出ているという。

関東地方では交通が完全にマヒし、

帰宅困難者が駅周辺に集まり、

幹線道路沿いの歩道は歩いて帰宅する人達で

溢れているらしい。


3月12日土曜日。

朝6時の時点で

まだJRの運転再開の目処が立ってない。

7時近くになって

ようやく運転再開の情報が流れてきた。

だが、

しばらくはホームへの入場規制をしながらの

運転再開だという。

俺は、もう開き直って午前中に帰るのを諦めた。


結局、俺が自宅に帰れたのは

地震の翌日の夕方だった。


家に入ると、

自室の本棚は倒れて本は全てぶちまかれていて

パソコンラックは傾いていて、

ラックの上部に置かれていたプリンターは

コード一本でぶら下がっていた。


ベッドの上にはいろいろな物が散乱していて

飾っていたブラモデルは破壊され、

テレビは倒れて台から落ち、

壁に飾ってあった額縁は全部ベッドに落ちていた。

そこで寝るためには、

相当な時間をかけて片付けないとダメだった。


3月13日、日曜日。

テレビでその惨状を目の当たりにする。

ようやく今回の大災害の全貌を知った。

番組は一日中すべて震災の番組。

バラエティ番組は不謹慎だということで

一切放送されなかった。

CMはすべて公共広告機構のみ。

異常事態だった。


3月14日、月曜日。

うちの最寄りの駅は電車がまだ動いてなかったため

会社から休んで良いとの連絡が来た。


東京や関東一円では、

電力不足に陥ったため、

しばらくの間は計画停電を行い、

決められた時間で停電になった。

うちの近くでも夜に停電が行われ、

窓から街を見ると、辺りが真っ暗だったのを

今でも憶えている。


あれから13年。

再びあんな地震が来たとして、

13年前よりも混乱しないように

日本は成長したのだろうか?

能登の大地震を見る限り、そうは思えない。

未だに断水は続いており、

崩壊した道路の完全な復旧には5年かかるという。


もう一度、あの大災害から学んだ教訓を

考え直してみる必要があるんじゃないか?