弱い、ってあまり良い意味で使われないような気がします。
逃げる、も。それから、負け、も。
でも・・・逃げるが勝ち、という言葉があります。
逃げるという道がある、逃げられるという可能性がある場合、それを選ぶのは、ただ
複数の選択肢があるときに、どれかを選ぶのと大して変わらない気がします。
逃げる、という言葉を使うと何か良くないイメージにつながるけれど、何かに立ち向かう
ということとは違う別の方法を選ぶだけのこと。
何かをするときに、いくつか方法があった場合、どの方法を選ぶか考えることは、ごくごく
普通のことです。それを考えるときに、逃げるというイメージがあるからといって、ただ
それだけの理由でその方法を選択肢から外してしまうのは、場合によって何かのチャンスを
自ら一つ減らすことになっているのかもしれません。
弱い、って悪いことでしょうか。
別に弱くてもいいと私は思います。そして、強くてもいいと思います。
どちらでもいいと思います。
どちらが自分には合っているのでしょうか。
どちらでいるのが自分はうれしいのでしょうか。
どういう自分になりたいか・・・。
弱さと向き合う強さ。
逃げる、という道を選ぶ強さ。
負けを受け入れる強さ。
弱いということを受け入れるには、実は強さが必要なような気がするし、強さの裏側に、
もし、弱さを受け入れられない弱さがあるのだとしたら・・・・・・。どっちもどっち、
という感じがします。
それに、決して、そう簡単には、自分がどちらだと言い切れるものではないと思います。
その時々、その状況などで、いろいろな自分が現れて・・・
その時の自分が強くても、弱くても、それでもその自分を受け入れたいなあと思っています。
けれど、もし、そういう自分を受け入れられなかったら・・・そのときは、まず、
そういった、受け入れられない自分、を認めてしまおう・・・。
もちろん、あらためたいと思ったことは、少しずつでも、あらためてゆけたらと思います。
自分がこうなりたい、と「ほんとうに」思うものがあって、それに近づこうと自分なりに
努力することは大事にしたいです。
自分が苦しくならない程度に・・・。
よく、若いうちの苦労は買ってでもしろ、なんて言います。が。避けられる苦労は避ける。
これは私のモットーです。
そのかわり、避けられない苦労は、しっかりする。そして、避けたくない苦労はする。
これも私のモットーです。
どうしても逃げ道がないときは、しかたありません。
でも、ほんとうに逃げ道がないかどうか、あれこれ考えてみて、それでもなかったら、です。
もし逃げ道が見つかった場合、それは、逃げても良い、という意味なのではないか、
そう思うときがあります。
自分をちゃんと逃がしてあげる。これが、自分を大事にする、ということにつながる場合も
あると思います。 逃げ上手になってもよいのではないか、そんな気がします。
でも、逃げたくないものから逃げる必要はないだろうし、
逃げたくない、という気持ちも大事だと思います。
逃げるか、逃げないか。
どちらを選ぶのか、自分は、ほんとうはどうしたいのか・・・。
時間がゆるすかぎり、じっくり考えてみてもよいかな、と思っています。
逃げたら絶対後悔しそうと感じるか。
逃げても、逃げたことに後悔しないで、その逃げた道をしっかり歩む気があるか。
逃げたからといって、何もないわけではないはずです。
逃げなかったら過ごすはずの時間、それとは違う時間を過ごすだけで、別の時間は、同じく
過ごすのですから。その時間をどう生きるか・・・。
その覚悟が必要なので、逃げることの方が大変な場合だって当然あると思います。
逃げる、って、自分と向き合うことの一つなのかもしれません。
自分とだけ向き合っているのはさみしいことだけど、自分と向き合うことをしないのも
なんだかさみしい感じがします。
引きこもり、という言葉があります。
これにもあまり良いイメージがないかもしれません。
でも、別に悪いイメージを持つようなことでもないと私は思います。
引きこもっている本人たちも周りの人たちも苦しいことが多いと思うので、
あまり軽々しいことを述べてはいけないような気がしますけれども、実際に私自身が、
自分以外の人と ほとんど接することのない期間を過ごした者として、ふと思うのは、
引きこもる人というのは、なにかを受け取る力を持ってる人が、その力を発揮するための
準備期間、その力の開発期間なのではないだろうか、ということです。
人は、人や社会と接しながら、いろんなものを受け取り、そして与えられています。
人や社会と直接は接しない人、いわゆる、引きこもりと呼ばれる人は、「間接的に」何かを
受け取る訓練をしているのかもしれません。
自分に必要なメッセージを、直接自分宛に発せられてるわけではないものから受け取る力。
これを養うのが引きこもってる期間なのではないか、そんなことを思うのです。
私は、この貴重な期間を体験できる幸運に恵まれたことを感謝しています。
自分が求めてさえいれば、自分に必要なメッセージは、自分の心から自分に届きます。
そして、そのきっかけをくれるのは、必ずしも、直接の人間だったり、社会ではないことも
あるのです。
現代社会で引きこもりが増えているのは、現代が、引きこもりにふさわしい時代だからだと
思います。人にとって必要な大事なことが、引きこもっていてもできる時代。
それだけのことなのでは、と思うのです。
メディアの発達・普及。溢れる情報。実は、ここにも、ちゃんと隠れているのです。
自分に必要なメッセージが。でも、それに気づくのは、ちょっと難しかったりします。
このなかからメッセージを受け取るには、まず、自分を通さないといけません。
自分と向き合って、初めて、可能になることです。
自分と向き合うのにも、いろんな方法があると思うのです。
人によって、ときには、他人と接することで自分をみつめることもあり、そして、
ときには、引きこもり、という方法を使う人も、当然いるわけです。
ただそれだけのような気がします。
(何かに、勢いがつきすぎているようなとき、ブレーキのようなものが、きっと必要で、
ひょっとすると、現代、というものに、ブレーキが必要なのかな・・・・
もしかして引きこもりというのは、時代のブレーキとしての役割のようなものを担っている
なにかを伝えようとするものなのかもしれない・・・・・・
そんなことを感じてしまうことがあります。)
自分を大事にする。自分を好きになる。
自分のことが嫌いだったりすると、ついつい自分を責めたくなったり、
自分に厳しくなりすぎることもあるかもしれません。
そんなとき、自分に対して、自分の大好きな人に接するような気持ちになれたら・・・・。
自分が何か失敗をして落ち込んでいるとき、落ち込んであれこれ反省する時間もあってよい
と思いますが、それが済んだら今度は、自分の大切な友達が失敗して落ち込んでいるときに
かけてあげたいと感じる言葉を、自分自身にかけてあげる。
だから、もし、どうしても自分のことを好きになれないのなら、まず、誰か
自分以外の好きな人を作る。そして、その人のまるごと全部を好きになる。
どんな人にだって、多少は好ましくないと感じてしまうようなところがあると思うのですが、
それも含めて大好きでいられるかどうか。
好きな人を作る、というのは、場合によっては、別に身近な人間でなくてもよいと思います。
芸能人でもフィクションのなかの登場人物でも、そして、人物ではなく、“動物”でも
“自然”でも かまわないような気がします。
要するに、まずは、「好き」になれるものなら何でもよくて、そこからはじめてみれば、
それでよいのだと思います。
これができたら、きっと、どんなに自分が嫌いだと思ってる場合でも、いつか
自分を好きになれる可能性がある、そう思っています。
そして、たとえどんな自分であったとしても、自分だけは決して自分を見捨てたくない。
そんな風に思えたら・・・・・・。
大好きな誰かのことも、「ほんとうに」愛することができているのかもしれません。
(2001年 芽)