人はいつか死にます。死んだらどうなるのか・・・
実際のところどうなるのかわかりません。
死んだら何もかも消えてなくなる、とか、魂はどこかの世界(天国)に旅立つ、とか、
人によって、いろいろな考えがあると思います。どれが真実かなんてわかりません。
ただ、わからないからこそ、その人の考えが、そのまま、その人にとっての真実になる
のだと思います。
死とは全て消えてしまうこと。そう思う人にとっての死とは、
そういうものなのかもしれません。そう思うからこそ、生きているうちに精一杯生きよう、
悔いがないようにしようと思えるかもしれません。
また、死は次の世界への旅立ちにすぎないと思う人もいるかもしれません。私は、
そんな風に思っています。
次の世界に旅立つために、今この世界でできることをしっかりやっておかないと
次の世界で後悔してしまうかもしれない。
この世界での生き方が、次の世界の生き方につながるようにも 思えるのです。だからこそ、
やりたいことを思いっきりやって生きてみたいな、と。
・・・・・・もしも、「死」を「卒業」だとすると、人生は学校。
学校にいる間は、せっかく学校にいるからこそできることを思う存分やりたい。
そんな感じです・・・・・・。
この世を去った魂は、どこかに存在し続ける。そう私は思っています。
でも、それが、どこに、どういう姿で、何をして存在しているか・・・よくわかりません。
いろいろな魂がいるのかもなあ、と勝手に想像しています。
この世を去ったままの姿
(これがこの世の人間に見えるものなのかどうかわかりませんが・・・)で、
この世の記憶を持ち続け、そのままどこかでこの世を見守り続けるのか、
それとも、別の姿になってこの世を見守っているのか。
あちらの世界でも何か役割があって、それを果たしている のかもしれませんし。
もしかすると、別のものに生まれ変わってまたこの世に存在しているのかもしれないし・・・
生まれ変わる場合、 人間だったり、動物だったり、植物だったり、はたまた何か違うもの
であったりするのだろうか・・・。
私は、全ての命、魂、心・・・意識とよんでもいいのかもしれませんが・・・は
どこかでつながっているんじゃないかと思っています。
(心理学などにもそのような考えがあるようですが、ちゃんとした知識がないので、
そのことに関してはあまり気にせず、私の勝手な考えで書かせていただきます)
もし、自分にとって大切な人がこの世を去った場合、
その魂が、全く別の存在に姿を変えていたとしても、どこかで意識がつながっている
と思うと、私はなんだか うれしくなります。
自分のその人に対する思いは、たとえ相手が姿を変えていたとしても、
その人にきちんと届いていて、その人の意識的な部分には届かなかったとしても、
無意識のところではちゃんと受け取っていてくれて
・・・都合のいい考えかもしれないけど・・・
その人のエネルギーの源になってくれるのでは、なんて思ったりしています。
例えば、自分の親がこの世を去り、いつの日かどこかで再び何かの赤ちゃんとして
生まれていたとしたら・・・
その赤ちゃんの成長のエネルギーの、ごく一部にでもなれたら、それはそれでうれしいなあ
と思います。
その姿がどんな姿であったとしても、そして、もし、私のことを意識するようなことが
なかったとしても、それでもちゃんとつながって生きていたら・・・
大切な魂とは、きっとまたいつか巡り会えるような そんな気がします。
もし、あの世と呼ばれるところでこちらを見守ってくれているのなら、それも
とってもうれしいことだと思います。
私がその人に向かって祈るとき、その祈りは、ちゃんとその人に届いているんじゃないか
と、私は感じています。
そして、あちらから届く、 ということもあるのかもしれない・・・・・・。
私が自分で思うこと、考えること、感じること・・・それらが、知らず知らずのうちに
誰かの意識の影響を受けていることもあるのかも。
(これは、全ての魂がつながってるとか、そういうことは関係なしにしてもいえると
思います。自分の身近で生活している人からの影響とか、広い意味で・・・)
そして、それは「知らず知らずのうち」でもいいんじゃないかなぁ。
自分自身の考えだ、とだけ思ってもいいし。
要するに、誰の考えでもいいのだと思う。自分にとって、自然にしっくりくる考えならば。
自分自身の考えが自分には一番しっくりくることが多いのかもしれないから、それなら
自分自身の考えだと捉えるのがいいように思う。
結局、誰の考えかではなく、どんな考えかが大事だと思う。
そして、それについて、自分がどう思うか。どう感じるか。
・・・・・・こんな風に私は思ってしまうのです。
死といっても、表面的にはいろんなものがあります。
老衰もあれば、事故、事件に巻き込まれてのものや、病気によるもの、
自分の意志によるもの・・・・。
でも、この世で息をひきとったら、その時点で本人にとっての死は、どれでも同じなんだ
と・・・私は思います。
ただ、残された人間にとっては、表面的な部分が大きく左右してくると思います。
病気や、不慮の事故、事件、自分の意志であった場合、やりきれない思いも大きいと思うし、
「なぜ?」という気持ちが湧いてきたりもすると思います。
それぞれの状況により、残された者の気持ちは複雑です。
ですから、そんな複雑な気持ちを抱えてらっしゃる方に、もしも私があれこれ言ったとしたら
失礼だと思います。
ここで書くものは、あくまで、私個人の考えなので、もし、大事な人に先立たれて辛い思い
をしている方がいらっしゃいましたら、どうぞ、あまり気にせず、軽く読んでもらえたら
と思います。
もし、とても不幸に思える死だったとしても、
その不幸な死と、そういう最期を遂げた人の魂そのものとは、
切り離して考えてもいいのではないかと思います。
どんな最期であろうと、その魂が不幸ということにつながるとは、私には思えません。
「不幸」なんて言葉を何度も書くのは嫌ですが・・・この「不幸」というものは、
この世での価値観の一種にすぎなくて、旅立った魂にとっては、もう
無縁のような気がします。
・・・・・・卒業って、自分で勝手にできるものではないと思うから、
卒業したということは、ちゃんと卒業証書をもらえた、ということになるんだと思う。
人によっては早すぎる卒業証書に思えたりすることもあるかもしれないけれど、
それでも・・・・・・。
きっと、あちらの世界で、この世界の分も平穏に楽しく過ごせるのではないかと・・・。
そんな風に私は思っています。
だから、残された者は、変わらず相手のことを想っていれば、安心してよいと思います。
相手のことを想う、といっても、いつまでも悲しみ続けるのではなくて
(けして、悲しんではいけないというのではなくて・・・悲しみにとって、
「時間」という味方も、きっと必要なんだと思います)その人のことを、穏やかな心で、
ときどき想っていれば、それでよいのではないかと思えるのです。
血のつながりのある人だったとしたらもちろんですが、そうでなかったとしても、
特別な存在だった人とは、たとえ相手が先に逝ってしまったとしても、
心の中のつながりが消えることはないでしょう。
だから、もし、相手が逝ってしまったあと、自分にまず穏やかな気持ちでいられる時間が
できたら、ひと安心だと思います。
きっと、つながった相手の心が平穏であるからこそ、
自分の心も穏やかでいられるのではないかと・・・。
そして、自分の心が穏やかであれば、つながった相手の心が平穏であることに
つながるのではないかという気がします。
逝ってしまった人を思い出し悲しむことはあったとしても、
心の穏やかな時間を持てるようになれれば、きっと、 逝った魂も穏やかであると。
自分が楽しければ、その楽しさが、自分がうれしければ、そのうれしさが、きっと
つながった相手の魂にも届いてゆくのではないかと・・・。
私の中の命のエネルギーも、どこか、から、そんな風にやってきているのかもしれない。
そして、その命は、姿かたちは変化しても、 永遠に続いてゆくものなのでは・・・・・・
・・・・・いろいろと書いてしまいましたが、これが、
この世での「死」というもの、命、魂、心について、いまの私が思っていることです。
( 2001.3.31記)