いきなり、「宗教」なんていうと、ひいてしまう人も多いのではないでしょうか。
初めにおことわりしておきますと、私は無宗教・無宗派です。なので、当然、何かの
宗教をすすめようなんて気はありません。


私も日本人の多くの人が感じているように、「宗教」というと、なにか抵抗を感じてしまい
がちです。でも、宗教というものを否定する気は全くないし、宗教の根本的な部分は、
全人類に共通なものだと思っています。宗教が必要なわけや、なぜ人は宗教の力を借りたく
なるのか、そういったことを考えると、宗教そのもの・・・宗教の意味するものといった
感じの部分は、とても大事な部分だと思っています。
なので、なにかを信仰している人がいても、その人が、ほんとうに幸せなら、それで
いいと思うし、なにかの宗教・宗派を必ずしもマイナスな目では見ていません。
ただ、いろいろな事件が発生しているのも事実だし、あえて信仰したくなるような宗教も
とくにないので、あまり近づかないようにしているところはあるかもしれません。


宗教や、哲学、心理学など、通ずる部分があります。
人の心。人に心がなかったら、そして、人が、もし、考える生き物でなかったとしたら、
きっとこれらは必要ないものだったでしょう。


私は、自分を含め、人の心というものに関心があるので、きちんと勉強はしたこと
ありませんが、心理学、哲学、そして宗教というものに興味がないわけではありません。


人は、自分や自分のまわりの人々の心と接しながら生きてゆきます。
そしてたくさんのことを感じ、考えます。
そのなかで、多くの不可解なことと出会います。どうにも納得できないようなこと。
心について、誰か頼りになる先生のような存在がいたら・・・。


人生やいろいろなことについて考えるとき、なにか指標になるようなものがあった方が、
生きることが少し楽になるような気もします。
宗教でいうところの「教え」というものがそれにあたるのでしょうか。
もちろん、指標を自分自身で見つけられれば、それがいいのかもしれません。また、
身近にいる人が代わりになってくれる場合もあるでしょう。でも、そうはいかない場合、
宗教は魅力的な存在になるかもしれません。

世界中に、いろいろな宗教があります。その教えはさまざまです。
それぞれが全く違うように思えたり、ときにはまるで正反対のように思えることも
あるような気がします。


自分がどの宗教を信仰するか、それは個人個人の問題ですが、世界的に見れば、
自分の生まれた環境、家庭や地域や国の影響が大きいと思います。
他の国々に比べ、現在の日本人には無宗教の人が多いようですが、それも、ある意味、
日本という国に生まれた影響の一つなのでしょう。

ふと考えました。
世界中のあちこちから、とある一つの場所を中心に同じくらい遠い距離にある100の
バラバラの地域から一人ずつ、その一つの場所を目指して旅をしたとしたら・・・・・・。
同じくらいの距離を、同じ場所を目指して旅しているのに、100人の人たちがそれぞれ
通る道、見える風景、感じた空気、味わった食べ物などなど・・・きっとすべてが全然違う
旅になっていて・・・・・・。
その100人が、自分たちが同じ場所を目指して旅していたことを知らなかったとしたら、
もし100人の人たちが、目的地は言わずに、自分の旅した「それぞれの道中」について
見た景色、通った道、感じたことなどを伝えあったとして、自分たちが同じ場所を目指して
旅していたということは、はたしてわかるのものなのだろうか・・・・・・。
目的地に着いた話になって、初めて「同じ所を目指していた旅だった」と知ることになる
のではないだろうか・・・・・・。


同じところを目指しているのに、全く違う道を辿る旅。
まるで人生そのもの、みたいかも・・・。
そして、いろんな種類(宗派)のある宗教、そして哲学や心理学など、みんな
ルートは違うけど、全然違って見えるけど、ひょっとして、目的地は同じなのかも
・・・そんなことも思ってしまいました。

言葉では説明しづらいものを、人がそれぞれ好きなように説明しようとすると、
その説明は、きっとバラバラでしょう。

一つのテーマでなにかを表現するとしても、100人いたら、100の表現が生まれる。


形のないものに、なにか形を与えようとすると、もとは一つなのに、いくらでも、
たくさんの形が生まれてくる。
ほんとうは単純なことなのに、とても複雑なことになってしまう・・・。


その「本質」が、もしも「ほんもの」であるなら、たくさん形が生まれていても、
どれも同じ。自分にとって、しっくりくる形を利用するのも一つの手だと思います。
そして実は、その本質をほんものにするのは、結局のところ、自分しだい。
ちょっと難しいけど、ほんとうは簡単なこと・・・・という気がしています。

 


私は無宗教・無宗派だと書きましたが、身近な人が他界してからは、毎日祈っています。
その人に対して感謝の祈りはもちろん、ほかにもいくつか祈り、願っていることがあります。
これは、もしかすると私流の宗教といえるのかもしれません。 私の宗教は私がこれまで
生きてきて感じたこと、考えたこと、体験したことなどから生まれました。
ほんとうは宗教と呼ぶようなものではありませんね。
信者は、いままでも、これからも、私一人ですから・・・・・・。


祈るとき、とある宗派の形も利用しています。
日本では一般的な、他界した大切な人の供養と呼ばれるものを、その宗派で行ったから
という、ただそれだけの理由です。とくに信仰しているわけではありません。
利用している「形」にはいくつかありますが、そのなかに「言葉」もあります。

そして、祈るときは、自分流の「言葉」を心のなかで唱えています。


正直なところ、祈るとき、そのときの精神状態によっては、あまり心がこもってないときも
あるかもしれません。そして、そういうときこそ役立つのが言葉だと思っています。
言葉、という形を与える。この形が、その形の“モト”を呼び起こす・・・。
言葉から、その言葉を発する気持ちを呼び起こす・・・・・・。
その言葉の意味する祈りに、心をともなわせる・・・・・・。

人間は、うれしいと笑顔になります。
逆に、うれしくなくても笑顔を作ると、笑顔を作る顔の筋肉が、脳の「うれしい」という感情
を司る部分と連動しているらしく、ほんとうにうれしい気分になる、そんな話を聞いたことが
あります。
人体のしくみについては詳しく知りませんが、これは意外と、なんにでもあてはまることかも
しれないと思いました。
感情があって、その感情から生まれる表情や言葉がある。
その表情や言葉が、その“モト”となる感情を呼び起こす。

ただ形にたよるだけでは無意味ですが、ときに、形の力を借りるというのも悪くないような
気がしています。宗教にかぎらず、全てのことにおいて。



(2001年 芽)