ふくしま原子力発電事故から思う事 | 俺はShattered

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50歳を過ぎて、「この調子なら100歳まで」と思っていたら、とんでもない苦境が待っていた。そこをくじけずに、生き延びようとする哀れで滑稽で笑止千万な人生の「後半部分」を再構成するシュールで決定的で虚無的なアメブロ。

どうしたら、よいものか。
いまさら「反原発」とか「原発推進」などと
言う気はさらさらない。
あいにくと、さういうチチくさい根性は持っていない。
なんせ、金さえ払えばいいんだろと
水力か火力か原発か、
製造方法不明の「電気」を無造作に、
バンバン使って来た手前の後ろめたさがある。
まずは自己嫌悪がある。

約20年前に「反原発」の警鐘ががんがんなっていたのに、
そしてまた、最近ではCO2排出問題で世間が騒々しくても、
「騒々しいなあ。誰のせいだろ」などと
自分に対してあるべき態度を糊塗してきた手前、
確固たる「迷妄」の中に、いる。

その迷妄が、世間の身勝手なあがきの中で、
じりじりと焼けこげるように精神をむしばむ。
世間の身勝手なあがきとは、色々さまざまな
意見が、まことしやかに、あるいは幼稚な意見でも
「言わなきゃソン」「いうだけタダ」と言う雰囲気で
発言されているからであるが、実はソンでも
タダでもない。それで、じりじりとする。
じりじりとしながら考える。
どちらかと言えば「安易なわかりやすさ」を
拒否している。
原発研究者が30年も40年もかかって得た知見を
10分やそこらで「わかりやすく、言え」というのは
無理がある。原発研究者を擁護するものではない。
そもそも「反原発」のものが、その専門の研究者になるという
矛盾をこの資本主義的自由経済環境でありえないのではないか。
かつては「原発推進研究者」であったものが、思想転向して、
今はそうではない場合にまれにあり得るかも知れない。

約7年前の事である。
高校の後輩が出世し、同窓会で記念講演をした。
東大の先端科学技術の研究者になって、
「光触媒利用の環境技術」という内容の話をした。
橋本和人教授の貴重な話であった。

主にエネルギー問題から「酸化チタン」の話へと
敷衍していったのだが、興味深い話がどんどん
飛び出して来た。彼は主に「チタン・コーティング」の
商業化の話をしたかったらしいのだが、
前段に「エネルギーの歴史的話題」があった。

勿論、チタンコーティングへの興味もあった。
それは例えば、「洗浄不要のトイレ素材」だったり、
「光合成で汚れない住宅建材」や「腐食しない塗装の船舶」の
問題へと進化しそうな話題でもあった。

基礎的な原理は、「光合成」だったり、
「酸化還元反応」だった。

それよりも地球の化石エネルギーは、
つまり石炭石油ガスの天然エネルギーの正体は、
約40億年かかって地球に蓄積され生成された
「太陽エネルギー」である事が説明された。
太陽光線が地球の植物や地表、あるいは海面に放射され、
それが長い時間をかけて化石エネルギーに
変容してゆく過程のことである。
それは勿論、40億年観察したり記録があるわけ
ではないから科学的推論ではあろうが、
現在的な科学的定説になっているという。

その「約40億年」かけて蓄積された化石エネルギーは、
1940年頃までは殆ど減少されずにきたが、
戦後から最近までの、比較的平和な時期の、
この約70年間に、そのすべてを人類は消費しようと
している、という。現在の人間の消費エネルギーレベルは
そういう膨大な時間の、40億年の歴史の堆積を使い尽くす
勢いなのである。

これは個人的に学習した「エントロピーの法則」、
物理の法則とも符合する。

簡単に言えば、地球と太陽という「ある、ひとつの系」
の中では、エネルギーは凝縮と拡散を繰り返すだけである
という理論である。(古代からの「太陽神」の根拠でもある)

これは、別の言い方をすれば、
「世の中のスピード化」と関係している。
第2次大戦後、色々な発明や技術革新のおかげで、
飛行機や車が大衆化したり普及発展したきたわけだが、
その現象はある意味ですべての「高速化」であり、
そのための「エネルギーの膨大な消費」それも
過去の歴史にありえない前代未聞の「甚大な消費」
なのであった。消費は「酸化」という事と同義である。
すなわち「還元」が為し得ない。循環がアンバランスになる。
短絡的だが「すべての高速化」が反自然なのである。

ところで社会交通がいくら高速化した所で、
人間の体内生理の高速化はなかなか進まない。
口から入れた食物が、消化され、体内に栄養が
摂取されて排泄されてゆく時間は、おそらく古代人と
さほど変化してはいないだろう。
そういう現象の総体が精神を蝕んでいる。
つまり、反・幸福へと向かう。

わしはかつて、マグロ船を威勢良く
気仙沼や清水から出航を見送り、
約3週間を日本で事務仕事をこなしてから、
ハワイのホノルルや南アフリカのケープタウンあるいは
ペルーのカヤオに
船が到着し補給するのを見計らって、
飛行機で成田から各地へ飛んで行った。

この時、いつも船の燃油消費量やその高額な燃油代、
そして船員の給与に悩まされた。何も生産しない
無駄な時間であり経費のように思えたし、
実際、収益性のない時間であった。
言い換えると「エネルギーを消費するが、
何も生産していない」のである。

それは社会の高速化から外れた、のどかな印象で、
現代社会から隔絶しているような気分になった。
しかし、それはまた同時に精神には感動的な自然
との親和性を見いだしていた。
南アフリカまで1ヶ月間、船でとことこ航海する様子は、
非効率的でありながら、ナチュラルな感覚でもあった。
それに比して、飛行機を乗り継いで、
わずか28時間でケープタウンに到着する飛行機旅行は
身体に常に激しい負担を強いられた。
それはジェットラグ(時差ぼけ)のみならず、
消化系が異常をきたし、血流がおかしくなった。
時にボーとして吐き気が止まらなかった。
約1ヶ月が28時間である。

先の東大の橋本教授は、毎日、
「山のようなゴミの集積所」に通うそうである。
ゴミの研究が、先端科学の現場なのである。
なんせ現代は40億年の蓄積を100年間くらいで
使い果たそうとしている。ゴミに解決のヒントがある
と考えているようだ。
要するにエネルギー資源問題が緊急課題である。
そういう危機感から「原子力発電」は思いついたと
言ってよい。

これは「入力と出力」あるいは「酸化と還元」に
置き換えられるかも知れない。
それが「ほったらかし」の自然状態の循環であるべきものが、
人為的に化学理論を獲得して、「知ったかぶり」になってしまった
故に「想定外の事態」へと迷い込んでしまった現象と
言えまいか。多分、人類の叡智の限界にいるのだろう。
いつからか我々はクロスロードに立っている。

原発の原理は、自然にある希少鉱物のウランの
人的化学反応によっているが、その危険性は
言わば「神の領域」に踏み込んでいるのだろう。

どこかの歌手が「ずっとウソだった」という痛烈な
皮肉的メタファーを歌っているが、事実として、
「一度も原子力発電は安全です」と言った事はないと
言っている。なぜなら、原子力発電の危険性は
常に確率論で証明して来た経緯があって、
「絶対、ご迷惑はかけません」と言って来たようである。

まるで、サラリーマンが、仕事で失敗した時に、
「責任を感じています」と言っていいが、
「責任をとります」と言ってはいけない、
というのと同じ位相である。
感じるのは自由だが、責任はとれないのである。
意地はって「責任とれる」というのは、
出来もしないウソを言う事と同義語なのである。
「クビにして下さい」と言っているようなものである。
まるで詭弁のようだが論理学上でも、
そういう風に出来ているのであるから、
仕方がない。

くだけて言えば、民主主義的に選んだ議員たちが、
「危険な便利さ」を採用して、国民はその恩恵を
充分に享受して来たのだから、現段階で
「だから言ったじゃないの」なんて言っては、
みっともないと思う。仁義にはずれる。
今はみな、それなりに必死なのだから。

まあ、あえて言えば、
東京電力などの各社が、あるいはその付加価値の
利益を享受した関係者たちは、経営者や高給取りの社員をはじめ
政治家も含めて、累積した富の配分を「まるはだか」になって、
被災者に再配分すべきだと思うのである。
被災者と言うのは、「計画停電」によって迷惑した人をも
含めてである。

友人が東電社員が被災して亡くなったら9,000万円で、
アメリカでは800万円なんだそうである。
それとアメリカ大使館が大阪に引っ越したそうである。
思わず「まじかよ?」と中学生のような科白がでてしまった。

こうなっては東電や国家が破産しても、
人の命の方が大切である。
無人の国家なんてありえないもの。

それにつけても、すべては
「バランスとタイミング」である。

とはいいつつ、「確固たる」迷妄にたどりつく。

(これもまた、未定稿であるが、仕方がない)