前総務大臣の高市早苗代議士(59)が吠えまくっている。11月18日はYouTubeチャンネル「ケビン・クローンのセイカイ発見TV」、21日には関西テレビの「東京駐在 キーパーソンに訊く!」で、NHK改革について持論を述べたのだ。中でも、受信料とそれ を集めるための経費が高すぎるとの発言が注目されている。  ***

 10月から受信料を値下げしました! と大見得を切っていたNHKとしては、まだ納得 してもらえないの? と言いたいかもしれない。  しかし、今回の値下げは、地上契約で年間340円(口座・クレジットで月払いの場合)、月当たりたったの35円にすぎない。放送記者は言う。 「10月からの受信料は、口座・クレジットで月払いの場合、地上契約で年1万4700円(月1225円)、衛星契約で年2万6040円(月2170円)になりました。今年9月まで総務大臣を務めた高市さんとしてはまだまだ足りないということなのでしょう。なにせ、歴代最長の総務大臣として、NHK改革に取り組んできたわけですから」

携帯の次はNHK

 高市氏の後継が武田良太代議士である。 「武田総務相も12日の衆院総務委員会で、『コロナ禍において国民のために何ができるか。家計負担を減らす受信料の値下げから着手するのが、公共放送の在り方だ』、『携帯電話(料金)の値下げの問題に取り組んでいた時、多くの国民から携帯電話よりNHKの受信料を考え直すべきだという意見が寄せられた』と発言しています。菅首相としては、携帯電話料金引き下げの次にNHK改革をやろうとしているようですね」

徴収に799億円

 そんな中で、高市議員の発言が注目されているのだ。「セイカイ発見TV」では受信料について、こう述べている。 高市:絶対、高いと思うんですよね。(アシスタントの女性に対し)2人とも、年間2万6040円払ってらっしゃると思うんです。集合住宅、コンドミニアム、マンションとかに住んではったら、最初からアンテナついてはるやないですか。衛星放送見ようが、見まいが、衛星受信料取られるんで、年間2万6040円払うてる。携帯電話は大手のサブブランドを使えば安いし、格安スマホでも安く使える。でも、NHKの受信料だけは定額ですか らね。これ、節約のしようがない。 ――さらに、その徴収のための経費に話が及ぶ。 高市:営業経費、高すぎますよね。7000億円の受信料集めるのに、700億円以上、集め る人にお金使うとる。集めるために、お金使うてしもうてる、と。 ――「キーパーソンに訊く!」では、より具体的になる。 高市:(中略)課題と考えているのが、2020年度予算で779億円にも上る「営業経緯の 高止まり」です。前年度の『2019年度決算』の「営業経費」は759億円でした。2019年度の「受信料収入」は7115億円でしたから、受信料のうち、10・6%を、受信料徴収するために使ってしまった計算になります。受信料の占める「営業経費(徴収費用)」の比率は、イギリスで2・7%、フランスで1・0%、ドイツで2・2%ですから、10%を超える日本は特に高額です。  約780億円とは、確かに高い。 「他国との比較は、放送文化の違いや、それぞれの国民と公共放送との信頼度などにもよりますから、一概に高い、安いは言えません。ただ、それでもNHKはお金をかけすぎで しょう。もっと削減すべきと誰もが思うはずです。NHKは口を開けば、公平性のために全世帯から徴収すると言うのですが、そのために759億円もの受信料を費やしているわけです。その経費を世帯支払い数の3769万世帯(19年度末)で割ると、1世帯あたりおよそ2000円かかっていることになります」  ならば、スクランブル化を実現して、見た分だけ支払うのが最も公平という声も。 「高市さんはスクランブル化には触れていませんね。決して技術的にできないことではないはずですが、NHKも前向きな発言をしたことがありません。まあ、固定収入が減るのがイヤなのでしょう。実はNHKでは、いまだに新入社員に、受信料の徴収体験研修を行 っています。NHKに入局すると、新人はまず地方放送局に赴任するのですが、その際に、記者もアナウンサーもこの研修を受けます。表向きの目的は、NHKの番組はもちろん、お前たちの給料も受信料で賄われていると教えるためということですが、受信料制度は不変という意識を教え込む狙いもあるようです」

 

無駄が多すぎ

 高市議員は「キーパーソンに訊く!」で、NHKの放送波(チャンネル数)の多さについても触れている。 高市:現在のNHKは、「地上テレビ」で2波(総合、教育)、「ラジオ」で3波(AM第1、AM第2、FM)、「衛星」で4波(BS1、BSプレミアム、BS4K、BS8K)の放送波を使用しています。私が大臣としてご一緒した3名のNHK会長に対しては、「本当にこれだけ多くの放送波が必要なのか。同じようなコンテンツが別々の放送波で重複している。整理できるものを検討してもらえないか」と、申し上げてきました。(中略)この「放送波の削減」実現できると、受信料引き下げに繋がる大きなコストカットの余地が生まれます。  NHKは8月に、BSの1波、ラジオの1波を削減する方針を発表したが、それでも多い。 「そもそも、こんなに多くのチャンネルを見たり、聴いたりすることなど不可能です。公共放送は、災害とニュースだけやっていれば十分という声もあります」  さらに、NHKの肥大化については、こう発言している。 高市:NHKの「子会社」は11社、「関連会社」は4社、「関連公益法人等」は9団体あります。(中略)NHKグループ全体の人員数は2020年度で10343名ですが、子会社や関連会社の業務内容を一覧しますと、「NHK本体では、一体何の業務をしておられるのか」と不思議になるくらい、多様な業務が展開されています。 「確かに、NHK本体の局員は何をしているのかと思うことがあります。最近、NHKでは外部の制作会社の作った番組が急激に増えています。『チコちゃんに叱られる!』だってそうです。いいコンテンツが適正価格で作られているなら結構ですが、野放図な広がり方をしているようにしか思えません。そもそもNHK本体と民間の制作会社は、直接契約 することはできません。間にはNHKエンタープライズなど子会社が入って契約するわけです。当然、エンプラにもお金が入るわけですから、これは中間搾取と言っていい。果たしてこれで適正価格と言えるのか、1万人以上いるNHKのあらゆるセクション、あらゆる人員が本当に必要なのか、精査する必要があると思います」  どうやらNHKには無駄が多すぎるようだ。無駄をなくしたら、受信料は一体いくらになるだろうか。高市議員はこう結んでいる。 高市:そもそも企業スポンサーが不要なのですから、民放と競って視聴率狙いの番組制作をする必要はないですし、民放や新聞社の業務を圧迫するような事業を行う必要もないはずです。NHKには「不断の改革」をしていただき、公共放送として付託された国民・視聴者の皆様の期待に応え、「在るべき方向」に向けて進んでいただきたいとの思いを日々強くしています。

林 復斎(はやし ふくさい)   日米和親条約

岩瀬 忠震(いわせ ただなり) 日米修好通商条約

 

・イギリスは最低最悪です。逆らうと危険です
・でも我々アメリカは善良で味方です。条約を結んで、仲良くしましょう。きちんと条約を結んで、イギリスの脅威を退けたいですね!
・貿易をきっちりすればむしろお得ですよ! さあ、怖がらないでやってみよう

いかにも怪しげな申し出ではありますが、実は、幕府側でもイギリスを最も警戒してましたので、納得できる話ではありました。

むろん、ハリスの言葉はすべてが事実ではなく、ハッタリや駆け引きもあります。
しかし、居並ぶ幕府閣僚は、その弁舌に圧倒されました。

岩瀬もまた、ハリスの言うことに納得ができました。
彼の頭の中は、交易によって利益を得ることで一杯です。

岩瀬は渋る幕閣を説得し、下田奉行・井上清直と共に、ハリスとの交渉に入ることを決めたのでした。

むろんそれは白洲次郎のごとく、タフな取り決めに挑むためでした。

 

我々は皆同じ、天地の間の人

後年、ハリスは、岩瀬・井上との交渉をこんな風に振り返っております。

「私はアメリカの利益も計ったが、一方で日本の利益も損じないように努力した。治外法権に関してはあの時点では仕方なかったが、自分も岩瀬も意図的に不平等にしたのではない。
関税は、私は自由貿易主義者だが、日本のためを思い、平均20パーセントとした。酒・煙草は35パーセントと重くした。
(中略)
議論のために、私の草案や原稿は真っ黒になるほど訂正させられ、主立った部分まで変えることすらあった。このような全権委員(岩瀬と井上清直)を持った日本は幸福である。彼らは日本にとって恩人である

あれっ??? と思いません?

ハリスらアメリカ人は、強引に、自分たちに都合のいい条件を押しつけ、幕府がハイハイ黙って頷いていた――わけではありませんでした。

むしろ真逆。

ハリスはしばしば、岩瀬に反論され、答えに窮することすらありました。
岩瀬に堂々と論破説得され、条文を何度も改めることになったのです。

日米修好通商条約/photo by World Imaging wikipediaより引用

岩瀬にしても、ハリスや外国人に対して気遣うようになりました。

ハリスは、攘夷のために日本の治安が悪いことを理解しておらず、しきりに旅行をしたがっていました。
それをうまく説得し、身柄の安全確保に気を遣っています。

続発する攘夷事件。
それを見聞きし、ハリスはようやく日本の危険性に気づくことになるのでした。

岩瀬とハリスの間には、偏見や敵意のかわりに、敬意がわいていました。
ハリスはじめ様々な外国人と接するうちに、こう確信するようになっていたのです。

「国は違えど、同じ人間だ。わかりあえないことはない」

時にハリスがヨーロッパ各国のことを悪く言うと、岩瀬がたしなめたほどです。

「ヨーロッパ人も同じ天地の間の人。我々と変わりはないでしょう」

ここまでの国際性を、数年間のうちに身につけた岩瀬。
その成長性は驚異的でした。

 

ユーモアと才知溢れる外交官

同時代、岩瀬と知り合った人はその才知に舌を巻き、絶賛していました。

橋本左内「急激激泉の如く、才に応じて気力も盛んに見えて、決断力もあり、知識もあったえ、断あり、識あり」
木村芥舟(摂津守)「資性明敏、才学超絶、書画文芸一として妙所至らざるなし」

岩瀬に魅了され、感心したのは日本人だけではありません。

ハリスは岩瀬のことを信頼していました。
ハリスだけではなく、他の国の外交官も、岩瀬を絶賛しました。

岩瀬と出会った、イギリスのエルギン伯爵の秘書であった、ローレンス・オリファント(イギリス、エルギン伯秘書)は、彼を絶賛しています。
「日本で出会った中でも最も愛想が良く、教養に富んだ人物だ」

ローレンス・オリファント/wikipediaより引用

英語の勉強を努力していた岩瀬は、オリファントの言うことをすぐさま覚えて、繰り返すことができたそうです。
食事に出た品目をすべて書き留め、覚えようともしていました。

オリファントと交渉する幕臣たちは、西洋料理に慣れており、特にハムとシャンパンには「猛然と襲いかかる」と形容されたほど気に入っていたようです。

「条約には、ハムとシャンパンの味がしないようにしないといけませんね」
岩瀬がそうジョークを飛ばします。
ジョークを飛ばすとき、岩瀬は茶目っ気たっぷりに瞬きするので、オリファントにはすぐにわかりました。

そのユーモアセンスは、オリファント以下相手に大受けで、交渉の場を和ませました。
しかも2人は大変陽気な性格であったようで、お互いジョークを言い合い、楽しく仕事ができたようです。
岩瀬は交渉の際には椅子を準備する等、よく気配りもしていました。

もちろんただジョークが好きなだけではなく、岩瀬はいざ交渉に入るとズバリと要点を衝いてきます。

「彼の観察は常に鋭く、正鵠を射ている。それでいて、行う時は謙遜するのだ」
その頭脳に対し、大いに感心していたのでした。

岩瀬はオリファントたちを案内して、浅草観光に向かい、射的や花屋敷を楽しんでおります。
送別の宴では、将軍・徳川家定ヴィクトリア女王に向かって乾杯し、別れを惜しみました。

岩瀬から脇差まで贈答されたオリファントは、交渉や会食を通じてこう確信したと言います。

「今、日本人は西洋文明の光に接した。これからはきっと取り入れようとするだろう」

 

多くの大名には理解できない条約内容

安政4年(1857年)末。
いよいよ条約締結も見えて来たころ、岩瀬は大名を集め、条約の意図をプレゼンしました。

「なるほど、今は条約締結しかありませんね。開国した上で、今後を考えねばならないでしょう」
「ついにこの時が来たか。我が藩の優れた産品ならば、海外貿易でも十分高評価が得られるだろう」

これが理想の反応ですね。
しかしこういう反応は、賢明で知られ、開国論を理解し人の意見をよく聞いた松平春嶽や、この展開を見据えて輸出用薩摩切子を開発していた島津斉彬のような、ごく一部のデキる人たちだけでして。

「えっ……どういうこと?」
「財政カツカツなのに、輸出品作れって言われても、わからないし。外国人って何が欲しいのか想像つかないし!」

大半の大名にとっては、何がなんだかわからないわけです。

「なぜ異人と取引に応じないといけないのだ! ふざけるな!!」
「条約なんて絶対に駄目だ! 締結するなら切腹する!!」

そう大騒ぎする過激派まで出る始末。
なんとか堀田らが説得したものの、ここで窮地に立たされます。

「まずい。ハリスにはそろそろ締結できそうだと言っているのに、大名がこれではできない」
ここで堀田や岩瀬らは、禁断の手を思いついてしまったのです。

「そうだ、朝廷から勅許をもらえば、大名も黙るはず!」
岩瀬は井上は、残念ながら、京都を甘く見ておりました。

ハリスに向かってこう言いました。
「朝廷なんて貧しくて、坊主や寺社の街で何もないんですよ。ゼロの街です」
とまぁナメきっていたのです。

ハリスはいぶかしく思い、天皇崇拝に関しての知識を語りました。
が、二人とも一笑に付してしまいます。

こうした岩瀬の言動を見ていると、彼は頭の回転が速すぎたのかもしれない、と感じてしまいます。
松平春嶽や堀田正睦など、荒波に飲まれながら結果を出してきた人物にはスグに伝わる話でも、他の凡人にはそう簡単ではない――ことが理解できない。

それが裏目に出てしまいました。

 

朝廷は、もっと理解できなかった……

堀田正睦と岩瀬らが足を踏み入れた京都。
そこに待ち受けていた孝明天皇はじめ皇族と公卿は、開国について全く理解できていませんでした。

孝明天皇/wikipediaより引用

「異人は嫌どす。相手に開国して、異人が都に入り込んで来るようなことがあれば、どないしたらええ?」

この頃の京都は、終始こんな調子でして。
異人は人間というよりも、得体の知れない怪物、それこそ犬猫あるいは鬼や天狗と勘違いしているのでは?というほど怯えているのです。

ただし、攘夷派でも意見は割れておりまして。

穏健派:孝明天皇はじめ皇族や上流貴族・幕府と協調路線、暴力反対(→公武合体派へ)
過激派:鬱憤が溜まっている下流貴族・幕府に反発(→尊皇攘夷過激派へ)

ともかく、朝廷の理解がそこまで酷いと思ってなかった岩瀬は、必死でプレゼンを行います。
「……と、このようにアメリカ、イギリス、フランス、ロシア等が迫っており……貿易は国を豊かにすることができ……」

しかし反応は……
「ところで、キリシタンバテレンゆう国はどこにありますのえ?」
と、何もわかっていない人。

「異人が都に入ってくると思うと、もう怖くて、食事も喉を通らへんし、夜も眠れへん。なんとかしとくれやす」
と、そんなふうにひたすら怯えている人。

「アホくさ。今更公卿に政治のことなんか言われてもしらへん。公家にできるわけあらへんやろ」
と、しらけきってやる気のない人。

「ちょうどええわ。ここいらでうちの力、見せときまひょ」
と、露骨に他の公卿相手に牽制を始める人。

「まっとったで、この時を! 今こそ幕府にとことん反対して、思い知らせてやるさかい!」
と、積年のつもりに積もった鬱憤を、ここぞとばかりに幕府にぶつけてやろうと荒ぶる人……。

いずれにせよ話になりません。絶望的です。
彼らの建白書はこんな調子でして。

・輝かしい神の国である日本が、穢らわしい蛮夷の国と同列に交わるとは国を穢すもの。天照大神以来の先祖に申し訳がたたない
・堂々たる皇国が蛮夷の脅しに屈して頭を下げて対応し、その言い分に屈するとは末代までの恥。条約に反対してこそ、人心はつなぎとめられる
・蛮夷どもは、口では調子のいいことを言いながら強欲で搾取しようとし、我が国が拒めば武力で脅してくるに違いない。彼らの目的は我々を騙してキリスト教徒にすることで、そのうち日本を占領するつもりだ! もし戦争になったら天皇はどこに逃げて、幕臣はどこに住むつもりか

堀田はこうしたやりとりに、愕然として震えました。
「堂上正気の沙汰とは存ぜられず……(朝廷の公卿どもは頭ぶっ壊れてんじゃねえの!?)」

それでも堀田が交渉を続けると、こんな答えすら返ってきました。
「まあいろいろ意見があるやろけど。どうしても決められへんかったら、伊勢神宮でおみくじでも引いて決めまひょ」
「お、お、おみくじ……」

もはや限界。江戸に戻って決めるしかない。
堀田はそう考えたのです。

要するにこれは、堀田や岩瀬らと、朝廷の人々のレベルが違い過ぎでして。
話がかみ合うはずもありません。

こんな調子で、もし朝廷が外国と交渉していたらどうなっていたことでしょう?

そして悲劇的なことに、幕末尊王攘夷派と呼ばれた人々は、大体がこうした公家と同程度の知識と意見しかないところからスタートしたのでした。
しかも、公卿よりずっと暴力的で、血に飢えていて、鬱憤晴らしをしたいと考えている。
危険な存在であったのです。

途中で攘夷の非を悟った者もおりましたが、そうではない人もいたわけです。

 

一橋派は改革の旗印だった

こんな大変な時代こそ、一致団結して国難に当たるべき――。
と、そういう方向へ素直に向かわないのが、幕末という時代のややこしさです。

大名たちの中でも、トップレベルの知能を持つ、島津斉彬、松平春嶽、伊達宗城ですら、そういう考えには至りませんでした。

「国を一致団結させるため、次の将軍は強い人がいいですね!」
と、開国外交そっちのけで将軍継嗣問題に力を入れてしまったのです。

そしてこのことが、幕末の情勢を極めて悪い方向に押し流してゆきます。

岩瀬も、一橋慶喜を将軍とすることは好意的に見ていました。
一橋派の橋本左内とは、肝胆相照らす仲。岩瀬は彼らに取り込まれていくようになります。

その岩瀬が説得したため、堀田正睦までもがだんだんと消極的な一橋派になりつつありました。
斉昭は自分を幕政から追い出した堀田が大嫌いでしたので、岩瀬としてはこの二人を和解させたかったのかもしれません。

ここで考えていてもよくわからないのが、どうして人々は政治の一致団結を見出してまで、
【一橋派に期待をしたか?】
という点です。

徳川慶喜/wikipediaより引用

このあたりの動機がよくわからないまま、一橋派と南紀派の争いがあった、と言われてしまうのですが。
どうしてそこまで一橋慶喜の擁立を重視したのか。

我が子が将軍になる徳川斉昭。
政権中枢に食い込めることが確実であった島津斉彬、松平春嶽およびその家臣の動機は理解できます。

しかし、中央から遠い吉田松陰ですら一橋派勝利を熱望していたのはナゼでしょうか。

思うにこれは
【期待感】
ではないだろうか?と思うことがあります。

血筋がより家康に近いとかではなく、国内屈指の実力者たちが推薦する人物をトップに据える、これまでとは違った政治のダイナミズム――という理屈です。

一橋派にあるのは「=改革派」というイメージ。

慶喜の方が年長であるとか、聡明であるとか、そういった彼自身の能力ではなく、フレッシュな期待感がむしろ先に来ていたのではないでしょうか。

ただし、冷静に考えると一橋派にはミスがありました。

・徳川斉昭が不人気だった
特に将軍の意志決定に対して力を持つ大奥から嫌われていたことは、大きな障害でした

・徳川斉昭が開国反対で攘夷派であり、その子である慶喜も同じだと考えられていた
そのため「斉昭の子・慶喜が将軍になったら、強引な攘夷をして危険だ」と考えてしまう者もいたのです。斉昭ものちに開国に賛成しており、慶喜は父と違って攘夷とは距離を置いていましたが、このイメージの強さは悪影響をおよぼしました

・正統性の薄さ
血縁的な正統性となると、慶喜の場合はかなり劣っていました。これからの政治は血縁的正統性より資質だ、と言いたかったのかもしれませんが、正統性を重んじる立場からすれば認めるわけにはいきません

・タイミングの悪さ
改革を迫るということは悪くないでしょうが、よりにもよって条約締結をしている最中に政治工作をしてしまったことは、「この大事な時期に、和を見出すような行動をしている」と見られても仕方ないことでした

・朝廷に工作を仕掛けた
将軍継嗣に納得できない、堀田正睦から幕政から追い出されたことに腹を立てた徳川斉昭は、朝廷に対して工作を仕掛けます。この工作は、天皇以下公卿が将軍継嗣に関してはまったく感心がなかったため不発に終わり、しかも大きなマイナスの影響を与えることになります

一橋派は、国を変えたい大きな志があったのだとは思います。
トップクラスの頭脳も揃っていました。

しかし、彼らはこうしたミスを犯していたのです。

一橋派に賛同していた阿部正弘が急死したことで、風向きは不利な方向に向かいます。
そして彼らの敗北を決定的にする後任者が、老中として就任するのです。

 

井伊直弼との対立

一橋派とアンチ一橋派(南紀派)の暗闘は続いていました。
そんな最中、井伊直弼が老中に就任します。

岩瀬は、井伊直弼のことをさしたる政治家ではないと見なしていました。

この過小評価が失敗だったかもしれません。

 

井伊は、徳川家の先鋒であることを常に意識する、頑固でパワー溢れる人物でした。
そのことを周囲が知るのは、彼が就任してからのこと。
それまでは、無害な男だと考えられていたのです。

井伊は紀州家の徳川慶福(後の徳川家茂)を跡継ぎとすることを発表。
一橋派の野望は打ち砕かれるのでした。

 

条約締結の覚悟

そんな中、岩瀬は奮闘していました。
ハリスは煮詰めた条約が未だに締結的ないことに、苛立ちを感じています。
引き延ばしは最早できません。

岩瀬が調印しようとすると、井伊の配下・宇津木六之丞景福は懸念を表明しました。

「あなたの政敵は、あなたこそが勅許を取らずに条約を締結したと責め立てるのではないでしょうか? 慎重になられたほうが……」
「構わん。責任は私一人がとる」

この懸念は大当たり。
尊王攘夷派や薩摩藩、長州藩、その流れを汲む明治新政府も、幕府の行動を責め立てました。

「不平等条約を、勅許なしで撮った弱腰幕府! 異人の言いなりになった幕府! 無能な幕府のせいで、不平等条約改正にどれだけ苦労したと思うのだ!」

冒頭で述べた通り、このことについては、もっと冷静に考える必要がありそうです。

井伊にせよ、岩瀬にせよ、こうした糾弾は覚悟の上でした。
そのリスクをわかってないワケじゃない。
それでも締結を進めなければならなかった。

岩瀬は、橋本左内宛ての書状で、
【自分たちは王倫と秦檜だと思われるだろう、この先大変な重罪を問われるかもしれない】
とこぼしています。
※王倫と秦檜:南宋の政治家。異民族相手に屈辱的な和議を結んだ奸臣として、後世糾弾されました。

しかし岩瀬の転落は、条約とは関係ないところで訪れました。
岩瀬は彼を嫌った井伊によって、作事奉行に配置転換されるのです。

要は左遷でした。

 

転落、不遇の死

岩瀬の決定的な破滅は、条約とは関係ないところで訪れます。

井伊は、水戸藩にくだされた「戊午の密勅」に一橋派が関与したことに激怒、処断を決意したのです。
この国難の最中、倒幕のキッカケとなりかねない密勅を、ドサクサに紛れて出したのです。

井伊の怒りは、「安政の大獄」という政治弾圧となって炸裂します。

その結果……。
橋本左内、斬首。
吉田松陰、斬首。

彼ら無念の若者に隠れて目立ちませんが、岩瀬の処分も、日本にとっては大きな痛手でした。
当時の日本でトップクラスの頭脳を持つ、敏腕外交官・岩瀬忠震は、永蟄居処分となったのです。
いわば政治的な死。

これほどの才人には過酷な措置でした。
一方、井伊としても大いに譲歩したつもりであったのです。

「みだりに将軍の後継者問題に口を挟んだことは、死罪が相応である。ただし、岩瀬は条約交渉に功があるため、一等減じよう」
として、岩瀬は江戸の向島に隠居し、書画を楽しむ日々に入ります。

そして文久元年(1862年)に病死。
享年44。

林 復斎(はやし ふくさい)   日米和親条約

岩瀬 忠震(いわせ ただなり) 日米修好通商条約

 

幕末ペリーの来航で初めて黒船を目の当たりにした幕府はビックリして大混乱、その挙句開国を迫られアメリカの武力に屈し開国した。

 

幕府の弱腰外交と今でも揶揄されている事件ですが、本当に弱腰だったのか本当にペリーによって開国させられたのか?

 

その答えを導き出してくれる男がいます。それは林羅山から数えて11代目にあたる儒学者林大学頭(だいがくのかみ)号は復斎。

 

 彼の冷静沈着にしてタフなネゴシエーションが、どのようにして幕末日本を救ったのか!当時の幕府そして林大学頭は手強い相手だったようですよ。

ペリー来航の目的は?

 

1853年7月アメリカ東インド隊司令長官マシュー・ペリー率いる4隻の蒸気船が、アメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀にやって来ます。

 

しかしこれは親書とは名ばかりで早い話しが、アメリカが幕府に要求を突きつけたと言ってもいいでしょうね。

アメリカの要求とは次の3つ。

 

1. 日本に漂着した漂流民の保護

2 .    外国船への食料及び燃料の供給

3 .  アメリカとの交易

 

これは実質的な開国の要求に他なりませんが、アメリカとしては捕鯨に必要な大量の燃料や食料の補給のための寄港地が必要だったんですね。

ペリーは幕府に対し回答の期限を翌年5月とし「まあよ〜く考えときや!」と言い残し一旦引き上げます。

 

 

幕府の対応

 

アメリカの要求のうち1と2についてはこれまでにも長崎で行って来たことで、交渉の席でそう伝えることは出来ますが問題は3の交易ですね。

 

これに関しては簡単に結論を出せるものではありません。そして幕府がこの困難な交渉の全権に選んだのが昌平坂学問所の塾頭である林大学頭でした。

ペリー再来航でついに対決のゴングが鳴る!

 

翌年ペリーは予定より3ヶ月も早く再度日本を訪れます。前年4隻だった船は9隻に増やし並々ならぬ気合いで、交渉に入る前幕閣に対して決意を披露しプレッシャーを掛けて来ます。

 

「もし条約の締結がならない場合は戦争になるかも知れんよ」さらに「こっちは近海に50隻の軍艦を配備してありカリフォルニアにはもう50隻用意してある。これら100隻は20日もあれば到着することを忘れないようにね!」

林「おたくの要求のうち1と2に関しては異存はない。ただ3については国が決めたことなので絶対に無理!」ここでペリーがいきなりブチ切れます。

 

ぺ「アメリカはずっと人命を尊重して来たが、それに引きかえ日本は難破船を助けずに発砲し漂流民を罪人扱いしてるじゃんかよ!そっちが態度を改めんならこっちにも覚悟があるぞ!」

 

周りの役人はこれを聞いて青ざめたそうですが、林はこの恫喝も鉄壁のディフェンスでするりとかわします。

 

林「戦争するって?ただあなたの言うことは事実でなく思い込みですよ」ペリーが問題にしたのは「異国船打払令」のことですが、この法律はペリー来航の11年前に廃止され当時は「薪水給与令」という燃料や水の補給を認める法令が施行されていました。

 

そして漂流民を罪人扱いしたというのは漂着したアメリカの捕鯨船ラゴダ号事件のことですが、これに対しても林は冷静にペリーの認識の誤りを指摘します。

 

林「漂流民の中には船員同士で殺人事件を起こすなどワルい輩も多く、しばらく拘禁したがそいつらが罪人扱いされたとデタラメを言い回った結果ですよ、日本が非道を行うことは絶対にない。ないんだからアメリカと戦争する理由にはならんでしょ?」

 

はい!論破!

 

机を叩いたり腰のサーベルに手をかけるほど激昂していたペリーも、ここまで動じることなく冷静に論破されるともう二の句が継げず。

 

ぺ「いや・・・その・・・アレだ。そこら辺りをきちんとしてくれるなら・・・もう言うことはないが・・・」

 

当時アメリカやイギリスはアジア各国で恫喝外交を繰り広げ、日本でもそのやり方が通用すると思っていたんでしょうね。

 

ところがそれに動じることなく冷静に事実を積み上げて相手を論破していく林。幕府の他の役人ではおそらくこうは行かなかったでしょう。よほど腹の据わった人間だったようですね。

 

そしてここからの交渉で林大学頭による論破の嵐が吹き荒れます!

 

第二回交渉開始

 

第二回はいよいよアメリカにとって本来の目的である交易について交渉が始まります。第一回の恫喝が通じないと分かったペリーは一転して、交易によって日本が得るメリットを強調します。

 

ぺ「交易は国力を強くするのにやらなきゃ損ですぜ」

 

林「日本は国産の産物で充分足りているのでその必要はありません。しかも法律で決められてますんで悪しからず」

 

しかしこれには理由があります。それは「アヘン戦争」。イギリスと交易を始めた清に大量のアヘンが流出、これに抗議した清とイギリスの間に戦争が勃発。

 

破れた清は莫大は賠償金を課せられ香港を割譲するハメになります。交易がアヘンの流入そして戦争までつながることを日本は分かっていたんですね。

 

 

交易だけはどうしても避けなければならない林は、ここでまたペリーをやり込めます。

林「あなたは人命尊重を第一とおっしゃったが人命と交易は関係ないでしょ?じゃあこのあたりでお開きと言うことで」

 

ぺ「それは・・・ごもっとも。交易の件は主張しないでおこうかなと・・・」

 

そして議題は次へと移ります。しかしペリーもしつこいねぇ。

 

新たな開港地を求める

 

次にそれまで長崎一港だった開港地を増やすようペリーは要求します。 

 

ぺ「長崎は不便だから燃料や水を受け取る港をあと5、6ヶ所増やして欲しいんだが」開港地が増えると交易につながるとの狙いですが、そんなことは林は百も承知です。

 

林「長崎が不便ならいずれ東南の港を増やすことにしますね」

ぺ「東南とはどこです?」

林「それはまた調べてからと言うことで」

ぺ「あなた全権でしょ?即答してくれや」

またまた論破!ペリー固まる!

 

ぺ「そ、それは確かに書いてはないけど・・・じゃあ3日待つからその時に答えを」

林「7日後に答えは出すんでヨロシク!」

 

もう完全に林のペースですね。

 

第三回交渉

 

ぺ「新たな開港地はどこに決まったのか」

林「南は下田北は函館です!以上!」

 

ぺ「いや・・・5、6ヶ所って言ってたんですが・・・」

林「ハァ?なに?」

 

ペリーさん、あんたの負け!

 

第四回交渉

 

開港地の外国人の行動範囲についても。

ぺ「港から十里四方は行動することを認めてもらいたい」

 

林「燃料の薪や水を得るためなら町内だけで充分でしょ?何の用でそんなに遠くまで行きたいの?まぁおまけして七里ならいいことにしておくか」

 

林無双!!

 

そして遂に1854年3月3日日米和親条約が調印されます。そこには交渉で決まったことのほか日米の友好が記されています。

 

この和親条約では日本が正式に開国したとは言えませんが、これまではペリーの恫喝によって開国した弱腰外交だと言われてましたね。

 

そう言われ出したのは明治になってから、やはり歴史は勝者によって作られるものなんですね。

 

まとめ 太平の眠りに落ちていなかった日本

 

林大学頭とペリーの交渉は今では考えられないほど、日本の外交的勝利で終わりましたがその要因は第一に情報戦に勝利したことが大きいと思われます。

 

実はオランダのバタビアという植民地経由で、ペリー艦隊の来航目的や人員に至るまで細かい情報がすべて日本に渡っていました。情報の大切さを知っていたのはアメリカよりも日本の方だったんですね。

 

ただ情報を生かすも殺すも最後はやはりマンパワーが必要です。その点で言えばこのとき林大学頭という人がいたことは日本にとって幸いだったと思います。

圧倒的論破!幕末ペリーを黙らせた林大学頭の交渉術!

歴史もの 人物評伝

スポンサーリンク

f:id:rintaro95:20170908172901j:plain


  

 

「太平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」

 

幕末ペリーの来航で初めて黒船を目の当たりにした幕府はビックリして大混乱、その挙句開国を迫られアメリカの武力に屈し開国した。

 

幕府の弱腰外交と今でも揶揄されている事件ですが、本当に弱腰だったのか本当にペリーによって開国させられたのか?

 

その答えを導き出してくれる男がいます。それは林羅山から数えて11代目にあたる儒学者林大学頭(だいがくのかみ)号は復斎。

 

 彼の冷静沈着にしてタフなネゴシエーションが、どのようにして幕末日本を救ったのか!当時の幕府そして林大学頭は手強い相手だったようですよ。

 

ペリー来航の目的は?

 

1853年7月アメリカ東インド隊司令長官マシュー・ペリー率いる4隻の蒸気船が、アメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀にやって来ます。

 

しかしこれは親書とは名ばかりで早い話しが、アメリカが幕府に要求を突きつけたと言ってもいいでしょうね。

 

 

        f:id:rintaro95:20170908172937j:image

 

 

アメリカの要求とは次の3つ。

 

1. 日本に漂着した漂流民の保護

2 .    外国船への食料及び燃料の供給

3 .  アメリカとの交易

 

これは実質的な開国の要求に他なりませんが、アメリカとしては捕鯨に必要な大量の燃料や食料の補給のための寄港地が必要だったんですね。

 

 

        f:id:rintaro95:20170908172956j:image

 

 

ペリーは幕府に対し回答の期限を翌年5月とし「まあよ〜く考えときや!」と言い残し一旦引き上げます。

 

 

幕府の対応

 

アメリカの要求のうち1と2についてはこれまでにも長崎で行って来たことで、交渉の席でそう伝えることは出来ますが問題は3の交易ですね。

 

これに関しては簡単に結論を出せるものではありません。そして幕府がこの困難な交渉の全権に選んだのが昌平坂学問所の塾頭である林大学頭でした。

 

     

        f:id:rintaro95:20170908173105j:image

 

 

なぜ国の命運を賭けた交渉に学者が?普通そう考えますよね。当時もそんな意見が多かったそうですがこれには幕閣の保身に絡んだ事情がありました。

 

つまり失敗しても学者がやったことだからと、平たく言えばナアナアで済まそうと考えていたわけですね。

 

それを知ってか知らずか林大学頭は交渉の最前線に立ち、弱腰外交とはとても呼べないようなタフなネゴシエーションをペリーとの間に繰り広げます。

 

頑張れ〜!

 

ペリー再来航でついに対決のゴングが鳴る!

 

翌年ペリーは予定より3ヶ月も早く再度日本を訪れます。前年4隻だった船は9隻に増やし並々ならぬ気合いで、交渉に入る前幕閣に対して決意を披露しプレッシャーを掛けて来ます。

 

「もし条約の締結がならない場合は戦争になるかも知れんよ」さらに「こっちは近海に50隻の軍艦を配備してありカリフォルニアにはもう50隻用意してある。これら100隻は20日もあれば到着することを忘れないようにね!」

 

   

       f:id:rintaro95:20170908173133j:image

 

 

完全に恫喝ですが100隻云々はペリーのブラフだった可能性が高いですね。当時も今も国家間の条約交渉において圧倒的軍事力を背景に臨むのは外交の基本です。

 

交渉当日アメリカ側はなんと466名という大人数で横浜村に上陸します。しかも9隻の軍艦は大砲を向けていることに幕府の役人はかなりビビったようですね。

 

 しっかりせんかい!

 

いよいよ交渉開始

 

「墨夷応接録」に記されたペリーと林大学頭の交渉はこのようなものでした。

 

林「遠路はるばるご苦労さんでした」林のねぎらいの軽いジャブに対してペリーはいきなり腰の入った重い強打を繰り出します。

 

ペリー(以下ぺ)「今日のお祝として将軍に21発あなたに18発、さらに初めての上陸記念に18発祝砲をご馳走したい・・・ニヤリ」典型的砲艦外交ですね。

 

恐れく空砲でしょうが50発以上の砲撃はさぞ不気味だったでしょうね。してやったりのペリーですが、林は顔色ひとつ変えず続けます。

 

    

      f:id:rintaro95:20170908173200j:image

 

 

林「おたくの要求のうち1と2に関しては異存はない。ただ3については国が決めたことなので絶対に無理!」ここでペリーがいきなりブチ切れます。

 

ぺ「アメリカはずっと人命を尊重して来たが、それに引きかえ日本は難破船を助けずに発砲し漂流民を罪人扱いしてるじゃんかよ!そっちが態度を改めんならこっちにも覚悟があるぞ!」

 

周りの役人はこれを聞いて青ざめたそうですが、林はこの恫喝も鉄壁のディフェンスでするりとかわします。

 

林「戦争するって?ただあなたの言うことは事実でなく思い込みですよ」ペリーが問題にしたのは「異国船打払令」のことですが、この法律はペリー来航の11年前に廃止され当時は「薪水給与令」という燃料や水の補給を認める法令が施行されていました。

 

そして漂流民を罪人扱いしたというのは漂着したアメリカの捕鯨船ラゴダ号事件のことですが、これに対しても林は冷静にペリーの認識の誤りを指摘します。

 

林「漂流民の中には船員同士で殺人事件を起こすなどワルい輩も多く、しばらく拘禁したがそいつらが罪人扱いされたとデタラメを言い回った結果ですよ、日本が非道を行うことは絶対にない。ないんだからアメリカと戦争する理由にはならんでしょ?」

 

はい!論破!

 

机を叩いたり腰のサーベルに手をかけるほど激昂していたペリーも、ここまで動じることなく冷静に論破されるともう二の句が継げず。

 

ぺ「いや・・・その・・・アレだ。そこら辺りをきちんとしてくれるなら・・・もう言うことはないが・・・」

 

当時アメリカやイギリスはアジア各国で恫喝外交を繰り広げ、日本でもそのやり方が通用すると思っていたんでしょうね。

 

       f:id:rintaro95:20170908173105j:image

 

ところがそれに動じることなく冷静に事実を積み上げて相手を論破していく林。幕府の他の役人ではおそらくこうは行かなかったでしょう。よほど腹の据わった人間だったようですね。

 

そしてここからの交渉で林大学頭による論破の嵐が吹き荒れます!

 

第二回交渉開始

 

第二回はいよいよアメリカにとって本来の目的である交易について交渉が始まります。第一回の恫喝が通じないと分かったペリーは一転して、交易によって日本が得るメリットを強調します。

 

ぺ「交易は国力を強くするのにやらなきゃ損ですぜ」

 

林「日本は国産の産物で充分足りているのでその必要はありません。しかも法律で決められてますんで悪しからず」

 

       

       f:id:rintaro95:20170908173510j:image

 

 

しかしこれには理由があります。それは「アヘン戦争」。イギリスと交易を始めた清に大量のアヘンが流出、これに抗議した清とイギリスの間に戦争が勃発。

 

破れた清は莫大は賠償金を課せられ香港を割譲するハメになります。交易がアヘンの流入そして戦争までつながることを日本は分かっていたんですね。

 

 

交易だけはどうしても避けなければならない林は、ここでまたペリーをやり込めます。

林「あなたは人命尊重を第一とおっしゃったが人命と交易は関係ないでしょ?じゃあこのあたりでお開きと言うことで」

 

ぺ「それは・・・ごもっとも。交易の件は主張しないでおこうかなと・・・」

 

 

       f:id:rintaro95:20170908173528j:image

 

 

そして議題は次へと移ります。しかしペリーもしつこいねぇ。

 

新たな開港地を求める

 

次にそれまで長崎一港だった開港地を増やすようペリーは要求します。 

 

ぺ「長崎は不便だから燃料や水を受け取る港をあと5、6ヶ所増やして欲しいんだが」開港地が増えると交易につながるとの狙いですが、そんなことは林は百も承知です。

 

林「長崎が不便ならいずれ東南の港を増やすことにしますね」

ぺ「東南とはどこです?」

林「それはまた調べてからと言うことで」

ぺ「あなた全権でしょ?即答してくれや」

 

       

       f:id:rintaro95:20170908173829j:image

 

 

林の言質を取ろうと必死のペリーですがこれも林は軽くやり込めます。

 

林「そんな無理なことを。それほど増やして欲しいなら何故去年の親書に書いてないの?長崎で文句ないと思ってたけど?」

 

またまた論破!ペリー固まる!

 

ぺ「そ、それは確かに書いてはないけど・・・じゃあ3日待つからその時に答えを」

林「7日後に答えは出すんでヨロシク!」

 

もう完全に林のペースですね。

 

第三回交渉

 

ぺ「新たな開港地はどこに決まったのか」

林「南は下田北は函館です!以上!」

 

ぺ「いや・・・5、6ヶ所って言ってたんですが・・・」

林「ハァ?なに?」

 

ペリーさん、あんたの負け!

 

第四回交渉

 

開港地の外国人の行動範囲についても。

ぺ「港から十里四方は行動することを認めてもらいたい」

 

林「燃料の薪や水を得るためなら町内だけで充分でしょ?何の用でそんなに遠くまで行きたいの?まぁおまけして七里ならいいことにしておくか」

 

林無双!!

 

そして遂に1854年3月3日日米和親条約が調印されます。そこには交渉で決まったことのほか日米の友好が記されています。

 

この和親条約では日本が正式に開国したとは言えませんが、これまではペリーの恫喝によって開国した弱腰外交だと言われてましたね。

 

そう言われ出したのは明治になってから、やはり歴史は勝者によって作られるものなんですね。

 

まとめ 太平の眠りに落ちていなかった日本

 

林大学頭とペリーの交渉は今では考えられないほど、日本の外交的勝利で終わりましたがその要因は第一に情報戦に勝利したことが大きいと思われます。

 

実はオランダのバタビアという植民地経由で、ペリー艦隊の来航目的や人員に至るまで細かい情報がすべて日本に渡っていました。情報の大切さを知っていたのはアメリカよりも日本の方だったんですね。

 

ただ情報を生かすも殺すも最後はやはりマンパワーが必要です。その点で言えばこのとき林大学頭という人がいたことは日本にとって幸いだったと思います。

 

     

事実ペリーは日記に交渉では終始林の人間力に圧倒されたと記しているように、林という人物はどんなときでも冷静さを失わず常に論理的に交渉に当たっています。

 

条約調印後ペリーは林にこんな言葉をかけたそうです。

「あなたの国の厳しい国法は聞いてはいたが、このような親睦を結ぶことが出来た。今後日本が外国と戦争になったときは軍艦大砲を持って加勢しよう」

 

林は深くこうべを垂れ「ご好意かたじけない」と答えたそうです。ペリーやハリスを知ってはいても林大学頭を知っている人はどれくらいいるんでしょうか?もっと多くの人に知られるべき人物だと思います。

 

交渉前後半年間日本に滞在したペリーは日本の職人の技術力や、庶民の探究心の強さに驚愕し「日本人がひとたび文明世界の技能を手に入れれば強力なライバルになるだろう」という言葉を残しています。

 

そして交渉を勝利に導いた林大学頭は条約調印から5年後、牛込の屋敷で死去享年60。