林 復斎(はやし ふくさい)   日米和親条約

岩瀬 忠震(いわせ ただなり) 日米修好通商条約

 

・イギリスは最低最悪です。逆らうと危険です
・でも我々アメリカは善良で味方です。条約を結んで、仲良くしましょう。きちんと条約を結んで、イギリスの脅威を退けたいですね!
・貿易をきっちりすればむしろお得ですよ! さあ、怖がらないでやってみよう

いかにも怪しげな申し出ではありますが、実は、幕府側でもイギリスを最も警戒してましたので、納得できる話ではありました。

むろん、ハリスの言葉はすべてが事実ではなく、ハッタリや駆け引きもあります。
しかし、居並ぶ幕府閣僚は、その弁舌に圧倒されました。

岩瀬もまた、ハリスの言うことに納得ができました。
彼の頭の中は、交易によって利益を得ることで一杯です。

岩瀬は渋る幕閣を説得し、下田奉行・井上清直と共に、ハリスとの交渉に入ることを決めたのでした。

むろんそれは白洲次郎のごとく、タフな取り決めに挑むためでした。

 

我々は皆同じ、天地の間の人

後年、ハリスは、岩瀬・井上との交渉をこんな風に振り返っております。

「私はアメリカの利益も計ったが、一方で日本の利益も損じないように努力した。治外法権に関してはあの時点では仕方なかったが、自分も岩瀬も意図的に不平等にしたのではない。
関税は、私は自由貿易主義者だが、日本のためを思い、平均20パーセントとした。酒・煙草は35パーセントと重くした。
(中略)
議論のために、私の草案や原稿は真っ黒になるほど訂正させられ、主立った部分まで変えることすらあった。このような全権委員(岩瀬と井上清直)を持った日本は幸福である。彼らは日本にとって恩人である

あれっ??? と思いません?

ハリスらアメリカ人は、強引に、自分たちに都合のいい条件を押しつけ、幕府がハイハイ黙って頷いていた――わけではありませんでした。

むしろ真逆。

ハリスはしばしば、岩瀬に反論され、答えに窮することすらありました。
岩瀬に堂々と論破説得され、条文を何度も改めることになったのです。

日米修好通商条約/photo by World Imaging wikipediaより引用

岩瀬にしても、ハリスや外国人に対して気遣うようになりました。

ハリスは、攘夷のために日本の治安が悪いことを理解しておらず、しきりに旅行をしたがっていました。
それをうまく説得し、身柄の安全確保に気を遣っています。

続発する攘夷事件。
それを見聞きし、ハリスはようやく日本の危険性に気づくことになるのでした。

岩瀬とハリスの間には、偏見や敵意のかわりに、敬意がわいていました。
ハリスはじめ様々な外国人と接するうちに、こう確信するようになっていたのです。

「国は違えど、同じ人間だ。わかりあえないことはない」

時にハリスがヨーロッパ各国のことを悪く言うと、岩瀬がたしなめたほどです。

「ヨーロッパ人も同じ天地の間の人。我々と変わりはないでしょう」

ここまでの国際性を、数年間のうちに身につけた岩瀬。
その成長性は驚異的でした。

 

ユーモアと才知溢れる外交官

同時代、岩瀬と知り合った人はその才知に舌を巻き、絶賛していました。

橋本左内「急激激泉の如く、才に応じて気力も盛んに見えて、決断力もあり、知識もあったえ、断あり、識あり」
木村芥舟(摂津守)「資性明敏、才学超絶、書画文芸一として妙所至らざるなし」

岩瀬に魅了され、感心したのは日本人だけではありません。

ハリスは岩瀬のことを信頼していました。
ハリスだけではなく、他の国の外交官も、岩瀬を絶賛しました。

岩瀬と出会った、イギリスのエルギン伯爵の秘書であった、ローレンス・オリファント(イギリス、エルギン伯秘書)は、彼を絶賛しています。
「日本で出会った中でも最も愛想が良く、教養に富んだ人物だ」

ローレンス・オリファント/wikipediaより引用

英語の勉強を努力していた岩瀬は、オリファントの言うことをすぐさま覚えて、繰り返すことができたそうです。
食事に出た品目をすべて書き留め、覚えようともしていました。

オリファントと交渉する幕臣たちは、西洋料理に慣れており、特にハムとシャンパンには「猛然と襲いかかる」と形容されたほど気に入っていたようです。

「条約には、ハムとシャンパンの味がしないようにしないといけませんね」
岩瀬がそうジョークを飛ばします。
ジョークを飛ばすとき、岩瀬は茶目っ気たっぷりに瞬きするので、オリファントにはすぐにわかりました。

そのユーモアセンスは、オリファント以下相手に大受けで、交渉の場を和ませました。
しかも2人は大変陽気な性格であったようで、お互いジョークを言い合い、楽しく仕事ができたようです。
岩瀬は交渉の際には椅子を準備する等、よく気配りもしていました。

もちろんただジョークが好きなだけではなく、岩瀬はいざ交渉に入るとズバリと要点を衝いてきます。

「彼の観察は常に鋭く、正鵠を射ている。それでいて、行う時は謙遜するのだ」
その頭脳に対し、大いに感心していたのでした。

岩瀬はオリファントたちを案内して、浅草観光に向かい、射的や花屋敷を楽しんでおります。
送別の宴では、将軍・徳川家定ヴィクトリア女王に向かって乾杯し、別れを惜しみました。

岩瀬から脇差まで贈答されたオリファントは、交渉や会食を通じてこう確信したと言います。

「今、日本人は西洋文明の光に接した。これからはきっと取り入れようとするだろう」

 

多くの大名には理解できない条約内容

安政4年(1857年)末。
いよいよ条約締結も見えて来たころ、岩瀬は大名を集め、条約の意図をプレゼンしました。

「なるほど、今は条約締結しかありませんね。開国した上で、今後を考えねばならないでしょう」
「ついにこの時が来たか。我が藩の優れた産品ならば、海外貿易でも十分高評価が得られるだろう」

これが理想の反応ですね。
しかしこういう反応は、賢明で知られ、開国論を理解し人の意見をよく聞いた松平春嶽や、この展開を見据えて輸出用薩摩切子を開発していた島津斉彬のような、ごく一部のデキる人たちだけでして。

「えっ……どういうこと?」
「財政カツカツなのに、輸出品作れって言われても、わからないし。外国人って何が欲しいのか想像つかないし!」

大半の大名にとっては、何がなんだかわからないわけです。

「なぜ異人と取引に応じないといけないのだ! ふざけるな!!」
「条約なんて絶対に駄目だ! 締結するなら切腹する!!」

そう大騒ぎする過激派まで出る始末。
なんとか堀田らが説得したものの、ここで窮地に立たされます。

「まずい。ハリスにはそろそろ締結できそうだと言っているのに、大名がこれではできない」
ここで堀田や岩瀬らは、禁断の手を思いついてしまったのです。

「そうだ、朝廷から勅許をもらえば、大名も黙るはず!」
岩瀬は井上は、残念ながら、京都を甘く見ておりました。

ハリスに向かってこう言いました。
「朝廷なんて貧しくて、坊主や寺社の街で何もないんですよ。ゼロの街です」
とまぁナメきっていたのです。

ハリスはいぶかしく思い、天皇崇拝に関しての知識を語りました。
が、二人とも一笑に付してしまいます。

こうした岩瀬の言動を見ていると、彼は頭の回転が速すぎたのかもしれない、と感じてしまいます。
松平春嶽や堀田正睦など、荒波に飲まれながら結果を出してきた人物にはスグに伝わる話でも、他の凡人にはそう簡単ではない――ことが理解できない。

それが裏目に出てしまいました。

 

朝廷は、もっと理解できなかった……

堀田正睦と岩瀬らが足を踏み入れた京都。
そこに待ち受けていた孝明天皇はじめ皇族と公卿は、開国について全く理解できていませんでした。

孝明天皇/wikipediaより引用

「異人は嫌どす。相手に開国して、異人が都に入り込んで来るようなことがあれば、どないしたらええ?」

この頃の京都は、終始こんな調子でして。
異人は人間というよりも、得体の知れない怪物、それこそ犬猫あるいは鬼や天狗と勘違いしているのでは?というほど怯えているのです。

ただし、攘夷派でも意見は割れておりまして。

穏健派:孝明天皇はじめ皇族や上流貴族・幕府と協調路線、暴力反対(→公武合体派へ)
過激派:鬱憤が溜まっている下流貴族・幕府に反発(→尊皇攘夷過激派へ)

ともかく、朝廷の理解がそこまで酷いと思ってなかった岩瀬は、必死でプレゼンを行います。
「……と、このようにアメリカ、イギリス、フランス、ロシア等が迫っており……貿易は国を豊かにすることができ……」

しかし反応は……
「ところで、キリシタンバテレンゆう国はどこにありますのえ?」
と、何もわかっていない人。

「異人が都に入ってくると思うと、もう怖くて、食事も喉を通らへんし、夜も眠れへん。なんとかしとくれやす」
と、そんなふうにひたすら怯えている人。

「アホくさ。今更公卿に政治のことなんか言われてもしらへん。公家にできるわけあらへんやろ」
と、しらけきってやる気のない人。

「ちょうどええわ。ここいらでうちの力、見せときまひょ」
と、露骨に他の公卿相手に牽制を始める人。

「まっとったで、この時を! 今こそ幕府にとことん反対して、思い知らせてやるさかい!」
と、積年のつもりに積もった鬱憤を、ここぞとばかりに幕府にぶつけてやろうと荒ぶる人……。

いずれにせよ話になりません。絶望的です。
彼らの建白書はこんな調子でして。

・輝かしい神の国である日本が、穢らわしい蛮夷の国と同列に交わるとは国を穢すもの。天照大神以来の先祖に申し訳がたたない
・堂々たる皇国が蛮夷の脅しに屈して頭を下げて対応し、その言い分に屈するとは末代までの恥。条約に反対してこそ、人心はつなぎとめられる
・蛮夷どもは、口では調子のいいことを言いながら強欲で搾取しようとし、我が国が拒めば武力で脅してくるに違いない。彼らの目的は我々を騙してキリスト教徒にすることで、そのうち日本を占領するつもりだ! もし戦争になったら天皇はどこに逃げて、幕臣はどこに住むつもりか

堀田はこうしたやりとりに、愕然として震えました。
「堂上正気の沙汰とは存ぜられず……(朝廷の公卿どもは頭ぶっ壊れてんじゃねえの!?)」

それでも堀田が交渉を続けると、こんな答えすら返ってきました。
「まあいろいろ意見があるやろけど。どうしても決められへんかったら、伊勢神宮でおみくじでも引いて決めまひょ」
「お、お、おみくじ……」

もはや限界。江戸に戻って決めるしかない。
堀田はそう考えたのです。

要するにこれは、堀田や岩瀬らと、朝廷の人々のレベルが違い過ぎでして。
話がかみ合うはずもありません。

こんな調子で、もし朝廷が外国と交渉していたらどうなっていたことでしょう?

そして悲劇的なことに、幕末尊王攘夷派と呼ばれた人々は、大体がこうした公家と同程度の知識と意見しかないところからスタートしたのでした。
しかも、公卿よりずっと暴力的で、血に飢えていて、鬱憤晴らしをしたいと考えている。
危険な存在であったのです。

途中で攘夷の非を悟った者もおりましたが、そうではない人もいたわけです。

 

一橋派は改革の旗印だった

こんな大変な時代こそ、一致団結して国難に当たるべき――。
と、そういう方向へ素直に向かわないのが、幕末という時代のややこしさです。

大名たちの中でも、トップレベルの知能を持つ、島津斉彬、松平春嶽、伊達宗城ですら、そういう考えには至りませんでした。

「国を一致団結させるため、次の将軍は強い人がいいですね!」
と、開国外交そっちのけで将軍継嗣問題に力を入れてしまったのです。

そしてこのことが、幕末の情勢を極めて悪い方向に押し流してゆきます。

岩瀬も、一橋慶喜を将軍とすることは好意的に見ていました。
一橋派の橋本左内とは、肝胆相照らす仲。岩瀬は彼らに取り込まれていくようになります。

その岩瀬が説得したため、堀田正睦までもがだんだんと消極的な一橋派になりつつありました。
斉昭は自分を幕政から追い出した堀田が大嫌いでしたので、岩瀬としてはこの二人を和解させたかったのかもしれません。

ここで考えていてもよくわからないのが、どうして人々は政治の一致団結を見出してまで、
【一橋派に期待をしたか?】
という点です。

徳川慶喜/wikipediaより引用

このあたりの動機がよくわからないまま、一橋派と南紀派の争いがあった、と言われてしまうのですが。
どうしてそこまで一橋慶喜の擁立を重視したのか。

我が子が将軍になる徳川斉昭。
政権中枢に食い込めることが確実であった島津斉彬、松平春嶽およびその家臣の動機は理解できます。

しかし、中央から遠い吉田松陰ですら一橋派勝利を熱望していたのはナゼでしょうか。

思うにこれは
【期待感】
ではないだろうか?と思うことがあります。

血筋がより家康に近いとかではなく、国内屈指の実力者たちが推薦する人物をトップに据える、これまでとは違った政治のダイナミズム――という理屈です。

一橋派にあるのは「=改革派」というイメージ。

慶喜の方が年長であるとか、聡明であるとか、そういった彼自身の能力ではなく、フレッシュな期待感がむしろ先に来ていたのではないでしょうか。

ただし、冷静に考えると一橋派にはミスがありました。

・徳川斉昭が不人気だった
特に将軍の意志決定に対して力を持つ大奥から嫌われていたことは、大きな障害でした

・徳川斉昭が開国反対で攘夷派であり、その子である慶喜も同じだと考えられていた
そのため「斉昭の子・慶喜が将軍になったら、強引な攘夷をして危険だ」と考えてしまう者もいたのです。斉昭ものちに開国に賛成しており、慶喜は父と違って攘夷とは距離を置いていましたが、このイメージの強さは悪影響をおよぼしました

・正統性の薄さ
血縁的な正統性となると、慶喜の場合はかなり劣っていました。これからの政治は血縁的正統性より資質だ、と言いたかったのかもしれませんが、正統性を重んじる立場からすれば認めるわけにはいきません

・タイミングの悪さ
改革を迫るということは悪くないでしょうが、よりにもよって条約締結をしている最中に政治工作をしてしまったことは、「この大事な時期に、和を見出すような行動をしている」と見られても仕方ないことでした

・朝廷に工作を仕掛けた
将軍継嗣に納得できない、堀田正睦から幕政から追い出されたことに腹を立てた徳川斉昭は、朝廷に対して工作を仕掛けます。この工作は、天皇以下公卿が将軍継嗣に関してはまったく感心がなかったため不発に終わり、しかも大きなマイナスの影響を与えることになります

一橋派は、国を変えたい大きな志があったのだとは思います。
トップクラスの頭脳も揃っていました。

しかし、彼らはこうしたミスを犯していたのです。

一橋派に賛同していた阿部正弘が急死したことで、風向きは不利な方向に向かいます。
そして彼らの敗北を決定的にする後任者が、老中として就任するのです。

 

井伊直弼との対立

一橋派とアンチ一橋派(南紀派)の暗闘は続いていました。
そんな最中、井伊直弼が老中に就任します。

岩瀬は、井伊直弼のことをさしたる政治家ではないと見なしていました。

この過小評価が失敗だったかもしれません。

 

井伊は、徳川家の先鋒であることを常に意識する、頑固でパワー溢れる人物でした。
そのことを周囲が知るのは、彼が就任してからのこと。
それまでは、無害な男だと考えられていたのです。

井伊は紀州家の徳川慶福(後の徳川家茂)を跡継ぎとすることを発表。
一橋派の野望は打ち砕かれるのでした。

 

条約締結の覚悟

そんな中、岩瀬は奮闘していました。
ハリスは煮詰めた条約が未だに締結的ないことに、苛立ちを感じています。
引き延ばしは最早できません。

岩瀬が調印しようとすると、井伊の配下・宇津木六之丞景福は懸念を表明しました。

「あなたの政敵は、あなたこそが勅許を取らずに条約を締結したと責め立てるのではないでしょうか? 慎重になられたほうが……」
「構わん。責任は私一人がとる」

この懸念は大当たり。
尊王攘夷派や薩摩藩、長州藩、その流れを汲む明治新政府も、幕府の行動を責め立てました。

「不平等条約を、勅許なしで撮った弱腰幕府! 異人の言いなりになった幕府! 無能な幕府のせいで、不平等条約改正にどれだけ苦労したと思うのだ!」

冒頭で述べた通り、このことについては、もっと冷静に考える必要がありそうです。

井伊にせよ、岩瀬にせよ、こうした糾弾は覚悟の上でした。
そのリスクをわかってないワケじゃない。
それでも締結を進めなければならなかった。

岩瀬は、橋本左内宛ての書状で、
【自分たちは王倫と秦檜だと思われるだろう、この先大変な重罪を問われるかもしれない】
とこぼしています。
※王倫と秦檜:南宋の政治家。異民族相手に屈辱的な和議を結んだ奸臣として、後世糾弾されました。

しかし岩瀬の転落は、条約とは関係ないところで訪れました。
岩瀬は彼を嫌った井伊によって、作事奉行に配置転換されるのです。

要は左遷でした。

 

転落、不遇の死

岩瀬の決定的な破滅は、条約とは関係ないところで訪れます。

井伊は、水戸藩にくだされた「戊午の密勅」に一橋派が関与したことに激怒、処断を決意したのです。
この国難の最中、倒幕のキッカケとなりかねない密勅を、ドサクサに紛れて出したのです。

井伊の怒りは、「安政の大獄」という政治弾圧となって炸裂します。

その結果……。
橋本左内、斬首。
吉田松陰、斬首。

彼ら無念の若者に隠れて目立ちませんが、岩瀬の処分も、日本にとっては大きな痛手でした。
当時の日本でトップクラスの頭脳を持つ、敏腕外交官・岩瀬忠震は、永蟄居処分となったのです。
いわば政治的な死。

これほどの才人には過酷な措置でした。
一方、井伊としても大いに譲歩したつもりであったのです。

「みだりに将軍の後継者問題に口を挟んだことは、死罪が相応である。ただし、岩瀬は条約交渉に功があるため、一等減じよう」
として、岩瀬は江戸の向島に隠居し、書画を楽しむ日々に入ります。

そして文久元年(1862年)に病死。
享年44。