林 復斎(はやし ふくさい) 日米和親条約
岩瀬 忠震(いわせ ただなり) 日米修好通商条約
幕末ペリーの来航で初めて黒船を目の当たりにした幕府はビックリして大混乱、その挙句開国を迫られアメリカの武力に屈し開国した。
幕府の弱腰外交と今でも揶揄されている事件ですが、本当に弱腰だったのか本当にペリーによって開国させられたのか?
その答えを導き出してくれる男がいます。それは林羅山から数えて11代目にあたる儒学者林大学頭(だいがくのかみ)号は復斎。
彼の冷静沈着にしてタフなネゴシエーションが、どのようにして幕末日本を救ったのか!当時の幕府そして林大学頭は手強い相手だったようですよ。
ペリー来航の目的は?
1853年7月アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー率いる4隻の蒸気船が、アメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀にやって来ます。
しかしこれは親書とは名ばかりで早い話しが、アメリカが幕府に要求を突きつけたと言ってもいいでしょうね。
アメリカの要求とは次の3つ。
1. 日本に漂着した漂流民の保護
2 . 外国船への食料及び燃料の供給
3 . アメリカとの交易
これは実質的な開国の要求に他なりませんが、アメリカとしては捕鯨に必要な大量の燃料や食料の補給のための寄港地が必要だったんですね。
ペリーは幕府に対し回答の期限を翌年5月とし「まあよ〜く考えときや!」と言い残し一旦引き上げます。
幕府の対応
アメリカの要求のうち1と2についてはこれまでにも長崎で行って来たことで、交渉の席でそう伝えることは出来ますが問題は3の交易ですね。
これに関しては簡単に結論を出せるものではありません。そして幕府がこの困難な交渉の全権に選んだのが昌平坂学問所の塾頭である林大学頭でした。
ペリー再来航でついに対決のゴングが鳴る!
翌年ペリーは予定より3ヶ月も早く再度日本を訪れます。前年4隻だった船は9隻に増やし並々ならぬ気合いで、交渉に入る前幕閣に対して決意を披露しプレッシャーを掛けて来ます。
「もし条約の締結がならない場合は戦争になるかも知れんよ」さらに「こっちは近海に50隻の軍艦を配備してありカリフォルニアにはもう50隻用意してある。これら100隻は20日もあれば到着することを忘れないようにね!」
林「おたくの要求のうち1と2に関しては異存はない。ただ3については国が決めたことなので絶対に無理!」ここでペリーがいきなりブチ切れます。
ぺ「アメリカはずっと人命を尊重して来たが、それに引きかえ日本は難破船を助けずに発砲し漂流民を罪人扱いしてるじゃんかよ!そっちが態度を改めんならこっちにも覚悟があるぞ!」
周りの役人はこれを聞いて青ざめたそうですが、林はこの恫喝も鉄壁のディフェンスでするりとかわします。
林「戦争するって?ただあなたの言うことは事実でなく思い込みですよ」ペリーが問題にしたのは「異国船打払令」のことですが、この法律はペリー来航の11年前に廃止され当時は「薪水給与令」という燃料や水の補給を認める法令が施行されていました。
そして漂流民を罪人扱いしたというのは漂着したアメリカの捕鯨船ラゴダ号事件のことですが、これに対しても林は冷静にペリーの認識の誤りを指摘します。
林「漂流民の中には船員同士で殺人事件を起こすなどワルい輩も多く、しばらく拘禁したがそいつらが罪人扱いされたとデタラメを言い回った結果ですよ、日本が非道を行うことは絶対にない。ないんだからアメリカと戦争する理由にはならんでしょ?」
はい!論破!
机を叩いたり腰のサーベルに手をかけるほど激昂していたペリーも、ここまで動じることなく冷静に論破されるともう二の句が継げず。
ぺ「いや・・・その・・・アレだ。そこら辺りをきちんとしてくれるなら・・・もう言うことはないが・・・」
当時アメリカやイギリスはアジア各国で恫喝外交を繰り広げ、日本でもそのやり方が通用すると思っていたんでしょうね。
ところがそれに動じることなく冷静に事実を積み上げて相手を論破していく林。幕府の他の役人ではおそらくこうは行かなかったでしょう。よほど腹の据わった人間だったようですね。
そしてここからの交渉で林大学頭による論破の嵐が吹き荒れます!
第二回交渉開始
第二回はいよいよアメリカにとって本来の目的である交易について交渉が始まります。第一回の恫喝が通じないと分かったペリーは一転して、交易によって日本が得るメリットを強調します。
ぺ「交易は国力を強くするのにやらなきゃ損ですぜ」
林「日本は国産の産物で充分足りているのでその必要はありません。しかも法律で決められてますんで悪しからず」
しかしこれには理由があります。それは「アヘン戦争」。イギリスと交易を始めた清に大量のアヘンが流出、これに抗議した清とイギリスの間に戦争が勃発。
破れた清は莫大は賠償金を課せられ香港を割譲するハメになります。交易がアヘンの流入そして戦争までつながることを日本は分かっていたんですね。
交易だけはどうしても避けなければならない林は、ここでまたペリーをやり込めます。
林「あなたは人命尊重を第一とおっしゃったが人命と交易は関係ないでしょ?じゃあこのあたりでお開きと言うことで」
ぺ「それは・・・ごもっとも。交易の件は主張しないでおこうかなと・・・」
そして議題は次へと移ります。しかしペリーもしつこいねぇ。
新たな開港地を求める
次にそれまで長崎一港だった開港地を増やすようペリーは要求します。
ぺ「長崎は不便だから燃料や水を受け取る港をあと5、6ヶ所増やして欲しいんだが」開港地が増えると交易につながるとの狙いですが、そんなことは林は百も承知です。
林「長崎が不便ならいずれ東南の港を増やすことにしますね」
ぺ「東南とはどこです?」
林「それはまた調べてからと言うことで」
ぺ「あなた全権でしょ?即答してくれや」
またまた論破!ペリー固まる!
ぺ「そ、それは確かに書いてはないけど・・・じゃあ3日待つからその時に答えを」
林「7日後に答えは出すんでヨロシク!」
もう完全に林のペースですね。
第三回交渉
ぺ「新たな開港地はどこに決まったのか」
林「南は下田北は函館です!以上!」
ぺ「いや・・・5、6ヶ所って言ってたんですが・・・」
林「ハァ?なに?」
ペリーさん、あんたの負け!
第四回交渉
開港地の外国人の行動範囲についても。
ぺ「港から十里四方は行動することを認めてもらいたい」
林「燃料の薪や水を得るためなら町内だけで充分でしょ?何の用でそんなに遠くまで行きたいの?まぁおまけして七里ならいいことにしておくか」
林無双!!
そして遂に1854年3月3日日米和親条約が調印されます。そこには交渉で決まったことのほか日米の友好が記されています。
この和親条約では日本が正式に開国したとは言えませんが、これまではペリーの恫喝によって開国した弱腰外交だと言われてましたね。
そう言われ出したのは明治になってから、やはり歴史は勝者によって作られるものなんですね。
まとめ 太平の眠りに落ちていなかった日本
林大学頭とペリーの交渉は今では考えられないほど、日本の外交的勝利で終わりましたがその要因は第一に情報戦に勝利したことが大きいと思われます。
実はオランダのバタビアという植民地経由で、ペリー艦隊の来航目的や人員に至るまで細かい情報がすべて日本に渡っていました。情報の大切さを知っていたのはアメリカよりも日本の方だったんですね。
ただ情報を生かすも殺すも最後はやはりマンパワーが必要です。その点で言えばこのとき林大学頭という人がいたことは日本にとって幸いだったと思います。
圧倒的論破!幕末ペリーを黙らせた林大学頭の交渉術!
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「太平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」
幕末ペリーの来航で初めて黒船を目の当たりにした幕府はビックリして大混乱、その挙句開国を迫られアメリカの武力に屈し開国した。
幕府の弱腰外交と今でも揶揄されている事件ですが、本当に弱腰だったのか本当にペリーによって開国させられたのか?
その答えを導き出してくれる男がいます。それは林羅山から数えて11代目にあたる儒学者林大学頭(だいがくのかみ)号は復斎。
彼の冷静沈着にしてタフなネゴシエーションが、どのようにして幕末日本を救ったのか!当時の幕府そして林大学頭は手強い相手だったようですよ。
ペリー来航の目的は?
1853年7月アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー率いる4隻の蒸気船が、アメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀にやって来ます。
しかしこれは親書とは名ばかりで早い話しが、アメリカが幕府に要求を突きつけたと言ってもいいでしょうね。
アメリカの要求とは次の3つ。
1. 日本に漂着した漂流民の保護
2 . 外国船への食料及び燃料の供給
3 . アメリカとの交易
これは実質的な開国の要求に他なりませんが、アメリカとしては捕鯨に必要な大量の燃料や食料の補給のための寄港地が必要だったんですね。
ペリーは幕府に対し回答の期限を翌年5月とし「まあよ〜く考えときや!」と言い残し一旦引き上げます。
幕府の対応
アメリカの要求のうち1と2についてはこれまでにも長崎で行って来たことで、交渉の席でそう伝えることは出来ますが問題は3の交易ですね。
これに関しては簡単に結論を出せるものではありません。そして幕府がこの困難な交渉の全権に選んだのが昌平坂学問所の塾頭である林大学頭でした。
なぜ国の命運を賭けた交渉に学者が?普通そう考えますよね。当時もそんな意見が多かったそうですがこれには幕閣の保身に絡んだ事情がありました。
つまり失敗しても学者がやったことだからと、平たく言えばナアナアで済まそうと考えていたわけですね。
それを知ってか知らずか林大学頭は交渉の最前線に立ち、弱腰外交とはとても呼べないようなタフなネゴシエーションをペリーとの間に繰り広げます。
頑張れ〜!
ペリー再来航でついに対決のゴングが鳴る!
翌年ペリーは予定より3ヶ月も早く再度日本を訪れます。前年4隻だった船は9隻に増やし並々ならぬ気合いで、交渉に入る前幕閣に対して決意を披露しプレッシャーを掛けて来ます。
「もし条約の締結がならない場合は戦争になるかも知れんよ」さらに「こっちは近海に50隻の軍艦を配備してありカリフォルニアにはもう50隻用意してある。これら100隻は20日もあれば到着することを忘れないようにね!」
完全に恫喝ですが100隻云々はペリーのブラフだった可能性が高いですね。当時も今も国家間の条約交渉において圧倒的軍事力を背景に臨むのは外交の基本です。
交渉当日アメリカ側はなんと466名という大人数で横浜村に上陸します。しかも9隻の軍艦は大砲を向けていることに幕府の役人はかなりビビったようですね。
しっかりせんかい!
いよいよ交渉開始
「墨夷応接録」に記されたペリーと林大学頭の交渉はこのようなものでした。
林「遠路はるばるご苦労さんでした」林のねぎらいの軽いジャブに対してペリーはいきなり腰の入った重い強打を繰り出します。
ペリー(以下ぺ)「今日のお祝として将軍に21発あなたに18発、さらに初めての上陸記念に18発祝砲をご馳走したい・・・ニヤリ」典型的砲艦外交ですね。
恐れく空砲でしょうが50発以上の砲撃はさぞ不気味だったでしょうね。してやったりのペリーですが、林は顔色ひとつ変えず続けます。
林「おたくの要求のうち1と2に関しては異存はない。ただ3については国が決めたことなので絶対に無理!」ここでペリーがいきなりブチ切れます。
ぺ「アメリカはずっと人命を尊重して来たが、それに引きかえ日本は難破船を助けずに発砲し漂流民を罪人扱いしてるじゃんかよ!そっちが態度を改めんならこっちにも覚悟があるぞ!」
周りの役人はこれを聞いて青ざめたそうですが、林はこの恫喝も鉄壁のディフェンスでするりとかわします。
林「戦争するって?ただあなたの言うことは事実でなく思い込みですよ」ペリーが問題にしたのは「異国船打払令」のことですが、この法律はペリー来航の11年前に廃止され当時は「薪水給与令」という燃料や水の補給を認める法令が施行されていました。
そして漂流民を罪人扱いしたというのは漂着したアメリカの捕鯨船ラゴダ号事件のことですが、これに対しても林は冷静にペリーの認識の誤りを指摘します。
林「漂流民の中には船員同士で殺人事件を起こすなどワルい輩も多く、しばらく拘禁したがそいつらが罪人扱いされたとデタラメを言い回った結果ですよ、日本が非道を行うことは絶対にない。ないんだからアメリカと戦争する理由にはならんでしょ?」
はい!論破!
机を叩いたり腰のサーベルに手をかけるほど激昂していたペリーも、ここまで動じることなく冷静に論破されるともう二の句が継げず。
ぺ「いや・・・その・・・アレだ。そこら辺りをきちんとしてくれるなら・・・もう言うことはないが・・・」
当時アメリカやイギリスはアジア各国で恫喝外交を繰り広げ、日本でもそのやり方が通用すると思っていたんでしょうね。
ところがそれに動じることなく冷静に事実を積み上げて相手を論破していく林。幕府の他の役人ではおそらくこうは行かなかったでしょう。よほど腹の据わった人間だったようですね。
そしてここからの交渉で林大学頭による論破の嵐が吹き荒れます!
第二回交渉開始
第二回はいよいよアメリカにとって本来の目的である交易について交渉が始まります。第一回の恫喝が通じないと分かったペリーは一転して、交易によって日本が得るメリットを強調します。
ぺ「交易は国力を強くするのにやらなきゃ損ですぜ」
林「日本は国産の産物で充分足りているのでその必要はありません。しかも法律で決められてますんで悪しからず」
しかしこれには理由があります。それは「アヘン戦争」。イギリスと交易を始めた清に大量のアヘンが流出、これに抗議した清とイギリスの間に戦争が勃発。
破れた清は莫大は賠償金を課せられ香港を割譲するハメになります。交易がアヘンの流入そして戦争までつながることを日本は分かっていたんですね。
交易だけはどうしても避けなければならない林は、ここでまたペリーをやり込めます。
林「あなたは人命尊重を第一とおっしゃったが人命と交易は関係ないでしょ?じゃあこのあたりでお開きと言うことで」
ぺ「それは・・・ごもっとも。交易の件は主張しないでおこうかなと・・・」
そして議題は次へと移ります。しかしペリーもしつこいねぇ。
新たな開港地を求める
次にそれまで長崎一港だった開港地を増やすようペリーは要求します。
ぺ「長崎は不便だから燃料や水を受け取る港をあと5、6ヶ所増やして欲しいんだが」開港地が増えると交易につながるとの狙いですが、そんなことは林は百も承知です。
林「長崎が不便ならいずれ東南の港を増やすことにしますね」
ぺ「東南とはどこです?」
林「それはまた調べてからと言うことで」
ぺ「あなた全権でしょ?即答してくれや」
林の言質を取ろうと必死のペリーですがこれも林は軽くやり込めます。
林「そんな無理なことを。それほど増やして欲しいなら何故去年の親書に書いてないの?長崎で文句ないと思ってたけど?」
またまた論破!ペリー固まる!
ぺ「そ、それは確かに書いてはないけど・・・じゃあ3日待つからその時に答えを」
林「7日後に答えは出すんでヨロシク!」
もう完全に林のペースですね。
第三回交渉
ぺ「新たな開港地はどこに決まったのか」
林「南は下田北は函館です!以上!」
ぺ「いや・・・5、6ヶ所って言ってたんですが・・・」
林「ハァ?なに?」
ペリーさん、あんたの負け!
第四回交渉
開港地の外国人の行動範囲についても。
ぺ「港から十里四方は行動することを認めてもらいたい」
林「燃料の薪や水を得るためなら町内だけで充分でしょ?何の用でそんなに遠くまで行きたいの?まぁおまけして七里ならいいことにしておくか」
林無双!!
そして遂に1854年3月3日日米和親条約が調印されます。そこには交渉で決まったことのほか日米の友好が記されています。
この和親条約では日本が正式に開国したとは言えませんが、これまではペリーの恫喝によって開国した弱腰外交だと言われてましたね。
そう言われ出したのは明治になってから、やはり歴史は勝者によって作られるものなんですね。
まとめ 太平の眠りに落ちていなかった日本
林大学頭とペリーの交渉は今では考えられないほど、日本の外交的勝利で終わりましたがその要因は第一に情報戦に勝利したことが大きいと思われます。
実はオランダのバタビアという植民地経由で、ペリー艦隊の来航目的や人員に至るまで細かい情報がすべて日本に渡っていました。情報の大切さを知っていたのはアメリカよりも日本の方だったんですね。
ただ情報を生かすも殺すも最後はやはりマンパワーが必要です。その点で言えばこのとき林大学頭という人がいたことは日本にとって幸いだったと思います。
事実ペリーは日記に交渉では終始林の人間力に圧倒されたと記しているように、林という人物はどんなときでも冷静さを失わず常に論理的に交渉に当たっています。
条約調印後ペリーは林にこんな言葉をかけたそうです。
「あなたの国の厳しい国法は聞いてはいたが、このような親睦を結ぶことが出来た。今後日本が外国と戦争になったときは軍艦大砲を持って加勢しよう」
林は深くこうべを垂れ「ご好意かたじけない」と答えたそうです。ペリーやハリスを知ってはいても林大学頭を知っている人はどれくらいいるんでしょうか?もっと多くの人に知られるべき人物だと思います。
交渉前後半年間日本に滞在したペリーは日本の職人の技術力や、庶民の探究心の強さに驚愕し「日本人がひとたび文明世界の技能を手に入れれば強力なライバルになるだろう」という言葉を残しています。
そして交渉を勝利に導いた林大学頭は条約調印から5年後、牛込の屋敷で死去享年60。