短い生涯
とてもとても短い生涯
六十年か七十年かの
お百姓はどれほど田植えをするのだろう
コックはパイをどれ位焼くのだろう
教師は同じことをどれ位しゃべるのだろう
子供たちは地球の住人になるために
文法や算数や魚の生態なんかを
しこたまつまこまれる
それから品種の改良や
りふじんな権力との争いや
不正な裁判の攻撃や
泣きたいような雑用や
ばかな戦争の後仕末をして
研究や精進や結婚などがあって
小さな赤ん坊が生まれたりすると
考えたりもっと違う自分になりたい
欲望などはもはや贅沢品になってしまう
世界に別れを告げる日に
ひとは一生をふりかえって
じぶんが本当に生きた日が
あまりにすくなかったことに驚くだろう
指折り数えるほどしかない
その日々の中の一つには
恋人との最初の一瞥の
するどい閃光などもまじっているだろう
〈本当に生きた日〉は人によって
たしかに違う
ぎらりと光るダイヤのような日は
銃殺の朝であったり
アトリエの夜であったり
果樹園のまひるであったり
未明のスクラムであったりするのだ
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・・・こんにちは、いっきです。
明けましておめでとうございます。(遅)
寒くて体を動かすこともおっくうになる。さて、運動するかと意気込んでも、次の瞬間にはめんどくさくなっている自分がいる。
この葛藤よ。
でも動かないで、だらだらと怠惰を貪ろうものなら、食したものはすべて腹にたまり、体はより重くなり、動きにくくなる。
運動大事。メンタル的にもね。
近況報告をいつも通りだらだらと。
最近は仕事をしながら、結婚に向けて準備を進めている状況ですね。コロ助のせいで、いろいろと動きにくい状況ではありますけど、でも進められるところとか決められるところを進めておかないと、どんどん結婚できなくなっていく。。。
彼女も、これだけ時間を要すると疲れてきてしまうだろうよ。
しかし、本当に厄介だなとおもう。コロナとやら。
これだけ行動が制限されることが、ストレスになるとは考えもしなかったよ。
結婚、ということを考えていると、今後の人生とやらを考えるようになる。先々、どう生きていこうかということを。
正直言ってしまえば、僕は一人で、いや独りで生きて独りで死んでいくものだと思っていた。ある人からすれば、人間は最期の日は誰しも独りだ、なんていうかもしれないが、そういうことではなく、本当に独り。
でも、人生が大きく変わってしまったのだ。独りで生きていく未来を想像していた僕からすれば、「誰かと進む未来」なんて用意していない。さてどうしたものかと戸惑いとともに、進んでいる。
僕の人生は、掃きだめで長時間煮しめたような、どす黒く臭いものなので、その人生に付き合わせるなんて、考えられなかった。
でも、何を語っても、何を打ち明けても、すべてを受け入れ、すべてを愛しく思ってくれる人が、そばから離れないでいてくれているのだ。
とんでもないことだ。
大丈夫かいと何度も確認してしまっているが、何も問題ないと君は言う。そうか。客観的に見てしまえば、問題だらけな気がするが、君がそう言い、受け入れてくれるのだから、納得しなければならないのだろうな。
すまないね。と口癖のように言ってしまう。
ふとした瞬間に、申し訳ないと言ってしまう。
何も申し訳なくないと、強気にいうが、僕としては申し訳ないんだよ
夜の荒野を風に抗いながら進んで、息も絶え絶え、耐えて、辿り着いた水辺に君が立っていた。水辺で水を全身に浴びて、吞んで、浴びる太陽は、心地よかった。あたり一面が照らされていた。
・・・あー、酔ってます。(笑)
飲みながらブログを書いていたら、よくわからないことを書いてしまっている気がするけど、まあいいや。
要は、彼女が素敵すぎて、自分にはもったいなけれど、結婚してしまっていいんですか!?へいへい!ということです。笑
あと、茨木のり子さんの詩集を読んでいたら、「詩」ってすごい書き方するなと考えて、ちょっとそれっぽいものを書いてみたくなってしまっただけです。
本当に生きた日が、自分にどれ位あるかと考えてみると、
本当に少ないなぁとびっくりしたので、冒頭に書かせてもらいました。
でもやっぱりそこには、初めて人を好きになった日だったり、
誰かの声で人生が変わった日だったり、
自分の人生を自ら閉じようとぼんやり考えていたときに「ダイヤモンド」という曲に出会った日だったり
本当に数少ないけれど、確かに今までの歴史の中の節々でぎらりと光って、今の自分を照らしている。
あと何度そういうダイヤモンドを、残していけるだろうか・・・。
結婚して子供ができたら、自らを賭して子供に尽くすだろうから、本当に生きた日というのはより少なくなっていくのかもしれない。
でも、誰かのために生きたとしても、誰かのために何かをして、自分が嬉しくなるのであれば、それは自分として本当に生きた日になるのではないだろうか。
誰かのためと思ってやる行動も、自分が満足するためであれば、それは広義の意味でのエゴであるんだろうと思っている。
どの場面で、本当に生きた日になるのか、若輩者の経験不測の僕には、とんと検討もつかないが、そういう日を少しでも増やしたい。
途方もない苦労の果てに、辿り着くものなのかもしれないと思うと、不安にもなるけれど、何回転んだっていいさ。
今日はなんだか天気も不安定で、気分もころころ変わる日だった。
外にも出ずらいので、本を読んでぼんやり考え事をしていたら、よくわからない感情になってきたので、茨木のり子さんの詩をお借りして、つらつらと臭いことを言ってみた。いくつになっても思春期をこじらせた精神が抜けません。笑
水墨画のような富士山が撮れたので載せておこう。
長野からの富士山。きれいだったな。
また、感情やら、フラストレーションがたまったら、更新しに来ます(笑)
やっぱり文章にするというのは良いものですね。
では、さらばじゃ。
























