少年時代の苛烈さ、感性の驚天動地、今はあの少年時代をゆうに凌駕する程の感性の豊饒さを、その発達を遂げた。また病気が悪化しないように努めて、無理なく日々を自分なりに謳歌している。26歳はまだ若いと人は言う。まあこれまでに色んなものには僕は乾坤一擲に取り組んで多くの新しい事を成し遂げた。侃々諤々の様子はあるだろうが、芸術についてもプログレッシブツイストとして蟠りや悲憤慷慨を昇華させた。僕の喜怒哀楽は空前の高まりを見せている。大脳は勃起し、僕なりの情報発信をしてきた。同じ精神病患者の発信者の中には既に脱落者もいる。彼らは元気だろうか。
 僕は今は何の安危もない、僕は金銭的にも不自由してはいない。しかしだからこそ、これから訪れる淪落には慄然としてしまう。悲哀と喜悦のコントラストは人生の基本だ。しかし臆していてどうする。僕は誰からも迫害、差別、白眼視されてもない。そもそも僕は有名人でないのだから。
 喜怒哀楽の明瞭化は、僕の復活の序章である。零落し、一時は人間関係から撤退した身。しかし僕はもう近視眼的な驕慢に支配的にされたりはしない。僕は僕なりに前向きに素直に、そして脳髄の随所で精神病を気にしていきたい。また僕に対して目くじらを立てようとすれば幾らでも欠点を挙げる事が出来るだろう。僕の無知蒙昧、軽挙妄動、獅子奮迅。奔流の言葉の流れ、その根幹には獰猛さや若さが同居している。恣意的に何かを言って焦眉の、阿鼻叫喚の地獄絵図になる時もあるだろう。しかしそのようなものは気にしない。何とかなるさ。
 僕の言語による敷衍は紛れもなく精神的な未熟や不徳の致すところである。僕は卒論を発表した時様々な罵詈讒謗でされたりもした事もある。僕は難しい研究をしている、斬新な研究をしていると言われた事もある。僕は数学者であり、科学者であり、哲学者であった。また芸術では奇想天外なアイデアを巧みに形にしていった。お決まりの言い回しはまさに赤川の癖とも言えようか。
 僕は自分の思っている事、感じている事を言葉にしている。これは自分自身を潤沢にする目的でやっている節もある。
 これから喜怒哀楽で持って様々な出来事に相対するだろう。しかし僕は屈服しない。僕は傑出した、稀代の天才だと錯覚して生きる。こんな僕をダニング=クルーガー効果とみなしたり、ディスる人間もいるだろうがそんな一挙手一投足は気にしない。僕はそもそも舌戦とかレスバトルが脆弱で矮小なのでそんな世界には最初から参入しない。