僕はこれまで多くの芸術作品に触れてきた。岡本太郎が言っていた事なのだが、芸術に技術のうまさは直結しないらしい。僕は岡本太郎のような絵画を高校の美術の時間に描いた事がある。周囲からは大抵馬鹿にされたが、天才だと言う人も一人いた。僕の芸術はいわゆるカルト的な人気を集めやすいようだがそれは芸術家としての賛美だと昨日友達に言われた。そこからどの伝説も、存在も始まってゆく。また昨日僕は仕事をしてきた。今はまったりしている。起きた時間も10時前後である。また今日はブログのフォロワーが減っていた。よくある事とは言え悲しい。僕は散々努力してきた。その結実が今なされているのかも知れない。僕は人との接触を極端に嫌忌していた時期があった。自分一人で悲哀を背負い、自分自身を痛めつけた。その習慣が尾を引いて、中々自分を肯定出来ない日があった。

 僕は通勤のバスの中では村上春樹を呼んでいる。あの平易な文体。井戸端会議で、或いは市井で村上春樹の名前が出るカジュアルさも何だか分かる気がする。僕の今の文体も平易な印象を意識しているが、彼のような豪傑にはなれない。彼の傑作には幾つもある。作家生活も久遠の御仁だ。

 僕は強く生きる。轟々と音楽を脳で鳴らしながら。雑踏なんか、喧騒なんか気にしない。僕の作品は前衛的だ。ゴミにしか聴こえない人々もいるだろう。しかしそれでも僕が砕身に頑張ったのは事実だ。新鋭の芸術家になれなくても。懈怠の内に死を夢見ても。結局僕は生きている。それが事実だ。ゴロゴロ寝てばかりも体に良くないので今の僕は椅子に座ってこの記事を執筆している。

 僕に人気が出ないのは単に僕の実力不足、魅力不足だ。大体無用の長物みたいな僕の存在が人に薫陶を受けられる事はあるだろうか。天変地異が起こる事があるだろうか。日本の審美的な、そして知的な平均は僕という壊滅的な存在の広がりによって決定づけられるのかも知れない。人々は奮然とする。あいつに出来るのなら自分も、と。死にたい日もある。病気はまだ抱えたままだ、無理は出来ない。また僕は8月5日に誕生日だったのだが姉からケンタッキーフライドチキンの無料券をもらった。また土曜辺りにケンタッキーに行こうかと思う。今日は訪問看護だし、明日はヘルパーだから忙しい。恥も外聞もなく、僕は悠然と生きる。恥辱の過去などは葬り去ってしまう。

 空々漠々の人生、良いじゃないか。何も忌憚する事はない。僕は楽観的に生きていきたい。

 話が大いにそれたが芸術は前衛的であってもその作者と作品がが後世に残り、独自の開花を遂げる場合もあり、それは必ずしも超絶技巧を伴うものではない。甚だしい程逆説的な現実が実際にはあるのだ。