この記事を書いている8月5日は僕の誕生日だ。色んな人からおめでとうと言われるが僕は憂鬱だ。だっておじさんになった訳だし。そう言えば関係ないが昨日子供からこっちを見て「大きい」と言われた。純粋に嬉しかった。僕は本当に大きくなった。それに火曜と水曜は職場に通所する。そこで人間関係を新たに構築する。人間関係だ、軋轢も困憊もあるだろう。しかしそこからヒステリックに逃げる事は悪手だ。僕はもう悪手を繰り返したくない。今日の誕生日で僕は26歳になった。アラサーである。僕は頑張って今後も生きていく。病気を抱えながらになるが、ぱっと見は普通の人と変わらない。少しパニック発作があって、疲れやすいだけだ。幻聴も聴こえないし。悪口は自分に向けられた声だと思わなければ良い。常識的に考えて人に向かって不細工だのなんだのと言う人間は小学生でもいない。しかし誕生日。懈怠の内に誕生日。僕は今朝は早起きをした。まあ9時過ぎだったが。昨日7枚目のアルバムを発表してから一日が過ぎた。僕は自分のなすべきことをやってきた。この異様な恍惚と不安の交錯した胸騒ぎ、脳が攪拌されるような慄然。僕はそんな自分を責め立てたい気持ちが以前はあった。それは真面目過ぎたからなのだと思う。自分の短所を認める事から始めないといけない。しかしそれも難しい、特殊な事ではない。

 そう言えば僕の応援しているユーチューバーに語彙力を増やす為に読書をしているという御仁がいる。彼はある分野におけるエキスパートであり、白眉、泰斗、気鋭、新進の人である。僕がどのように言辞を奔流の如く乱用させても彼の聡明さには敵わない。汎用性の高い言葉を如何に閲覧者諸氏に分かりやすいレトリックで、諧謔で伝えるか、それは文学的な一つの主題ではあるのだろう。僕は知識はあるが知恵はどうだろうか。大学時代の教授には「君は頭が良いから理解力は高いがそれを言葉で表現する力は弱い」と言及された。僕は全く新しい事をやっているのに説明が雑だったし、時代を先駆けた内容であったりしたため、言語化がそれに合致するものにならなかったのだろう。文章には見るに堪えない齟齬があり、それを見た人々は絶句し、曲解し、僕を難色を示した。この世のあまねく糾弾、数限りもない霹靂のような諍いも、煮えたぎるような憤怒の情も、懐かしく感じられる。高校生以後は統合失調症でどうにもならなかったがやっと26歳の今、僕は病気に翻弄、愚弄、嘲弄されない頑迷でない、頑是ないものでない人生を手に入れた。懈怠の内に夢見た人生。如何にも驕慢そうな、人生はもう終わりだ。僕は大人の落ち着きを得た。ギターはしばらく触らない。本も通勤時や外でいとまのある時にしか読まない。良いんだよ、貪婪で。僕は人間関係においてエネルギッシュで人々を癒す人になりたい。迂愚、痴呆、倨傲、懶惰、僕はこれらを焼けつくしていきたい。潤った熱弁を放つ咽喉、調子の良い律動を伴い肺臓、五臓六腑。十把一絡げに言って今の僕は健康だ。しかし外出は無理せずに行こうと思う。畢竟、これが26歳のリアルだ。