僕はもう統合失調症に個性を一致させる事はしないようにしたい。僕は健常者と同じだ。少し疲れやすくて、パニック発作があるかも知れないが、僕も遮二無二恋愛に奔走する男なのだ。今までの人生、恋愛と無縁だった訳ではない。むしろ昔はチャンスがあった。しかしそれを無情にも見逃してしまった。恋愛という当時にしては妙案に近い着想が芽生えたのも19歳の頃からで、もうその頃には統合失調症の薬で肥えてしまっていた。しかしそれでも僕は生きる限りは希望を持ち続けたいと思った。差別心も多少はあったかも知れない。当時は主治医から能力が高いとか知的に早熟とか言われてそれを端緒として傲慢になっていた。しかし傲慢は必ずしも、人生の質を低下させるものではない。むしろ行動力は狂気を除けば倨傲さにこそある。それこそが若さの顕示欲を基調とするものである。若い男は無茶したがるものなのだ。僕は今勉強をしている。それは硬い勉強ではない。人間関係に身を投じる上で、懈怠はない。奇をてらう事もなく、僕はプラトニックに長身女性と関わって生きたい。僕は勉強に対しては非常に苦手意識がある。しかしそんな僕でも知識で他を圧倒する事も出来るし、他の追随を許さない個性も持っているつもりだ。惻隠の情という日本人独自の情緒も持っている。

 僕は日本の中流家庭に生まれた。そして僕は愛を知っていた。しかしいつからだろう、気持ちは屈折し、人生との齟齬や不和が出来るようになった。瞬く間に僕は自分の発信が人口に膾炙するとは思わない。僕は有名人ではないからだ。僕の人生の中では非常に錯乱していた時期もある。自分の人生、若さが自縄自縛で荒唐無稽な行動を枚挙に暇がない程進めていった。高校時代の主治医も今の主治医も、働く事が可能な人的資源として認められている、何故だかは分からない。いや、それほど僕の病気が風前の灯火で、消そうと思えば縦横に消す事が出来るのだと思う。懶惰の日々も愛して、愛する事をまた愛して、長身女性を愛して、僕は生きていく。巨万の富が得られる訳でもない、でも書物や人間関係から薫陶を受けたり、自分の一挙一動が凱歌を奏する事もあるだろう。それが普通だ、それが健常だ。健常とは決して平凡な代物ではなく、一種の兵器にもなり得ると思う。僕は批判の声を歯牙にもかけず生きていくだけの男になりたい。最近は劇的に元気になってきている。自分なりに独立して自身の律動を統御している。僕の脳髄を隷属させる思想や哲学も今の僕にはない。どのような空理空論、金言名句、珠玉の書籍などよりも実際に生きている、この生命こそが僕にとって至上のものである。

 僕に対する迫害や罵詈雑言もあったが、それももうきっぱり清算する、今この刹那から。文章に彫琢はない、今後も素朴な作品を残していくつもりだ。自分なりに一挙手一投足に出る事、それは部分的には軽挙妄動でもあるだろう。ただ自分本位に、私利私欲に、無為徒食に、貪婪に生きるより、もっと穏やかな幸福を得たい。僕は長身女性を追いかけたい。しかしナンパや妄りに、邪まに女性にアプローチする事の禁忌や、懲罰も知っている。倫理観や道徳を度外視して恋愛は出来ない。僕は最近女性に見間違われたがそれは中性的な整った顔立ちだという事だろう。僕には何もない訳じゃない。僕には利点もある。少子高齢化に警鐘をならす社会の潮流、こんな辛気臭く、閉塞的で、世知辛い社会において子供を作るなどは乱痴気騒ぎ、狂気の沙汰だという論調や雰囲気が跋扈している日本社会。これは僕の錯覚だろうか。頑迷になっているのだろうか。

 僕の愚昧はこの言語表現に伴って表れる。僕の文章が卓越したものでない事は僕自身が誰よりも分かっている。なのにこうして文章制作に奔走しようとする、愕然とするような常軌の逸脱である。僕は人間として生きる。これまでは疾病文学やメタ不条理文学に東奔西走してきたが、これからはもっと単純に生きようと思う。ソロになったジョンレノンのように。行動の全てを俳句然とするのだ。日本が世界において支配的な立場を堅持出来ているかどうかは疑問符がつく。未だ甚だしい円安であるし、半導体競争にも他国の後塵を拝しているのだから。僕の言辞が、残滓となって形骸化していく事、それは自然な事である。得てして愚物、俗物の作品は灰燼に帰すものである。四分五裂な僕の思想をどれほどまでに咀嚼するだろうか、僕自身ですら未来は未知数なものである。もしかしたらこの言語表現が功を奏して、誰かの人生に感銘を与えたり、琴線に触れさせたりするのだろうか。僕は自らを露悪的に表現する事もあったし、傲岸不遜なキャラや物語の構造を考案し、構築する事があった。僕はいつだって土人臭い、痴呆の如き粗悪品を作りだしてきたのだろうか、今でもそれは分からない。僕自身としては僕を迎合し、好意的に、烏合の衆の一部としてではなく、衆愚の一部としてではなく受け止めてくれればこれほど冥利に尽きる事はない、幸甚な事はない。

 今回のこの記事は統合失調との別れを告げる意味で書いている。狂気は他の類型でも選択肢がおびただしいほどあるものである。僕は凝縮し、凝固された蒙昧、近視眼的誤謬を持っていたにすぎない。僕の人生は慣性に従って、生きていた。無意識の内に。しかしこうやって前意識にそれを押し出し、検閲のあるネットに赤裸々に露呈させる事によって僕は自分を変革する事を宣言する。主題であった統合失調症、精神病に対し、無闇矢鱈に矜持を持つのは辞めよう。苦悩する天才は精神病だけが苦悩の種である訳ではない。僕は不可避的な現実に対し、創作や研究して一旗揚げざるを得なかった。それも既成概念に反旗を翻すという意味で。否応なく、行動をしてきた。そして今度はそれがきちんとした俗人的な、普通の幸福である恋愛に没頭、没入する事にしていこうと思う。

 僕の今回の記事はあまり自分にとって無味乾燥なものでもなく、婉曲的な修辞に横溢したものでもない事を意識している。しかしその企図が結実しているかどうかは議論の是非が分かれる事である。しかしそのような議論は寧ろ低級で、低俗なものである事も示しておきたい。

 自分の人生に期待したり高邁な理想を抱くからこそ、そこからの落差に懊悩するのだ。人間社会は往々にして不条理であり、どのような大言壮語で脚色し、現実世界に屹立してもその虚しさに気づくのが人生において稀有な事例ではないのである。僕は昔のスタイルで3000字を目指してこの記事を執筆している。擱筆するのは僕の放熱が完了してからだ。人間社会では狂気的な滾りや迸り、焼け付くようなストレスが跳梁する事もある。頑是ない幼年時代は僕は何に対しても無知でいられた。子供であったから無知である事は一般的ではあった。しかし暴力や極論はあった。身近な場所に差別がなされていたりしていた。僕自身がその数年後差別の対象となる事になるとはついぞ思いもしなかった。僕はあの頃、たちどころに友情が芽生え、竹馬の友もいた、理解者もいた。また精神病についての記載が義務教育の段階でなされる事を僕は哀訴嘆願する。自ら同情を得ようとしてそれが裏目に出て悲憤慷慨している事はもはや僕の愚にもつかない前途において特筆される程、支配的であった。

 僕の文章は支離滅裂で人目見ればこれが異常者の書いた文書である事は一目瞭然である事だろう。凄惨な程の精神状態の古傷は未だ癒えていない。その膏薬が必要だ、それは恋愛にのみ存在すると信じたい。尚も悠然と、専ら陶然と生きていく事が大事なのだ。僕の人生においての骨子はここまで悉皆ではないし、知悉でもないがここにさしあたり示したまでである。僕の発信は統合失調症を度外視しては饒舌に、時折怒気鋭く発信がなされた。そしてその一つの時代が終焉を迎えた。したがって自殺もしないのであるからまだ今後も僕の人生は続く。折に触れて自分の思想や感想をこの場で今後も臆面もなく、憚らず伝えていきたい。僕自身の不幸がゼロにならない。それは否めない。しかし妥協し、素直に、愛に満ちた、人徳のある、公序良俗に即した、そして理にも即した人物として生きる事は可能なはずだ。微笑を禁じ得ない、今後の幸福を想定し、妄想し、これからも生きていこうじゃないか。