僕は信奉している長身女性に対し、下心のみで接近する方法では失敗に終わる事を分かっている。僕は共通の趣味があればそれで仲良く出来る気がする。僕は芸術や哲学、数学に奇特な人間である。正規の教育は受けていないが。この世には多種な手管がある。恋愛にまつわる邪念が常に社会に散在している。奸計、悪意。それらをかいくぐり、自分自身で幸福を掌握出来るだろうか。男らしさ、マンダムが必要なのだろうか。僕は自分自身を出来る限り刷新させていきたい。これまでイケメンの手本とされた類例を踏襲した、換骨奪胎の男になる時が迫っている。僕は何を愛するか、何といれば落ち着くか、ありのままの自分で自信を持てるか、それは長身女性以外に考えられない。僕はもう他人にもらってばかりではいけない。愛する人に、いや、良い人々に清らかな慈愛を与えるのである。僕は本当にこれまでよく生き延びたと思う。こういう精神状態になれたのはひとえに人々の支援があったからだろうか、いや自分自身の努力もあっただろう。共通の趣味は別に性的倒錯だとか、四分五裂の偏愛だとかではない。僕は敬虔な、いや狂信者と言っても良い程の偏執狂的な芸術家だった。今もそうかもしれない。僕は芸術家として全注意力を動員した。僕はそうする事で何かを得られた気がした。これまでの血潮の迸り、滾り。僕が愛した美しいもの、耽美的な文章は結局ものに出来なかった。しかしそれでも自分なりの変幻を遂げた。様々な誤謬もあり、近視眼的な錯乱した表現があり、交叉した狂気がある。僕はもう狂気を失いつつある。何故なら僕の脳髄から、以前のような力学を感じられない。僕から友達は離れていった。嘲弄、差別、偏見。僕は障害のせいでおかしくなったのに、多くはそれを全く考慮せず、のみならず僕を玩具扱いした。
僕は幾重にも錯雑した構想があった。だから物語も作る事が出来た。数限りもない霹靂。それを理に即して解剖し、劇画的に、時折諧謔を挿入し鑑賞者の眼前に居丈高に見せつけた。僕は本当に苦しい思いをした。しかし苦しい思いをした人々が全員同じ感想を抱く訳ではない。人々には独自の世界観があり、永劫の同調圧力、集団主義があるかのように吹聴し、豪語する邪知暴虐の使徒には僕のような道化師がいる事に気がついているだろうか。僕は多くの人々とこれから昵懇でいたい。足繁く通った高校時代のあの精神科クリニックのように。僕もまた悦楽主義者のように愉悦を求めているのだ。