僕は村上春樹をあまり好きではない。諸作品は拝読した。しかし良さが分からない。これは僕の審美眼や慧眼がないからだろうか。恥も外聞もなくこんな事を言うことにやや抵抗感があるが。僕は大学時代に確かに彼の諸作品を読んだ。そして彼を礼賛し、次世代のノーベル賞作家と憚らずに言う人もいる。彼の文章はあまり僕には合わないらしい。しかしだからと言って自分が世間から排斥されるべき、淘汰されるべき弱者である事を指している訳ではない。これまで多くの作品を僕は読んできた。その中で感動したものもあったし、村上のような類型もあった。僕は10代後半で文学青年になった。塾講師からは物書きになれと言われた。僕自身に物書きの適性はないだろうと踏んでいたので、それとは反対の言辞が繰り出され僕は面食らった。僕の創作の源泉は狂気であった。しかしその奔流も今は衰えつつある。僕は本当にそんな自分に辟易している。無論遮二無二、無鉄砲だった自分に忸怩たる思いを抱く事もあったが。清濁併せ呑む経験を病気のままでしてきた。健常者だとどうなっていただろう。でも挫折も失敗もない、何の七転八倒もない、起伏も彫琢もない人生に値千金の価値があるだろうか。健常者であっても順風満帆とはいかないものだ。僕は自分が特殊だとは思わないようにしないと。僕は矛盾に満ちた男だ。今はブログに注力して、闊達に発信しているようではあるが、それでも粗製乱造感や固陋も否めない。そもそも意欲がない。意欲がない時に無手勝流に書く記事はどうだろうか。村上春樹の筆致ならこのような局面においても当意即妙に乗り越えられるのに、それを見分けるのが文才と言うのだろうね。

 僕は小説も読めなくなった。図書館に行くのも億劫だ。資金も糊口を凌ぐ、赤貧の状態である。まあそれはこれは誇張だが。自分の窮状を顧慮しない人生はたちどころに破綻する。そういった例は論理的に考えれば当然だ。論理が幅を利かせる現代の御代において、多くの諸氏御仁は上手く生きているようである。苦悩などないように見える。しかしそれは他人から見た僕の印象にもなるのだろう。現実に相対した時、様々な自然界の秩序整然、魑魅魍魎を一身に受ける事になる。殊に感受性の高い人間であればそれを痛ましい程に鮮明に受け止めてしまう。それに対し溜飲を下げる事の出来ない環境があれば自殺に向かってしまうのかも知れない。諸手を挙げて、精神的な成長の為に生きていく事は今の僕には出来ない。きちんと対策をして、平穏無事に、広大無辺な曠野を闊歩してゆく。時代の寵児になれない、世間に阿諛追従する事も出来ない。だからこそ僕は報われないのだ。後天的な歪さが尾を引き、裏目に出ている。僕が直すべき自分の悪癖を発見する事は現在の僕の人生において必要不可欠だ。僕は統合失調症の重鎮にもなれず、文学の金字塔も認められなかった。noteだと僕の仕事の大部分が見えると思うが。今は何もない。単調で、狂気も去りつつある。文字を使って格闘し、或いは享楽したりする事は疎遠になりつつある。それでも強さを失わず、何かに惑溺する事。無論公序良俗の範囲内で、ドラッグやその他の悪影響を及ぼすものに手を出さないように。栄枯盛衰、盛者必衰が世の摂理であり、今の僕の淪落もそれを実験的に示しているのだろう。可能性は未知数だ?解析不能な現実だ?そんなものは知るか。僕は一人の凡庸な男として自分を発見した。それが大言壮語ではあるが大発見の一部だ。無論個人史における栄華に過ぎないのだが。僕の書いている事は訳が分からない。僕自身も訳が分からない。しかしだからこそ意味があるのではないか、実存的に。実存の証左を今回も示した。怒涛の如き、破竹の如き過去の僕の記事も是非。珠玉の言葉や金言名句はないだろうが、何らかの参考にしてくれると作者冥利に尽きる、幸甚である。僕は自分の甚だしい表現欲を失ったがそれでも今回ほどの分量は書ける余力はあるようだ。