僕が障害をテーマに描いた文学はプログレッシブツイスト文学の中では疾病文学という。無論他の人も障害をテーマに物語を書かない訳がないのでそちらにも名称がついている。その名も障害者文学。障害を抱え生きていく事は軋轢や不快感を生むし、皆大変なんだと痛感する。往来で歩いている人や川辺で佇立する人の中にも障害者はいる。一概に障害者だからそれが可視化されるとは限らない。僕は空前絶後の存在になりたいと、そして世界で自信満々で屹立したいと思っていた。しかし今は身の程も分かってきた。最近の僕の願望は幸福を維持する事である。嫌な過去は考えない。僕は今日久しぶりに作業所で昔一緒に働いていた人から連絡が来た。入院生活を終えてまた働く事を考えているらしい。精神疾患というものは非常に元気であってもどんな些細なきっかけで、或いは心労やストレス過多で精神病院に入院するかは分からない。僕自身は家庭を持ちたいと考えているし、実家にも寂しいから帰りたい。僕は恋愛でも傲岸不遜だった。現実離れした条件をつきつけて、勝手に夢想していた。今ではそれに慙愧に堪えない。しかし恋人は美人でなくても良いから長身であって欲しい。このネット上で出会う事を祈っている。また7月いっぱいは祇園祭で京都の街が騒がしいので作業所への通所は8月を過ぎてからにしている。昨日統合失調症のライングループで在宅ですが働き、外に出られる時はなるべく出ていますと言うと、皆偉いねえとか凄いねえと言っていた。健常者を比較対象にすればそれは当たり前の事なのだが障害者とう負荷やそれによる確執があればその基準は破綻する。僕はこれまで障害者になってからは不和を自ら招く事が多かった。僕は人が好きで社交的な時もあるがその反対の状態の時もある。こういうのをアンビバレントというのだろうか。
障害者文学では僕の創作の源泉である障害を描写した。しかしそれがどれほどの反響があるかは分からない。仲間は褒めてくれたりはしているが。しかし今後指数関数的に元気になり、そうすれば幾何学的に着想を組み立てる熱意が途切れるのではないかと危惧している。僕は奔走してきた、自分の人生を良くしようと。そして今は良くなっている、孤独ではあるが、恋愛の萌芽、序章、瑞兆を感じている。僕は内面が非常に秀逸な男で、生粋のエンターテイナーである。人を笑わせたい、人を幸福にしたい。僕は与える人になりたい。これまではもらうことばかり考えていた。そのような思考回路ではじきに人生は瓦解する。僕は今年で26歳になる大人だ。少年時代仰ぎ見た大人という名の巨星が我が身そのものとなった。不思議なものだ。