僕は痴呆のような症状を呈して、矛盾や支離滅裂が文章や日常でもあらわれる事が多い。僕としては一生懸命生きているつもりでも、中々輝かしい栄光は得られない。僕は常に恥辱の日々である。大勢の人に馬鹿にされているのではないか。そう考えると僕の被害妄想も治っていないのかも知れない。良いじゃないか嘘をついても。誰かを中傷する嘘でなければ、むしろ重要に多種多様な局面で嘘を利用すべきだ。これは僕のメタ不条理文学の理念にも一致している。僕は健康に生きていたい。僕の母親は「小さくても大きくても、IQが低くても高くても、りょうがはりょうがだ」と言ってくれている。僕の味方がいるのは心強い。ただ両親は今住んでいる京都から遠方にある僻地和歌山に存在している。たどり着くまでの道のりが過酷で、つらかったりもする。僕は自分の存在を愛でる、屹立する自分の個性を愛でる。これは他人から見ればナルシシストだろうか。しかし自分を信じない奴に何が出来る。負ける奴は心のどこかで自分は負けるかもと思っているんだ、だから負ける。至極簡単な話だ。僕はもっと強く生きる為に物事を単純に考えないといけない。またダニングクルーガー効果染みた僕の活動にはもうそろそろ終止符を打とう。偉人になれなくたって、褒められなくたって、人口に膾炙しなくたって、長足の進歩を遂げなくたって良いじゃないか。毎日日進月歩。僕は頑張ったのは確かなのだから結果がついてこなくても自分を労われば良い。こうして活動も幅広く、深く、長く行っている。ブログを続けられる人は極めて少ないらしい。僕も否応なくブロガーとしての危急存亡に直面し、様々な暗礁に乗り上げたりしたが、それでも生きている。生きている限り可能性はある。自分を信じて、我が道を行けば良い。一念発起して勉強を始めるのも良いし、やりたくない事はやりたくなるまでやらなければ良い。
人生はマイペースで良い。病気になってから、僕は人生というものの精髄を味わいつくしたい。これまで僕は死んでいた。しかし生き返った。死者蘇生である。喜怒哀楽も徐々に回復してきた。まだまだ易疲労感や恐怖感やパニック障害的な部分は残遺しているが。しかし僕は変わっていっている。人との交流があり、自分自身の幸福がある。少しの事でも身動ぎもせず、いつも泰然としている。そういう男に僕はなりたい。僕の呼吸が、生命が読者に伝われば良いのだが。僕は必死に言語を用い、それにより社会を変えようとしている。しかしそれも過大評価かも知れない。僕は自分が思っている程素晴らしい人間でもないし駄目な奴でもない。ごく普通の人なのだ。それを認めよう。そしてそのごく普通の人でもこれまで頑張って成果を大量に出してきた。それだけの話。僕にファンがいるのならファンの皆さんに僕の事を見てくれてありがとうと言いたい。貴重な時間を割いてまで僕を見てくれている。検閲者だろうが、闖入者だろうが、新参者だろうが古参だろうが関係ない。僕に力を与えてくれてありがとう。僕は諸君に拍手喝さいを送り、この場を借りて感謝の意を表したい。