僕は記憶一辺倒になっていた。目にするものは蒐集家のような態度で吸収した。しかし思考力についてはむしろ衰退したのではないかと思う。博識だとか物知りだとか褒められる事があっても思考力は昔ほど褒められなくなった。大人としては標準的な水準だという事だろうか。僕は艱難辛苦を乗り越え、病気もほとんどマシになった。気が向いた時には外出もしている。昨日から在宅ワークも始めて自分にあった作業所を見つけられた。また僕はこれまでダラダラブログ記事を書いていたりもした。今ではフォロー数はかなり多く、フォロワー数は少ない。このブログを読んで少しでも良いなと思ったらフォローをお願いします。でも僕のブログに読まれる価値などあるのだろうか。いや、駄目な方向に懐疑的になるな。きっと大丈夫だ。

 不条理を描いた文学はこの世に膨大にある。しかし不条理文学が持て囃されたのは昔の話で、最近では文学作品に焦点が合わせられる事はなくなった。文学はこれほどまでにコンテンツ過多の時代において劇的に埋もれていってしまっている。この世の芸術作品の9割は駄作だという意見がある。それはまさにその通りでショウペンハウアーも悪書の多読は悪であり、自分で考え抜いた知恵こそが重要だと言っていた。僕のこの主張が曲解でなければ、確かにもっと自分の意志で生きないとな、盲目的になるのではなく、何かに隷属する事の喜びはある。誰かに考えてもらうのは楽だからだ。僕も知的に阻喪している時はそうしてしまう。しかしネット上での僕の発信だけは純度百パーセントの心の芯から表出したものと信じたい。また今の僕は裸眼でパソコンに向かっているのだが裸眼でも割と見える。遠くを見つめる事が目の疲労に役立つのならこうしてパソコンに向き合う事は非常に貴重な経験となるだろう。

 僕のファンがいてくれたらありがたい。僕なんて全然人気もないし、他人に訴えかける、需要のある発信も全く出来ないない。ただ自分の立場や意見を書いているだけである。これは非常に素朴で、豪胆な態度でありながら、やはり注目されない。黙殺不可避である。こうなってしまった僕を見てくれている人にはありがとうと言いたい。

 様々なコンテンツが栄枯盛衰していった。そして新たな世代の新たな特徴も顕著に表れている。それは名状しがたいものである。ただ見れば分かる。この世は良い意味でも悪い意味でも変わって行っている。集中力の欠如で、修行を経ないまま大人になってしまった人物もいる。僕のように統合失調症になってしまった男もいる。騒然とした世相と言うか影を帯びた、淪落の世相がある。生命そのものは不合理で無意味なものであり。ただ存在だけしている実存的な存在だとはキルケゴールかサルトルだかの誰かが言っていた。僕の思考力には華やかさがない。もっと相手も楽しませる、諧謔性がなければ。何度も何度も自分の中でユーモアを反芻する事で新たな広漠な境地があると思う。

 ここで書いている中で僕はやっと分かった。僕には才能がない。才能があればもっと彫琢された文章を書ける筈だし、もっと人気ブロガーになれるし、フォロワー数もフォロー数を上回るだろう。いつまで知性に拘泥していたのだろう、僕は知性的な人間ではない、むしろ感覚派の人間だ。

 それに僕は雑踏や往来が怖い。これも直さないといけないのだが、今の時点では特段打つ手なしだ。