僕は現実の迫害から逃げてきて現在このブログという居場所をつくった。またSNSも僕の現実逃避の居場所となった。僕は独裁的な迫害を憎む。しかし人間は憎まない。自分の居場所、これは弱く、儚いものだ。何事にも盛者必衰があり、発信者として一躍寵児となっていた人ですら自らのチャンネルを消去したりアカウントを消去したりしている。実に憐憫に耐えない話だ。また僕自身の統合失調症を発症してからの学生生活は頻繁に笑いの種にされ、道行けば馬鹿にされ、罵詈雑言を甘受するしかなかった。思えば僕はあの頃に逃避していれば良かった。逃避は時間を弁えれば良い方向に作用する事もある。

 僕はめげずに、書物に励まされた。無論思春期の事だからよく泣いて過ごす事も多かった。僕は何のために生まれてきたのだろう。リアルの辛苦を僕に伝える為だろうか。もし形而上学的な話に至れば生きる意味が分かるだろうか。実存主義を端緒とし、人生哲学、ハイデガーの存在論などがある。その先に形而上学の発達はどのようになったのだろうか。僕は付和雷同して多くの人に阿ったりはしない。僕は学生時代専攻した哲学史の事でさえ寡聞にして知らない。

 僕は多くの人に支えられ、自分の為になる為の逃避をしてきた。それらは病気が素因である場合も少なからずあるが、僕自身の研究と創作の為でもあった。僕自身に魅力が欠乏しているのは分かっていた。かと言って学校の勉強に取り組む意欲もなかったのでより実際的に評価され、かつ僕の本懐を遂げるにはどうすれば良いかを考え、研究と創作を開始し、継続した。僕は単に灰燼に帰す男なのだろうか。それでも僕なりに一生懸命に生きている事は僕の熱心なファンであれば十分に理解しているだろう。

 僕はエッセイの白眉だ。何の意匠もない僕自身が凝れる場面はリアルでは今の時点ではかなり少ない。まあでも最近加速度的に栄光を掴めるようになってきた気もする。勿論それは錯覚かも知れない。

 僕は誰かからの助成を得て生きている。ヘルパー、訪問看護。僕は自分を天才だと思っていた。しかし老いるのにしたがって僕は大仰な実力がない事を漸次的に理解出来るようになった。

 死に瀕する芸術家、文学賞も何も得られない、前駆の使徒。統合失調症は未だに当事者本人でさえ歪な関係性や力学を伴う。僕はなまじ知識があるだけあって衒学的になってしまう性向がある。天下を睥睨するようでいて、果断に富んだ性格の豪傑に、僕はなりたい。