僕は多くの人から誰かと比較して苦悩する必要はないと教わってきた。僕は自分を巨万の富のある人間ではないからと言って不平不満を言っているような、極論そう言う状態なのかも知れない。歴史に名を残すとは気宇壮大な目標ではあるが、それに固執しすぎると肩身の狭い思いを抱くようになる。そして些細な事にストレスを感じ、繊細な神経を更に神経にさせる。そこに統合失調症も加わればどうなるか。それは僕が人生において体現的に主張し、一挙手一投足していた事とその内実が物語っているのである。誰とも比較しない、僕が療養と称して半年ほど休もうとしているのは果たして甚だ良い選択と言えるのか。でも外は怖い、しかしいつまでも怖がっていると更に孤独が際限なく深淵に陥っていくに相違ない。このブログのフォロワーがもっと増えれば良いが、僕のような歪で、何かを拗らせた人間の書いた文章に心が惹起される事などあるだろうか。確かに文体の改造は大変な功績だった、少なくとも僕にとっては。しかし僕の昔の文体が好きだと言ってくれる人がいるので、それが醍醐味だと思ってくれている人がいるので文学作品の中では依然として昔の文体で書く事にした。僕は何度も自分の中で反芻している思考がある。しかしそれは堂々巡りの代物、循環論法の代物である。そしてその根幹には再三再四他人の存在がいる。目標が高いのは必ずしも悪い事ではないが、小さな幸せを咀嚼し、嚥下し、消化して生きていくのも良いと思う。僕は幸福になる為に偉人も、先輩も、先達も、死屍累々の豪傑も、意識せず、隔絶した存在として唯我独尊に生きていけば良いのである。僕の統合失調症は淪落の序章であったが僕は復活を果たした。まだ外や人への慄然は消えていないが、昔のように「才能を安売りする気はない」などと傲然と、或いは奮然と言う事はなくなった。僕は加齢とともに自分の性格が美しくなっていくのを感じる。無論顔面も整っていると言われるし笑顔も素敵と言われるが。僕は175㎝以上の長身女子の前では誰よりも燦然と輝いていたい。僕は馴れ初めをここで嬉々として語りたい。まああまり期待しすぎるのは駄目だが今の25歳、恋愛経験なしの僕にとってはまだまだ前途有望だと言われるし、僕もそう思う。今の僕は明るくてエネルギッシュだ。もう欠点もごく僅かでしかない。自分のありのままを愛そう。他人と比較する事無く、普通で、無難で良いじゃないか。僕はこの文書作成の中で吹っ切れた。葛藤を持ち続ける時間は人によって個人差がある。したがって僕の例を強引に、ごり押し的に統合失調症治療に、精神病理に一般化させようとは思わない。しかし弱者でもこうして生きていける、それを今回僕は筆記したかった。そして畢生僕の人生のテーマは自己表現であり、その筆致も尚もとめどなく変遷していく事をここに宣誓する。