凌我、という名前は僕の本名である。我を凌ぐ、という意味だ。僕はこの名前に恥じない人間になれただろうか。鷹揚、静謐な部分も僕にはあるが僕の性格とは何であるか。僕の名前に相応しい性格とは何であろうか。ラノベと現実の区別のついていない相部屋の小男に僕は高専時代、しきりに馬鹿にされた。お前は名前負けしてるだの。僕を馬鹿にした連中は一人ではない。IQ70なんて言われたりもした。僕は傷ついた。彼らも僕を傷つけて良い、その権利があると傲然としていた。辛い記憶だ。そんな記憶を塗り替えるべく僕は矢継ぎ早に行動に起こしている。ステレオタイプ通りの統合失調症ではない。僕は独立不羈と紛われるような人間になりたい。実際人からの援助を微塵も受けずに生きることはできない。アリストテレスか誰かが、人間とは社会的動物だ、ポリス的動物だと言ったがそれは正鵠を射る言葉、警句である。

  僕はりょうが(凌我)と呼ばれたい。親密さを感じるからだ。また最近僕は人からの視線を感じなくなった。病状が良くなってきている証拠だ。昔はじろじろ見られているような気がして怖かったのだが。僕は幸せだった時代に思いを馳せ、それを凌駕しようとしている。健康だった時代より疾病を罹患した後の方が結句、急転直下優れた人間になれた気がする。まだまだ僕には改善すべきポイントがある。まだまだ僕は頑迷固陋だし、外も怖い。随意で遮二無二行動する事も今は甚だ困難を極める。 

 頗る仇敵だと思っていた統合失調症も、今では朋友のような思いだ。彼は扱いにくい、ジョンレノンのような人間だ。統合失調症はジョンレノンであり僕は心にジョンレノンを飼っているのだ。僕はもう無理はしない。この生活の中で月並みの幸せを、そして稀に苦痛を甘受していく。類稀な人間であっても苦痛と出会わずに生きる事は多分出来ないだろう。人気者にも人気者の懊悩があり、僕には僕の懊悩がある。
 一時期は本当に支離滅裂になって淪落の一途を辿っていたが、僕は幸運にも周囲に恵まれた。僕は貪欲にならない。轟々たる霹靂をかいくぐり、潮の声音を味わい、新緑の山岳地帯も僕の心に焼け付いている。これは地方人の愛郷精神なのかも知れない。僕はまたシュルレアリスム的なものを生み出したいと思っている。現実の我を凌いで、多くの不世出かつ意気軒昂なものを作りたい。僕の元気がおびただしいまでに、広大無辺に日本の随所に影響を与える事を僕は期待している。僕が時代を作るのだ。これは躁状態に近い道程を装填した文章である。要するに、僕が再三言う生の証左だ。僕は何の支障もなく読者の心に闖入し、没入させたい。