書物を紐解く事は甚だしい勇気のいる事だ。僕のように統合失調症で本が読めない人もいれば興味関心がなく雑多な人間関係の中での会話における充足感のみを餌にしている人間もいる。時代の流れとして著名な文豪の本であれ、教養や食指の動くままに耽読するというものはない。語彙力などは本がなくても身近に話の上手い人がいれば、その人を模倣し、不意に富むものにすることが出来る。 

 若者の読書離れ。それが僕の作品の発見や発掘の障害物になっている。大人になると人生は自由だ。半ば強制的に読まされていた文学も地味な存在として切り捨てる人も多い。僕の学歴は華やかなものではない。読書をしていたが、読解力は今ひとつである。読書の単純さに辟易とする者はいるだろうか。今後小説家がもてはやされる時代は来ないのか。ノーベル文学賞作家ですら昔ほど鄭重に扱われる事はなくなった。そこで生き残るには前衛性が必要だ。人は未知なるものに圧倒される事もあれば恋慕する事もある。統合失調症を文学と融合させ、形式の中に挿入し新しい創造物は生まれる。同時代の彼への視線は冷ややかである。しかしそれでも統合失調症当事者の人生はエンタメになれる可能性を孕んでおり、それが正当に評価されれば作者冥利に尽きるというものである。 

 様々な文化が溢れ、錯綜している。その現状の中で僕は真っ当に自分を磨こうとしている。僕は立派な人間になろうとした。そして革新的な研究をしたり、前衛芸術を矢継ぎ早に創作したりした。人生の精髄。五里霧中の前途。過去の記憶を脳で加工する事。読書離れは仕方ないが、僕という個人に魅力を感じる事から始めて欲しい。秩序はない、四分五裂の文章が雑駁に示され、生の証左がいかんともしがたく示されているだけだ。言辞があり、ナンセンスな息切れがある。僕は死ぬべきなのか? 読書離れ、か。紙の本を読むのが困難ならこのブログの作品を画面越しで読んでほしい。また音楽もある、絵画も、論文もある。僕は統合失調症としては相当大きくなった。途中で脱落する人々もいた。 

 僕は少数の高校の参考書を極めようとしている。今更大学受験をする訳ではない。単なる趣味としてだ。統合失調症になってからは勉強が頗る不得手になったからだ。 僕の血潮の片鱗でも、寸毫でも感じてくれれば僕は恐悦至極である。僕は文豪になりたい、現代日本のスタンダードでありアイコンにもなりたい。そのような気宇壮大な夢の前で僕はただ信じて奮進するしかない。僕は長い間近視眼的になっているのかも知れない。確かに健常者の世界や滔々たる知的活動に触れると易疲労に苛まれ、阿鼻叫喚の極み、辛酸の極みになる。僕は恐れ多くも話上手と言われる。それは今回の論考で寓意として表現する事が出来ただろうか。口がわななき、総毛立つ、1人の男の格闘の記録である。肺臓は裂かれるばかりの恐怖に沈殿し、咽喉は枯れている。繁茂する多淫な雑草のように僕の心象風景は貪婪に、悠然と、依然と最大版図を更新している。おびただしい、むごたらしい程の生を、読書離れの呪縛から解き放つ活動を僕は継続させていきたい。ほら、読者諸氏よ、言葉を通じて悦に入る事が出来た。これこそ、文学の原体験に相違ない。値千金の文化を示すことが出来た事に意を安んじて僕はこの辺りで擱筆したい。