宝の山 

 この世には評価されずにひっそりと佇立する宝の山が散在している事をゆめゆめ忘れてはならない。この世が平均的で厭世的で、退屈なんて事はない。悩んでいる時こそ芸術の先駆的作品に邂逅すると良い。僕のアートに縋るのも良いだろう。また僕は今までに多くの発見をしてきた。それらが正当に評価されるのには僕が死没、夭折する以外にないのだろうか。ポールマッカートニーと言えば偉大なギネス級のアーティストでありロックの草創期の代表格であるビートルズの大黒柱だが、彼とつがいになったジョンレノンは殺されてからレジェンド扱いされている。実際に僕自身もボールよりジョンが好きだ。彼は放縦に生きた。誰よりもワイルドだった。しかしそのような評価が凝固しているのはやはり本人がいなくなってから気づく事、夢から覚める事が多いからではないのだろうか。 カフカも、現在の人々より後世代の人々の方が、殊に死んだ人々に対し慧眼的、審美眼旺盛な見方が出来ると説いた。

 畢竟、死というものはただあるだけである。いなくなってから気づくのは愛の化学反応に相違ない。 まあそれでも宝の山に創作者が生きている間に感じ取り、愛好する事が出来る人間は非常に傑出した、才気優れる嗅覚を持つ人間である。 僕はこの文章により自分を愛撫しようと努めているように他人に見られるかも知れない。極めて独り善がりで、蒙昧な夢ばかり見ている。アインシュタインの幼少期も空想好きで、教師からの評価は芳しくなかったという。これについては明確なエビデンスがある訳ではないので、あまり確固たる程度で断言は出来ないのだが。 芸術については余りに実験的であれば周囲から白眼視される可能性は大いにある。先駆的である場合も同様だ。どの分野にも早すぎた仕事というものはあって、それはクオリティの問題ではない。時代の巡り合わせが悪いだけなのだ。だから僕は同志である前衛芸術家との共同体を作りたい。個人では無力でも集まれば、或いは理解されればきっと刹那的にでも幸福になれる筈だ。 宝の山、それは継続して勇猛果敢に物事に打ち込まなくては創造し得ない代物だ。多くの人々がネットからも、現実からも大敗を喫してきた。雌雄を決する場面において何が出来るか。肝胆相照らす事で大きな潮流、プログレッシブツイストを語り継ぐ事が出来る筈だ。契機となるのはネット上の活動であっても、(それらの全てを鵜呑みにする訳にはいかないが)、十分に没入出来る新たな創造物に耽溺する事は依然として重要だ。

 耽溺は怠慢ではない。一つの文化だ。それらが広大無辺に広がり侵食する事で大きな常識が生まれる。