僕は長い間、自分について幅を利かせて生きてきた。これまで統合失調症の一人としてキャリアを開始してから10年にもなる。いじめられる事もあれば通例のレールから逸脱しようとした事もある。しかし僕は25年間、生き延びた。何らの才覚も、魅力もない僕が自分の秩序を墨守し、対策を講じる事、それらは視点を変えれば諧謔のような事だ。僕は文学活動も行ってきた。その中で僕はある程度のストレス発散が出来たような気がする。僕は死して偉大になる、再発見される存在なのかも知れない。しかしそれでも酔っぱらい、このような雑駁な文章を書いている。僕はどのようにして生きていくべきだろうか。精神科のデイケアを見学してみようか。 僕は大きい体を手にした。そして和歌山を満喫し、京都に帰ってきた。「喪失感」という中編小説も書いた。僕はやはり書くことが好きなのかも知れない。自分自身の認知の歪みを文章を経て表現する。芥川や三島のような巧みな修辞、審美眼に統一した修辞ではないかも知れない。それでも何とか物書きとしての立場を身勝手に死守しているのである。僕のプログレッシブツイストは統合失調症を筆頭とした精神障害を半ば露悪的に、のみならず錯乱的に示した事である。僕は目下、何らの文芸的な創作を行う予定はない。しかしこうして何かを論述する事は出来る。 僕の高校時代はその精髄が空前華々しく世間的に重宝されているが故にその内の悲劇や絶望も何にも増して、際限なく、文学のテーマとなっている。文学はこの国では低俗化をもたらし、凋落し、それとは対照的に幼稚な感性を基調としたコンテンツが台頭しているきらいがある。それが悪辣なものだとは僕は思わない。僕は時代には必ず潮流があり、起こるべくして万事は起こると考えている。これは蒼然かつ主観的な僕の意見である。またステレオタイプを完膚なきまでに粉砕骨折させる事が僕には出来る。 僕は幸福である。障害年金で何とか生き残っている日本政府の慈悲或いは欺瞞の対象者である。僕は文豪になれたら良いなと思っている。 雑踏が僕にはまだ怖い。バスに乗るのも断腸の思いだ。僕はこの僕という一人称を気に入っており、「俺」なんて乱暴な一人称を乱用する人物を内心軽蔑している。まあ僕のような侏儒に軽蔑された所でそれほ物議を醸すものではないと思うが。僕は本当に自分自身の清らかさを懸命に維持しようとしている。如何に近視眼的でも、何とか一人前に生きようとしているのも痛ましい、のみならず諧謔的な話だ。僕は一面的にはユーモアに隷属する芸術家である。