息切れの果てに 

 僕は何も書けなくなった。文学的精髄はもう尽きた。僕は今後どうすれば良いのだろう。カラマーゾフの兄弟は読破した。面白い物語だったが批評できる程読み込んではいない。頑是ない僕のアートにおける闖入と乱暴狼藉を寛大な心で許容した読者には改めてお礼を言いたい。どうもありがとうございます。
 僕は「療養」を経て文学とは決別する。もう何を書いても同じ事の繰り返しな気がするし、何より弱り果てた。詭弁を絢爛な修辞や婉曲表現で装飾したり、葬りきれない過去との対峙が嫌になった。物語の源泉は目下作家個人の経験が大きなウェイトを占め、それが先行してその次に才能なのだと思う。その点では統合失調症の認知機能障害や歪な思い違いというものがいつも以上に誇張されたような気がする。僕の未熟さ故、美談や寓話としては完全な作品は生まれなかった僕の文学活動、それを思えば慚愧に堪えない。
 僕が作家を志したのは高校時代の塾講師から物書きになれと言われた事からである。統合失調症の症状もありながら、なんとか全日制高校を卒業したは良いが、勉強に対しては甚だ不得手ぶりを憚らず発揮した。僕の黒歴史とは現在25歳まで続いた。僕はいい加減平穏な日常に溶け込み、頑迷固陋な頭で無理に奇をてらおうとせずにやっていきたい。ブログは気が向いたら更新していくつもりだ。多分僕の今の僅かな熱量が完全に尽きるか、絶命するまでは文字の芸術を、その醍醐味を、人々に再三再四伝えていきたいと思う。
 僕の作品にしたって回顧すれば非常な痴呆の類であった。思い返すだけでゾッとする。統合失調症を文学に活かせないかと曖昧模糊の現状で懸命に考え抜いた。そして文学作品をはじめ、枝葉末節まで至るエッセイも書いていた。統合失調症の昔の名称は早発性痴呆だ。僕の煌めきがあったかどうかは極めて懐疑的ではあるが、いいね!をしてくれる人がいる限りは僕もブログを続けていきたい。この惨めな男の縮図がこのブログに遺憾なく発揮されている事を、それ故心理学的には僕は値千金の研究対象である事を僕は居丈高に伝える。
 僕は長編小説を書く際には余剰や冗長さのようなものを熱愛しすぎた。今の僕は20歳で文学から離れたアルチュールランボーの心理が些かだが直感的に理解したような気がする。しかし言葉には出来ない。もしかすると僕は図らずも自分が一番苦手な領域に足を踏み入れ、天地開闢していったのかも知れない。迂闊だった、これ以上の恥は御免被る。という訳で僕はこれから文学活動は一切しない事に決めた。15歳の時から僕は迷走し続けた、混迷と恣意の時間を過ごしてきた。
 ドストエフスキーなんかでも、流石世界文学の巨匠、僕と比べれば雲泥の差である。僕はそもそも小説や詩を研究、分析しようとしなかった。僕はそれらを通じて自分の破茶滅茶、奇想天外、愚劣、露悪、そして統合失調症を不条理の中で錯乱した表現を重んじ活動してきた。しかしもうそれも限界だ。それでも見放さないでください。哀訴嘆願します。僕は自分なりに文学を極めて、それを引退してからも文化人でいたいのだ。