療養〈56〉

 僕は自分が衒学的だった事がある。自分の吸収した知識を惜しげなく発露し、頭でっかちになっていた。高校時代の精神科医は「天狗になるな、お前のような人々はこの世の中にいっぱいいる。お前は自分を過大評価している」と言っていた。確かにそうだ、軽妙な選民意識が僕にはあるように思われた。僕は絶えず思索を続けている。僕はもう25歳の大人なのだ。自分を反映した物語の主人公というよりこれは完全な私小説である。僕は自分の近況を描写し、真理も克明に描写する。真理の描写の方が多い。僕は内向的なので。知悉の大賢者であればもっと巧みに文章を紡ぐ事が出来るだろう。また晦渋な文章も容易に紐解き、自分の糧にする事も出来るだろう。僕は今母親に料理を作ってもらっている。夕飯だ。僕は先ほど疲れたので少しゴロゴロしていた。やはりゴロゴロする事は良い、精神的にも回復したような気もする。僕は都合がついたら風呂を洗うつもりだ。

「もう水は抜いているから」電光石火、僕は風呂場に向かった。風呂を洗うのは清掃業務の時もそうだが、少し苦手意識がある。しかし僕も家族の中で貢献しないと。大人がこのまま何もせずに、無為無策、無為徒食のままでいてはならない。懶惰な時もあっても良いが全体が懶惰である必要はない。

 僕の少年時代は統合失調症と中二病をこじらせて如何にも驕慢であった。中学の成績は良かったがそれだけではない、画才も遺憾なく発揮した。画家になれとか、哲学者になれとか他の生徒に言われた。多くの生徒が夢を語る中、僕は歴史年表に載る人間になると語った。それは無論口頭ではなく文章での調査だったが。僕の気宇壮大な思いを受け取った先生諸氏達は非常に欣喜雀躍した。こんな生徒は稀有だと思ったのだろうか。当時の教師の一人からユニークですねと言われた事もある。しかし今の僕はユニークだろうか。自分を抑制して生きてきて、不平不満を夢で見て、無意識と意識の間を交互に行き来している。僕はどうしたって消せない過去がある。しかし今後に目を向けよう。僕には家族がいる。

 母親が栄養を考えて料理を作ってくれている。これは嬉しい事だ。僕には愛情を持って接する事の出来る見方がいる。それだけで十分幸せではないか。神が来駕し、神の言葉を拝聴し、五体投地して、忸怩に燃える。そのような極端な妄想はもう辞めにするのだ。僕の母親は今日、杖道に行くらしい。今日は彼女の好きなドラマがある、それを母と一緒に見ようか。

 

 

 

 

療養〈57〉

 何も書けなくなった訳ではないが僕は文章を通して多くの気力を使う事になっている。僕はお腹が空いたら食べる事にしている。しばらく小説執筆をしよう。僕は「あの三浦春馬ですら自殺する世の中、何があってもおかしくないな」と言った。母親は「まあ誹謗中傷とかあるからな、彼がそうだったかはさておき」と言った。僕の文章の巧拙は読者諸氏であれば十分に、痛ましい程に判別がつくとは思うが、僕は今後も書き続ける。母親は食事をしている。僕はその様を見ている。彼女はよく噛んで、ゆっくり食べている。彼女のような人物は余り世の中にはいないだろうと思う。激甚に行動的過ぎる。僕はリビングにパソコンを持ってきている。そう言えば昔、僕の友達の祖父がしらすをくれた事があったな。僕はそれを家に持って帰り家族一眼、一蓮托生に消費したものだ。恣意的な文章で推敲もない、こんな文章が、お粗末さが統合失調症の証左になり得ると僕は思っている。今の時期統合失調症の啓蒙活動はなくてはならない。僕がその泰斗として生きる他ない。僕はそんなに食欲がなくなってきた。性欲もそうだ。昔ならすぐに興奮していたが今の僕は何もない、虚無である。リビドーがなさすぎるからなのか、超自我の検閲が厳格すぎるからなのか。

 僕はゲーテの本をファウスト、ウェルテルをはじめ持っている。しかし彼の文学は僕には皆目つまらない。シェイクスピアもそうだった。僕はどうすれば良いのか。ただ書けば良い。自分の存在を世に問う。僕を過小評価する人間もいるだろう。見下したり、統合失調症そのものに閉口し、辟易するような幼稚な偏見や差ベルを持っている人もいるだろう。しかし僕はそんな社会の中で生きている。それが悪い事か。同じ人間なのだ、痛痒を分かちあう事くらい当然だろう。僕は頑張っている。世の中の諸氏にも、頑張って欲しい、無理のない範囲で。実家でのひと時をこの執筆活動という頑張りでその、無情性を昇華させている。その事に僕は典型的なカタルシスを感じている。僕の一挙一動が偽善だろうか、欺瞞だろうか、軽挙妄動だろうか。それは僕には分からない。僕は無意識に行動する事が多い。そうして生きていて、もう25年も経過してしまった。僕はまたご飯を食べる。また僕は鏡が苦手になってしまった。自分の姿を見るのがほとほと嫌になってしまったのだ。僕の過ぎ去った青春、あの頃は統合失調症でいっぱいいっぱいだった。もうどうする事も出来ない程打ちのめされていた。反芻思考だ、これは。

 

 

療養〈58〉

 夕食を終えた。父が帰ってきた。遠目から見ても痩せたと言っていた。その分服がデカくなったが。まあ痩せたのは良い事だ、長身痩躯、目標の体に僕は見事到達したのだ。まだ夕飯を食べた後なので風呂に入るのは後にする。今実家には僕と母と父の三人しかいない。タイムスケジュールも実に自由闊達である。誰にも阿諛追従する事もない。僕の周囲には権力者がいない。ルサンチマンもない。僕は家畜のように生きる道を選択しなかった。痴呆のようになりながらも僕は現状を生きている。僕は今、リビングで一人だ。まだお気に入りのアニメは取りためていないので今はテレビもつけていない。リビングで一人テレビをつけるという行動は中々に虚無感が醸し出されるものだ。濛々とした現実社会において愉悦を見つけるのは非常に良い事だ。僕は自分の世界を構築し、そこに長く留まっている。もう鏡も気にしない。僕の母親は「でっか」と僕を見て驚いていた程だからだ。僕は多くの人と交流し、人間不信になった。対人恐怖も今は健在だ。無論この健在とは皮肉の言辞ではあるのだが。

 やはり僕はテレビをつけた。情報が漫然と僕の中に入ってくる。ジャーナリズムとはそういうものだ。僕にとっての腹心は有象無象の情報ではなく、自分自身の勝利で手に入れた錚々たる知識や知恵、そして家族、恋人だけだ。僕の母親は8時半まで杖道をするらしい。今は父親が風呂に入っている。父の腹は布袋腹である。僕はあのようにはなりたくあいなと思った。僕はどう頑張ってもチェスチャンピオンにはなれない。僕はチェスを勉強していた時期もあるのだが当時はそれをファッション的にやっていた。真の情熱に根差したものではなかったのだ。僕はAIとばかり対戦をして、魂を持つ人間と対戦する事はなかった。AI相手でも負けそうになったら消したりしていた。これは僕の生来の負けず嫌いによるものだ。それも倒錯した負けず嫌いだ。藤井颯太も自分のゲームを放棄する事はしない。滾るプロ意識が見受けられる。僕は先ほど二階でゴロゴロしていた。今はテレビを流しながら、本を読んでいる。カフカの本だ。何度もカフカの固有名詞が登場する故閲覧者御仁は察しがつくとは思うが僕はカフカの文学が好きだ。ネットで無料で読む手もあるが僕は紙の本が好きだ。僕の姉も紙の本派らしい。僕は頑張って、頑張って、その先に何か甘美な幸福が訪れるという奇跡を待ち望んでいる。僕ならその軌跡を起こす事が出来ると信じている。心からそう信じている。

僕は読書を終えた。

 

 

療養〈59〉

 僕の父親は風呂から上がったらしい。リビングにやってきた。そして僕は歯磨きをした。血が出た。しかし多少の出血には目をつむるべきだという情報を僕は知っている。専門家からの情報だ。僕は家族の大切さを味わっている。母親の優しさ、父親の逞しさ。そして僕がここにいる。僕は自動車免許を持っていない。だから遠出をする事が出来ない、自転車にも乗りたい気分ではない。今日の市役所までも歩いて行った。僕は僕なりにぐうたらする事に慣れてきた。僕達統合失調症には天才的なネットワークがある。ネットを開けば、統合失調症を調べる事が出来る。昔以上に知られてきた病気であるのかも知れない。僕はこうやってパソコンを使っている。母親もそうやってパソコン使えるのに働かないのは勿体ないと言われた。確かにそうだ。しかし現代人であればパソコンの使用スキルはマストである

 先ほどまで読書をしていたが今は何もしたくなくなった。懈怠の萌芽だろうか、僕の言葉が誰かに薫陶を受けさせ、凱歌を奏する事があるのだろうか。僕の膨大な読書経験によって得た知識は非常に特徴的で聞くものに学びをもたらすものであるらしい。僕は話し上手で、コミュ力が高い。だから大丈夫、現実世界でもよく交流できるし、恋愛だって出来る。またさっきの歯磨きの強さも少し和らいだ方が良いかも知れない。歯医者には行きたくないのでセルフケアでどうにかする。僕はセルフケアを毅然として行う事で、健康になる。日常の雑多な事がテレビではやっている。和歌山のローカルのテレビ番組だ。僕は何を現実世界から学ぶべきだろうか。僕は今は非常に幸せである。

 政治の事柄、地域の催し、経済、その他些細な出来事。僕はどうあってもジャーナリストとしては生きられないのだろう。周囲に張るアンテナが少なすぎる。僕はどう頑張っても得手不得手がある。

 また僕のかつての友人達はもう僕とは疎遠になった。メールも交換していないので意思疎通を図る事は困難である。この時間は非常に緩慢である。まるで荒涼した土地に散在する芥の山の如き風景が僕の胸に忽然と現れた。僕は自分の力だけでは生きる事が出来ない。また歯医者に行った方が良いのか。僕はセルフケアだけでなんとかさせていきたいものだ。歯医者は怖い。僕は自分の歯にコンプレックスがある。高校時代、教師にお前ら歯、汚いんだと言われた事がありそれで僕は歯に対し劣等感を持つようになった。

 

 

 

療養〈60〉

 非常に傑出した存在がこの日本にいるとするならそれは同時に精神的に危うい人物ではないだろうか。精神的な異常を示すものには大いなる可能性がある、とはよく言われてきた事である。まあその中には僕のように社会に適応出来ずに暮らしている人々もいるのだが。そう言えば僕は先週京都の家の家賃を振り込んだ。もうしばらく振り込まなくても良い筈だ。僕は多くの人々を魅了したい。僕の心境はスポットライトが浴びせられているようだ。これも妄想、いや自意識過剰だろう。僕にはそうして生きないと立っているのが辛いんだ。強がっていないと生きてはいられないのだ。しかし矛盾しているようだが自分の脆弱な部分や病気の部分を群衆に見せずにはいられない。二律背反だろうか。強さを追い求めつつ、弱さを隠さない事は。今は僕は風呂から出てきた。

 僕の好きなバンド、魂のバンドはブラックサバス、ビートルズ、ピンクフロイドだ、依然として。そして僕は多くの人々と仲良くなることを夢見ている。もし僕が有名人になったら慈愛と親切心、その他ポジティブの押し売りをしていきたい。それが結句嫌われる事になってもだ。僕は単なるエゴイストである。それを僕は認めている。しかし僕はエゴイストなりの苦悩をしてきた。僕の髪の長さは今は丁度良い。もう肉付きの良さが消え、長身痩躯になった事でプロレスラーと言われる事はなくなった。この立派な僕の体躯。僕は仮に数値的にそこまで良くなくても前向きに生きていくつもりだ。知能も身長も。こんな僕でも愛してくれる長身美人がいると願いながら。

 僕は母親と一緒に今日ドラマを見ようか、母親と話しながらドラマを見る。それは恐悦至極である。僕は今日、疲れた、昨日程ではないが、人が集まる場所に行ってきた。こんなんじゃライブもいけない。僕がネットを通じてコンテンツを享楽する、耽読する時代に突入しているのかもしれない。昨日は外国人を沢山見たが、和歌山の田辺市には外国人がいないらしい。外に出てもいなかった、実証したのだ。僕の文章は壊滅的だ。しかしそれが一種の諧謔として導入されていると甘受されれば幸いである。僕は小説家である。物書きである。何の臆面もなく、往々にして僕は文章を綴る。そうする中で多くの幸福が悦楽が、恍惚が得られつつあると思っている。新しい市役所は良い匂いがした。広く清潔であった。僕はそこに福祉の手続きをしてきた。あの場所は非常に良かった。マイナンバーカードの暗証番号も忘れていたので変えてきた。