療養〈16〉

海老で鯛を釣る。少ない負担で大きな収穫を得る諺。僕はちょっとの勇気と調子に乗ることで小学校時代はスクールカーストのトップクラスであった。中学になっても剛毅に振る舞い、勉強を享楽し、生来の無鉄砲さと、少年期特有の底知れぬ細かいことを気にしない明るさで生きていた。僕はイケメンだとか、多くの人にちやほやされ、将来を嘱望されていた。僕の当時の個性を認め、賛美する声もあった。そうして生きる事を楽しんでいたが途中で体調を崩した。海老で鯛を釣るような少ない負担によって大きな収穫を得てきたが、僕は自分自身を突き放して、虐待、自嘲、自責の念に包まれた。

 昔ほど鯛を釣ることが出来なくなったのか。僕は力を失い、悲劇の主人公のままでいた方が心地良いから、鯛を釣れないのだ。実際ここのところ、僕の支援者との出会いで僕は幻聴や妄想がありながらも元気になり、魅力も示す事が出来るようになってきた。話が上手、コミュ力が高い、そう他人から褒められる。

 僕は要するに変わろうとしていなかったのだ。暗澹さや障害のない人生に深みはない、そう考えていた時期も僕にはあった。頭脳明晰であればあるほど精神病理に襲われる、そういった通俗医学に僕は心酔していた。

 変わろうとすれば誰だって変われる。窮地から脱しようとするには勇気かいる。弱い個性を捨てる勇気が。しかしその勇気こそ僕にとっては海老であり、鯛を釣るのに必要不可欠な、用意周到な代物なのである。

 刺激を恐れるな。僕は俄然活発に生きていきたい心持ちがするようになった。この心理に至るまでにどれだけ自分の中の癖や固執、拘泥が邪魔をしてきたか。少年時代も大人になった自分も同じだ。露悪や、逆説、風刺的諧謔の虜となっていたから今まで長く曲がりくねった道を歩いていたのである。

 恋愛だって出来るさ、アドバンテージだらけだと人に言われるし、まだ25歳と若い。まだまだ人生これからだ。青春は統合失調症で台無しになった。

 罪悪感を感じる必要はない、自由に、非生産的に、懶惰に過ごす事に。僕は自己治癒する事も出来る。いつまでも脆弱なままでは駄目だ。僕は赤川凌我、1人の奮闘する男だ。僕が鯛を釣るため、偉大な結果を得る為にはどうすれば良いだろう。やはりそれもほんの少しの負担で、ちょっとの負担をすれば良い。勇気、その言葉に僕の神経回路は帰着される。日本の現代人の、武士の刀は勇気だ。それこそ、新武士道である。死ぬ為に勇気をふるうのだ。