療養〈9〉

 一寸の虫にも五分の魂。どんな小さな、弱い者にもそれ相応の意地や考えがあるのだから侮ってはいけない、馬鹿にしてはいけない。そういう諺。僕はこの一寸の虫なのだ。カフカの変身のような虫かどうかは分からない。僕は易疲労感や、その他の症状の軍勢にやられかけていた時もあった。しかし今は落ち着いている。恥辱の日々もあった。人間扱いされない時もあった。一寸の虫として生きる事に僕は今や何の抵抗もない。僕はここまで大きくなった。僕にはそれ相応の意地や考えもある。僕を殺すのは、潰すのは簡単だろう。それでも僕はこの人生の物語を生き続ける。また多くの評論家の珠玉の言葉が僕の血肉になり、薫陶を受けた事もある。僕は武装する、虫としてでも構わない。覚悟があるし、読者も感じる所が僕には多いのではないだろうか。今日は良い天気だ。虫のように奔放に外へ飛んでみようか。

 僕に文才がないのは自明である。しかしそれでも僕は生きている。下手だからこそ迫力のある文章になり、終始そのような文体で書かれた傑作も存在すると筒井氏は言う。僕は筒井氏を本当に尊敬している。僕の創作活動も彼の二番煎じのような時期もあった。しかし次第に独自性を帯び、今や個性派の一群に入っている、と信じたい。僕の小説にはあまり僕自身は検閲しない。自分で書いた文章を読み返すのは恥ずかしい。まあそれでも何とかやれている。文章の彫琢という意味では僕のこのストロングスタイルは非常な痛手だろう。しかしそれも含めてプログレッシブツイストなのだ。僕は最近統合失調症の影が下火になってきた。しかしそれに伴い病的な面白さや意匠が生み出せなくなってきた。統合失調症と創作は車の両輪なのだと思う。

 僕は統合失調症の錯乱した、そして時折、撞着した表現を好んだ。それこそが文学上のキュビズムなのだと。そう思っていた。しかし今は平穏無事過ぎて、頭がぼんやりする。読者を吃驚させる、霹靂、奇想は今、僕の頭に思い浮かばない。

 僕は少し気分転換に近所のカフェに出かけた。人はあまりおらず、極めて良い条件であった。ウェイトレスは若い娘であった。僕はお腹が空いてなかったのでジュースを注文した。他の客を見てみると、笑顔を交錯しつつ、意思疎通をする人、ただ何らかの作業をしながら過ごしている人がいた。僕は昔は障害もない連中はさぞかし幸福なのだろうと思っていた。しかしその幸福性の想定に今の僕がいる事を僕は発見した。向精神薬やサポートなどの助力が必要であっても僕はもう既に病人然としていない。