療養〈8〉

 急がば回れ。僕の統合失調症の療養生活はその言葉が非常にマッチする。遠くても、時間がかかっても危険な近道で回復するより、泰然と時間が過ごせると思う。療養生高津で得られる事は多いだろう。「赤川さん、いつ頃実家に帰るの?」ヘルパーと訪問看護は口をそろえて僕に言った。「6月に入ってからになると思いますが、まだ確定じゃありません。この後揺れるかも知れません」と僕は言った。遠くても安全な道。それが今の療養生活である。無理に働いたりする事もなく、自分に合った生き方をしていくものだ。くれぐれもこの先は刻苦勉励に生きるべきではない。もうレースは終わった、僕は勝ったのだ。

 いいじゃないか、慌てず過ごしていけば。僕は外に出た。冬の残滓の爽涼さはなく、既に温かい外であった。僕は自販機でジュースを買い、近くの船岡山公園でまったりと落ち着いた。急がば回れ。近道だけを焦燥で選択するより、自分の中で納得できる、刺激の少ない選択をしていった方が良い。僕の文体も非常に読みやすいものに変貌させる事が出来た。遠回りの大切さこそ、僕が俗世に反芻して発信していきたいものだ。公園には子供達がいつものように遊んでいた。昔は幼稚園児の運動会の場に、船岡山公園がなっていた。この公園には近くに著名な健勲神社がある。僕は人と話す時はニコニコ出来ているようだ。それは日頃のたゆまぬ努力のおかげだろう。

 仕事もやれないのならやらずに療養生活を送る事が必要だ。障害年金に頼りながら生きる事に罪悪感を感じる必要はない。僕のような病者がこの世には多数いるだろう。一直線の人生より、曲がりくねった長い道。その長い道こそ、僕が歩むべき道だ。そこには艱難もあれば、多くの出会いがある。闘病生活はある種僕と似たような経過をたどる事はかなりあるだろう。僕はその事に一種の落ち着きを感じている。またさっき自分で髪を切った。案の定変になった。僕はもうどんなに髪型が変に見えても切らない。切る事によって前より悪化してしまう。

 曲がりくねった長い道こそが僕の身を置く場所である。その事に僕はどんな険しい目も向けていない、物見遊山的な気持ちである。多くの事を見て、小説の材料にしている。子供のボールが飛んできた。僕は子供に投げてやった。子供は礼の意味で僕に頭を下げた。家族連れも公園にはいた。僕も家族が出来ればあのような時間を過ごせるのだろうか。まあ恋愛も急がば回れだ。症状を我慢して一般人の行く近道を行く必要はないのだ。