療養〈4〉

 後の祭。僕が統合失調症になったのも後悔しても手遅れである。如何に高校時代が暗鬱で茫然自失のものであっても、僕自身が僕を許せなかった。僕は自分に対し昔から懲罰的だった。多くの高校生の中にもその一群は相当いると思う。僕はもう仕事も多く辞めてきた。それらは確かに僕に合わない、ストレスに満ちた、病気との齟齬があるから辞めたのである。罪悪感も手遅れだ。また昔の僕を叱咤激励してくれる人は存在していた。それらは時間の変遷とともになくなっていくのだろうか。まあ社会的にも根性論や同調圧力、集団主義は過去の異物になっていっている。いつまでも悪習の残滓に呪縛のように念頭に離れずにいる必要はないのである。僕はどうしても私小説を書きたい。散文としての芸術の極致を味わって欲しい。僕のブログの延長線上に僕の文学作品はあるのである。統合失調症は天罰でも何でもない、身から出た錆、自分で加速度的に自分を追い詰めた精神の不均衡の表れである。

 僕は部屋にこもる事で何も解決しないなんて言説に論駁したい、僕は自分なりに予断を許さない状況で用意周到にいるように努めている。僕はそれにより、多くの問題が解決している。僕は非常に意気軒高としている。後の祭、過去はもう忘れるべきだ。しかし物書きとしては忘れてしまっては資源が不足し、執筆する内容がなくなる。広大無辺な内省と、燦然と痛ましいまでに輝く人生の片鱗を小説家は脚色し、小説にするのである僕はどうしても多くの人に認められたい。僕は家に来てくれている福祉サービスの人々がいる。僕は彼らの言葉に何度でも勇気づけられたり、励まされたりしている。僕も思っているよりすごい人なのかも知れない。しかしそれを面と向かって言ったら、傲慢だと一蹴され、蔑視の視線を僕に投じられるだろう。

 僕は交流する事が出来る。脳が様々な、しかし静かな刺激により攪拌されるような気がしている。多くの人々は知覚の扉を開くべきだ。そこでありのままの無窮の姿を、その為には多くの事柄で知覚を攪乱し、人間関係の中でも知覚を攪乱するべきだと思う。無論無理のない範囲で。漸次的に、着実に。

 僕は急遽元気を持て余し、外に出た。僕は公園に座り、外国人に話しかけられた、神社の場所を聞かれたので、僕は拙劣な英語で何とか敷衍した。何の修辞も諧謔もない。第二言語では甚だしい魅力の半減があるのである。後悔しても仕方のない状況にならない為に、僕は毎日を全力で生きる。これは僕の母親からの、哲学の受け売りである。