5月の獅子 〈1〉

動きながら書くというのは甚だ愉快である。僕は素人の物書きであるが、日常茶飯事を文章に書き起こすのも悪くない。平易な文章、そして今日の容赦もない日光。もう春も終焉を持って今では夏らしさの剣呑が残っている。僕は近所の公園に出かけた。公園までの道のりには幼稚園児の一群とそれを引率する教諭が闊歩していた。道では大型車が僕の動きを憚って停止した。そして僕は道中で横切った。僕は交通法規を遵守する善良な市民だ。自分で善良だ、なんていささか滑稽ではあるが。僕としては僕自身の犠牲によって日本の凋落する社会を救うことが出来るのならやぶさかではない。公園を彩る緑のアート。そして騒然と単純な遊戯に興じる子供。それを愛情深く凝視する親が散在していた。可愛らしい柴犬やトイプードルを連れて散歩に努める市民。僕は彼ら人間を愛していた。

 僕は自分の得も言われぬ倦怠を外出することにより霧消させられてるように感ぜられた。僕にはニュートラルな視点などない、それ程の慧眼もない。僕は公園の神社までの道のりを徐行した。願い事をしようと思ったのだ。自分の模糊な、そして統合失調症であるが故、極度の緊張を要する社会で生き残る事を願いに。僕の生命は主観的には晩年と大差はない。僕は自分の使命をこの5年の間に成し遂げた。その濃密さは並大抵のものではない。慟哭もあれば、挫折もあった。それがあるのは誤謬ではない、多くの人がその言辞上では僕の人生と相似していた。しかし決定的な相違はそのスケールに尽きていた。

 僕は神社で願い事をした。極めて独善的な願い事を。するとそこで老人に出会った。背筋の曲がっているがゆうに180cm以上はある老人だ。彼は僕に「兄さん、何願ったの?神様に」と懇意そうに僕に聞いてきた。僕は「何でもない、ありがちなことですよ」と言った。老人はピンクフロイドの狂気のプリズムを刻印したTシャツを着ていた。僕は反射的に「ピンクフロイド好きなんですが?」と聞いた。老人は一瞬ぎょっとしたが、即座に柔和な表情になり、「兄さんも?」と聞いてきた。僕は軒昂し、「僕は高校からのピンクフロイドのヘビーリスナーです。同年代だと話に齟齬があって相当苦心しました。僕は引きこもりですが、何とか障害年金で工面しです」僕は興奮気味に蛇足を言ってしまった。老人は「兄さんの鞄のヘルプマーク、そうか、この世知辛い世の中で大変な思いをしてるんだね」と目を一段と輝かせて言った。僕にはそれが演技には見えなかった。もしそうなら悪辣すぎる。

 僕は老人と別れ、多くの人がそうするように空を見上げた、唯一稀少なことと言えば僕が日本人の割に度入りのサングラスで過ごしているという事である。僕は自分の成し遂げてきた事を回想した。今の僕は無職かも知れないが、すこぶる健康的に過ごしている。それに寸毫も罪悪感は感じない。僕はまた、少年時代を思った。本にたどり着き、人間関係を離れた。悪口は全て幻聴だと当時の主治医は言った。その少年時代は10代後半であり、定義によっては青年と言っても齟齬には思われないかも知れない。

 僕は今やヘルパーに博学だと言われといる。その人たちに知的な刺激を提供できている事を思えば今や潰えた夢の大学教授の風格を思った。僕は今では多くの文章が遺産として残っている。ブログも相当数の記事があり、もしかしたらネットで有名人になってるかも。いや、僕はかぶりを振った、それは邪推だ。僕は現実と幻想がこの寛解時においても明晰に判然としない統合失調症だ。僕は傲慢になってはならない。

 日差しは相変わらず強い。僕は閑散とした京都の一隅において非常に安心感を覚えた。僕なら大丈夫だ、25歳になってこのような創作生活が送れている。僕は自分の携帯のメモ中に自分の文学的着想や描写を克明に記述した。ピューッと風が吹いた、温かいが少し冷気も感じられる風であった。

 僕は恋愛出来れば良いなと恣意的に思った。脳髄くらいは貪婪であっても、軽挙妄動であっても大丈夫だろう。

 僕はスーパーに徐ろに立ち寄りお菓子とジュースを買った。それは今日の執筆のご褒美にしようとした。僕の部屋は別に汚部屋ではない。うず高く書籍が積まれている訳でもなく、掃除も隅々まで徹頭徹尾行っている。僕は昔はサイケデリックな音源に魅了されていたが最近はレベルの低いそのような音楽は聴かないようになっていた。国際問題も、日本の課題も何の変哲もなく、人々に危惧されている。若者は失意と痴呆に意気消沈した。前途多難な自分の人生で死にたいと思う人々も少なくはない。彼らは既に日本を焦土とみなしているのだろう。

 僕は家に帰り単調にして貴重な1日を振り返った。僕の日常は文学に集約されている。僕ならきっと幸福になれる。僕はまた騒がしさを嫌気していたが、友だちを作るには人間の一段に物怖じしてはならない。統合失調症が自分自身なのか、それとも桃源郷への一里塚なのか。

 僕の母親はヘルパーとも面会した事がある。ヘルパーは僕の母親を美人と称賛していた。僕も誇らしい気持ちだった。僕は小説を何か書こうとした。けれども気持ちは身動ぎしない。僕は自分自身を意に介さず生きれば調子を崩した経験がおびただしい程ある。僕は自分をマネジメントする事は大人としての僕の責務だと考えていた。ヘルパーとの料理は僕にとって非常に楽しいものであった。ただ夕方から夜にかけての時間は外に出ると調子を崩すのでその時間帯の買い物はヘルパーに委ねている。買い物メモなるものをこしらえて。

 僕は昔就労移行支援に行っていた。その頃は能動的で毎日筋トレに励んで理想の肉体を得ようと躍起になっていた。僕は本当に日々を奮闘していた。しかし飽き性なのか、病気の症状なのか、どの場所でも僕は落ち着けなかった。合わなかった場合もある。

 僕は8月、獅子座生まれだ。1998年の。僕は多くの経験により感性を涵養し、理性を磨きあげた。しかし勉強は皆目分からない。統合失調症になったのが15の頃だから、ちょうど劣等感を抱きやすいタイミングである。僕は自分を不幸に思った。しかしその頃の兄弟は僕を完膚なきまでに痛めつけた。僕は泣きっ面に蜂で非常にやるせない思いがして、泣き寝入りした。僕は舌戦が非常に脆弱である。昔からそうだ。僕は統合失調症になった時点で絶望した。本を貪り読むようになり、語彙力も爆発的に増えた。しかし集中力の欠如からか、機微を鋭敏に感じる能力の不足からか、現代文の成績は壊滅的であった。

 僕は久しく自信を持てなかったが、行動することによってその内的事情を克服し、自分を愛せられるようになったのであった。

 多くの経験を思い、いつの間にか今や夜の11時だ。良い子なら寝ている時間だ。しかし僕は眠気が向精神薬を飲んでもまだ到来しないので私小説を書いている。僕はこれまで毎日パソコンなどを使い暮らしている。陰性症状で寝たきりな時もあるがまあそれを負い目には感じないようにしている。

 僕の弟は京都にいてしかも僕の家の近くだ。しかし僕は頑として彼のもとを訪れない。僕の家族は僕以外全員小柄で僕だけが異常な長身である。その事を僕は僥倖に感じている。

 僕は小説家のインタビューや講演会をパソコンや携帯で垂れ流しにしている。その事に僕は非常に愛撫されるかのような思いを抱いている。僕の人生は無駄じゃない、生きた証も大量に残した。後悔はない。今は余生だ。

 目覚めた、今日は火曜日だ。外は燦々としている。非常に天気が良い。僕は部屋の窓を開けて外に出かけた。特に予定はない。昔なら自分の姿を気にしすぎて慄然としたものだが、最近は精神的にたくましくなった。そして多くの人を恐れないようになると良いなと思っている。僕は今小説を書くために過ごしている。僕自身の人生は小説に包摂された。数学の論文や哲学の論文も書いたが、そこにはない、静謐っぽい、しかし、荒々しくどこか本能に働きかける文学を僕は愛した。

 僕は長い睡眠を経た。まだ倦怠や厭世はある。しかし起きて生きないといけない。まだ動ける。僕は統合失調症の寛解期間なのだ。まだ再燃のおそれはあるものの、僕は幸福だ。ストレスを避け、節制をして、生きる。僕は健常者に憧れていた。健常者は紆余曲折があれど、やる気や元気に横溢したものを感じている。僕は外に出た。熱気や蒸気のある、清冽な自然そのままの有り様を僕は愛している。困憊した子連れの婦人、中年だろうか。快活そうな、心底楽しそうな大学生らしき集団。不規則に流れる5月の流体。僕は人生の全てを迎合する準備が出来ていた。

 外に出たついでとして僕はコンビニでシュークリームを買ったそして行儀悪く食べながら道を歩いた。僕の思考の奔流は泰然な現実を破滅に向かわせるかのように絶えずうねり、奔馬のように暴れている。もはや制御不可能の僕の思考は本当に気が滅入る程枝葉末節にまで及ぶ。

 文章のプロとして生きることが果たして僕に可能なのだろうか。僕にその資格があるのだろうか。僕は馴染の公園のベンチに座りながら思考した。子供は佇立した僕を見てノッポなどと言った。僕はそれが甚だ喜悦に感じた。それは手練手管ではない事が一目瞭然だからだ。どのような空理空論も外に出ることでも室内と変わらない。僕は自分の文体について思った。僕の文体は独特なのだろうか?醍醐味が読者に伝わるたわろうか?僕には分からない。僕は完全な思考の詭弁者にして、矮小な兵士に他ならないのだろう。僕の記憶には歯牙をかけたくないが、やはり思い出してしまう。頭部への殴打、いじめ、揶揄、軽蔑、僕は彼らに呪詛を抱く。

 僕は人がやはり怖いのかも知れない。気になる人にも迷惑千万と思われる事を恐れて近寄れない。かと言って僕自身は素晴らしい人間ではない。しかし僕は笑顔でいようとしている。笑う哲学者、デモクリトスのように。

 僕は情景描写も下手だ、昔からそうなんだ。だから僕は内的世界を外的世界と渾然させていきたい。今売られている本の売れ行きは良くないらしい。これは著者の固陋の為だろうか。電子化により助長された懶惰の為だろうか。言語により映し出す世界とそれによる薫陶。僕は文豪になれるのだろうか。文豪は令和では絶滅危惧種であり、あまりに広範に、繁多に使われることはなくなった。むしろ昔の方が文豪なる言辞を見境なく乱用していた負の側面があるのではないか。

 僕はベンチに長い間座りながら小説を書いていた。これ見よがしに、小説家なんて退屈な職業だとの声が聞こえた。幻聴だったのだろう。僕はまだ被害妄想があるのか、ないと思っていたが意識すればするほど陽性症状は具現化するようだ。無視できて、諧謔で笑い飛ばす事だ。統合失調症によっても、絶対に諧謔を忘れてはならない。僕は笑う哲学者だ。無論そう自称しているだけの男だろう、僕は。僕ならきっと上手くいく。才能もあると言われた事もある、ギフテッドだとかも。僕は本当にこれからも東奔西走しながら、理想の家族を得るようにしたい。長身美人との両想いがあれば良いが僕は滅多に外出しないので大抵人からも好意を持たれない。そう思い込んでる朴念仁なのかも知れないが、その可能性は否めない。

 僕だって幸せになりたい。そうする為に公序良俗や倫理観の埒外にあるようなことはしないつもりだ。僕は昔は驕慢だった。今もそうだろうか。そう考えていると気持ち悪くなってきた。僕は思考によって気分が悪くなる事も御多分に漏れずある。しかしそれでも僕は負けない。酒も飲みながらだが、節度ある付き合い方でありは。僕ははっきり言って落伍者なのか。しかし統合失調症の療養で仕事をしていない。それを一概に無職だとかニートだとか揶揄できるだろうか。僕はどうしても、頑張りに頑張って、恐怖を縮みあげ、消え失せさせたい。

 僕は音楽も作って今や、6枚のオリジナルアルバムをユーチューブに公開している。中々アバンギャルドで、先駆的で、実験的であまり人気が出ない。僕は頑張って生きている。多くの人々がより幸せになろうとしている。自分の居場所がある人はそれを死守しようとしている。皆必死だ、そう思うと微笑を禁じ得ない。僕は家に帰り夕飯を食べた。

 もう一人の僕からの検閲、そんなものは今の僕にはない。僕は独立不羈で、社会だとか集団に阿諛追従しない。僕ならきっと偉大になれる。

 今日、朝起きると母からのメールが。もうじき京都に来るらしい。僕は自然と目が覚めたので母と合流すべく支度をした。弟も来るらしい。非常に久しぶりの母との再会。僕は彼女の前なら笑顔になれると思う。彼女はそれに拍車をかけると思う。僕は弟と会うのも楽しみだ。何でも人間椅子のコンサートに行ってTシャツを買ったとか。人間椅子はヘヴィメタル、ハードロックの日本風のブラックサバスである。僕もそのバンドは極稀に聴く。

 今日、ブログのフォロワーが増えたと通知が来たのに、ブログのホームページを見てもフォロワーは増えていなかった。これは誰かが登録を解除したのだろうか。寂寥感不可避である。確かに僕のブログは秀逸さに欠けると思う。僕は人を笑わせる感覚が統合失調症により失われた。この病気は僕から多くのものを奪っていった。しかし呪いはしない。仕方ない、なるべくしてなったのだ。僕は病気を自分の一部として受け入れる。

 今日は母親達とカフェでランチを取る。僕はそれが非常に楽しみだ。あのカフェは美味しいからなあ。照明も視覚過敏にお誂え向きである。まあそれはおそらく意図してやったことではないだろうが。こうやってバリアフリーは進んでいくのだと思う。この行動の連鎖、無限順列が。

 僕はぼんやりとした頭で、しかし僅かな恍惚と呼ぶのが適切かどうか分からないものを感じつつ、楽しみに母を待っている。僕の笑顔の根源、家族。どんなつまらない話でも笑おうと思う。僕にとって家族は重要なのだから。最後砦。統合失調症になっても見放さなかった。むしろそれを慮かったりしていた。僕は人を愛してる。そう思いながらコーヒーを飲む。そうしている内に時間は過ぎる。

 僕は今日も午前中に目覚めた。昼夜逆転はしていない。体型も標準体型だ。食事もお腹が減った時だけ食べている。

 また僕の昔通っていた高専の校風はぼくにとって合致していたのだが工学の勉強や周囲の関係で僕は高専を辞めた。僕の歳の高専生はレベルが低いとたちどころこに、或いは異口同音に、或いは付和雷同にそう言われていた。僕は当時は小説を書いていなかった。それより活字に馴染もうと読み継がれてきた傑作ばかり読んでいた。傑作と聞けばだしぬけに僕は読書の食指が動いた。

 当時の僕はモテていた。しかしそれが僕には煩わしく感じた。恋愛により苦悩が晴れやかに、清々しく根絶する訳ではないという確信が僕にはあった。

 僕の母は昼頃に僕の家に到着した。母と一緒に僕は自宅付近の定食屋に来た。騒がしいが、母といると心地良い。やはり落ち着く。僕は人との関係性も大切にしていかないとと思う。

 僕の瞼が重そうだと母は言った。やはり目の酷使は良くない。食後、自宅付近の公園に母親と行った。騒がしかった。僕は騒がしいのが苦手で調子も悪くなる。母と公園を巡り、色々と話をした。やはり人と話をするのは悲しい。もっと表情が豊かになればな、と母は言っていた。

 僕は獅子座の男だ。獰猛で野性的でなければならない。しかし現実はそうはなってない。大人しくて、繊細で、気が弱くて、僕は堂々と獅子にはなれない。今日は曇天。母親との会話の中で僕は朗らかさを得た気がした。僕ならきっと何にでもなれる。母のスタッフとして勤める作業所には僕と同じ統合失調症の人がいて20代で統合失調症を発症してから精神病院にしばらく入院していた時期があり、今は30代なのだが、症状も落ち着いて週5で作業所に通っているらしい。僕の統合失調症も落ち着くのだろうか。まだ外出の恐怖もあるし、症状も非常に危ういが、それでも僕は元気に、楽しく、生き延びてやる。

 またさっき公園でぶら下がり器をやらないか、背が伸びるぞ、と母親に言われたが丁重に断っておいた。僕は既に長身である。だから必要がないのだ。

 母親は受給者証のコピーをしに近所のコンビニに行った。僕は刺激が多いのに疲弊するので彼女と一緒には行かなかった。彼女は元気で、向精神薬の請求書も、地元和歌山に持っていったら金が返金されると言って京都に来た度に和歌山に持って帰っていってる。

 公園には外国人が何人かいた。その内の白人より僕は背が高かった。成長の不可思議である、コンプレックス克服だ。優越感だ。最近はスマホのせいで背筋が曲がっている人も多いと歯は言った。僕は現代の着地点としてそういうのも不自然ではないと思った。僕は母を待つ間小説を書いていた。

 僕はこの日本に生まれて良かったと思う。障害年金でも無駄遣いがしなければ、幸せになれるし、僕は社会福祉の脛をかじって生きていくのである。僕ならきっと出来る。大丈夫だ。今後もますます元気になっていく。

 僕の携帯は今一部の保存した画像が見られなくなっている。それが携帯の異常なのか、僕に破壊神が宿っているからなのか、いまいち判然としない。僕は今でも元気だ。そして療養に負い目を感じずに生きていきたい。

 僕は母に昨日に酒を飲んだ事を話した。酒は良くないと彼女は言った。浮腫むし、あなた目が開ききってないわよと言った。僕はそれを契機に家で何度も鏡を見た。母は誰でもそんな時はあるから気にしなくて良いと言った。何度も鏡を見るのは変だと僕に指摘した。

 僕はヘルパーに冷凍餃子を作ってもらった事を話した、母はああいうのは美味しい、意外と馬鹿にならないと言った。僕達は会話をして、彼女は早めに帰らないととの事で割とすぐに帰った。僕達は変える前に抱擁をした。こんなに大きくなって、と彼女はしみじみと言った。僕は彼女に今日は来てくれてありがとう、元気になったよと何度も伝えた。僕のような存在でも生きていて良い、彼女はもう労働を僕に強制しなくなった。色んな人がいて色んな生き方がある。僕は好調な時も不調な時も堂々としていこうと思った。

 弟はライブを見に今度は東京にいくらしい。以前の大阪での人間椅子のライブは非常に騒がしく、人が沢山いたと言う。妹は弁護士事務所で何とか働いていて、姉は病院勤務が合わず、実家和歌山に帰って就職しようかと考えているらしい。様々な人生が兄弟という縁故の中に凝縮されているのを僕は感じているのである。

 僕の父方の祖父は、今病院に入院してる。肋骨が相次いで折れて、今は元気らしい。祖父は退院後について母も交えて関係者を呼び話し合いをするらしい。祖父は自分の家に帰りたいとしきりにいっている。僕は祖父はもう十分生きていると思う。

 僕に対する幻聴は褒め言葉の場合もある。すっごい綺麗とか、めっちゃ綺麗とか、顔と体が一致してないとか、女の子みたいな顔の男の子とか。僕はその褒め言葉を今でも脳裡に焼けつかせている。その他種々雑多の希望の光は僕の中でずっと大切にしている。たまに自分が魅力がないように思われるがそれは誰にでもある事。気にせずに、前向きに生きていけば良いのである。酒も、アル中にならないレベルなら許容したって良いじゃないか。

 5月は温かい。今日は曇天だったが本当に温かかった。僕はどうしても生きないといけない。その思いを今日は一段と強くした。母親に自分の大切に思ってるとの言葉を伝えるとマザコンかと言われた。また今日の僕の目は腫れている感じらしい。泣いたことを彼女に疑われた。正解だ。確かに僕はここのところ毎晩泣いている。酒が入っても泣いてしまう。僕はまだ皆にチヤホヤされたい、それだけの才能が僕にはある。僕はきっとこの先も生き残る事が出来る。根拠はないがそう思う。