HSPは「Highly Sensitive Person」を略したものです
これを直訳すると「とても敏感な人」という意味になります。
その名の通り、HSPはさまざまな感覚が敏感な人のことを指します。

-HSPとは?特徴と原因、最近注目される理由を解説 | オンボーディング | HR BLOG | 経営者と役員とともに社会を『HAPPY』にする (motifyhr.jp)より参照

 

 僕は統合失調症である。しかし昔から泣き虫で舌戦も苦手で、しかし明るく友達思いであった。統合失調症になってから上のHSPのような症状が顕著になりだした。とても敏感なのだ。しかし高校時代にも自分は精神的に敏感だとほざく奴がいたが彼は何の淀みもためらいもなく僕を悪罵した。僕は当時の心は何の武装もしていない徒手空拳だったので非常に傷ついた。そして、今、僕は生きている。もう過去の事を考えるのは辞めた方が良いとは多くの人々が言っている事だ。そんな事より芥川賞、直木賞作家はどうだろうか。僕は彼らの作品を拝読して面白いと思った事がない。それは僕が無学で文盲であるからだろうか。僕は文章ですらありのままを捉えるのに呻吟する。学生時代の国語の偏差値は無惨なものであった。しかしギフテッドだとか言われるのでポテンシャルはあると思う。ただ中々慣れないのだ。活字中毒という程本を読んだ時代もあったがそれによって僕は何か変わっただろうか。いや、変わっていないのだ。実際に書物の理論や情景描写、巧みな心理描写を学んで実践しないといけない。インプットだけに偏りすぎるのも良くない、だから僕は何の本も読まず今はアウトプットに専念している。僕のブログは甚だ色彩に乏しいものであろうか。フォロワーも中々増えない。僕は伝えたい事を簡易な文章で伝えているだけだ。しかしそれが凡庸なのだろうか。昔の僕の文体は立派だと言われたり、頭の明晰な文章だと言われた事もあったが僕は敢えてそのスタイルを瓦解させて、今多くの読者を獲得しようと読みやすさに比重をおいた行いをしている。

 

 しかし25歳である、まだまだ。25歳で精神病になる人も多いだろう。社畜だったり、社会不適合者だったり世の中には色んな人々がいる。そんな中で僕は引きこもっている。こんなんじゃ長身美人との逢瀬どころか邂逅も出来ない。どうすれば良いのかと思っている。記事を書いている間は自分というものを他者に見立てて書く事が出来る。そこで得たスキルは現実世界において利用可能なものだろうか。自分の力を過信している訳ではない。ただ僕は幸福になりたい。結局4月には何もなかった、占いでは幸福が訪れるなどと良い事が書かれていたが所詮眉唾、通俗の代物である。僕は占いではなく自分の力で道を開拓していく。その為にこうやって活動をしていって、人生をより豊かなものにしようとしている。僕は頑張っている。多くの人がそう言う。僕は自分に厳しすぎるのだ。これでは良くない。厳しすぎた事で病気が悪化し、日常生活が破綻した。今では障害年金で生きている。障害年金の受給は負い目に感じる必要はないと主治医が言っていた。僕はこの先もこうして活動を続ける。いずれにしても暇を持て余す人間だ。ネット上での活動以外に何か予定がある訳でもない。そもそも人も社会も怖い。

 

 僕は25歳にしてはしっかりとした生き方が出来ていると思う。特に同じ病気で実家暮らしの一群とは甚だしい相違がある。今日は僕の家に訪問看護が来る。女性の職員だ。僕は話したい事を話そうと思う。事前にメモにまとめたりはしていない。ただ即興的に話すのである。僕はここまで生きて来て多くの強さや適応を得た。大学入学当初は寂寥感に横溢し、過食に走り、デブになっていたが、今では標準体重まで落とした。デブになると周囲の嘲笑するような声が明瞭になった。そのことごとくは統合失調症の幻聴であるのだろうが、僕は自分に懲罰を与え厳しくなっていた性向がその頃からあったのは事実である。まあ過去より今だ。笑顔だ。僕は多くの人をユーモアで笑顔にしたい。今の僕のコメディアン力はまだまだ頑是なき小児のようである。しかし慣れてくればきっと諧謔の何たるか、その精髄が理解出来るようになると思う。もっともっと面白いものを創造し、フォロワーが増えて欲しい。社会の裏で大きな存在感を示す、暗黒街の顔役でありたい。まあこれは冗談だが、アルカポネじゃあるまいし。僕は愚行や凶行、闘争、諍いに加担したり、闖入したりすることはしない。僕は頑張りに頑張って今の状態になった。死のうと思った事も何度もある。しかし統合失調症の平均寿命は健常者のそれと比べてかなり若年であるらしい。大往生は無理かも知れないし、医療の助勢を得るかも知れないが、それでも僕は自分の哲学を世に広めたい。自分の存在を人口に膾炙させたい。様々な知恵に充溢した警鐘を鳴らし、充足感に相対し、悦に入りたい。

 

 無数の惑星が恒星の周囲を巡り、軌道に乗るように僕も一定の秩序のもとで生活している。ユーモア精神は貧弱貧弱かも知れないが何とか発信に値する事は出来ていると倨傲の考えがある。太宰治は生前、すごく陽気な人だった一方でクズと評されている場合も多い。僕はクズではない。確かに昔の未熟だった頃は不良少年であったが、それも僅かな期間のみ、高校以後は僕は慎んで生活をしていた。それでも僕を嘲弄する者、差別する者はいた。当時の僕は統合失調症の前駆期と呼ばれる段階であった。自閉的になり、内向的になり、一気に陰キャになっていった。僕は勉強にも興味を示せず、一度もペンを握らない日も多かった。ペンを握らない日が多いのは今もそうだが、当時は学生である。僕が勉強しなければ怠慢である。僕は図書館の文学の蒼然とした蔵書を読破していった。もっとも食指の動かないものはスルーだが。のみならず僕は高専以後、まともな人間関係を構築するのがからっきし無理になってしまった。惨めだ。しかしもっと惨めなのはこんなネガティブな過去を顧慮し、遺憾なく、何の脚色も、諧謔も加えず臆面もなく公衆の面前に出す僕である。僕はどうにかして明るい生活になろうと、人との関わりを意識している。今ではヘルパーと訪問看護が敵機的に家に来てくれている、その際に昵懇に、懇意に、フレンドリーに話そうと思う。僕は人に五体投地したり拝跪したりするのでははなく伍したい、対等に生きたいのである。僕の文章に類語反復があるのは一つのスパイスであり、ユーモアだそこはお許し願いたい。新技術が台頭していく中で日本は今世界の技術戦争に後れを取っているという。もっと教育や世相そのもの、馬鹿馬鹿しい潮流、狡猾老獪な手練手管を辞めないといけない。ネット文化のおかげで見なくても良い情報を一目瞭然で知られるようになった。物事には一長一短である。それは古今東西からの拍手喝采に値する概念だ。僕は何とか生きている。一日中横になる日があっても良いではないか。僕が困憊し、淪落し、横になっても、仰臥しても良いではないか。僕は堕落した、そして統合失調症になった。それでも底なしに明るくなろうと、自分改造をしようとしているのは僕が生きたいという衝動があるからだ。生きている限り艱難辛苦にも否応なく対峙する、それもやむなし。僕はどうにかして生き抜こうとしている。病気の療養生活の中で、明るさやユーモアの獲得を僕は第一目標にしている。きっとそれらは周囲を照らし、自己の幸福度を上げる端緒になるだろうから。