草生えるとはネットのスラングであり笑っている状態を指すものです。僕は可能な限りこの草生える状態を維持していきたいのです。やはり笑顔は大事です。顔をほころばせながら他人と仲良く生きる、こんな素晴らしい事があるでしょうか。今日は月曜日で、ヘルパーが僕の家に来ます。買い物は彼女らに任せて僕は調理を手伝います。僕の学習スピードはとてつもないものがありなす。調理技術も上達してヘルパーは驚いていました。何をする時も口角を上げる事を忘れずに。まあ例外もありますが、例えば葬式で笑う人などまずいないでしょう、その場合は僕も笑いません。僕には兄弟がいます、穏やかな姉、頭脳明晰な弟、そして大人しい妹。僕はどのような性格でしょうか、優しいとはよく言われますが本当でしょうか。僕は大勢の人を救いたいのです。その乾坤一擲の事業を成就させたいのです。悲しみや寂しさに苦悩している人々に一縷の望みを分け与えたいのです。僕に出来る事は何かを与えて、誰かを幸福にさせる事です。偽善ではありません。僕は日本人のみならず人の役に立ちたいのです。この淪落し、昏睡する日本の劣勢に伴って僕自身が歯車の諸氏にエールを送りたいのです。僕は統合失調症です。働けない類型の統合失調症ですから今は自宅療養をしています。起きる時間はいつも10時から11時過ぎくらい。昼夜逆転はしていません。訪問看護の人が言っていたのですが僕は今のままで100点らしいです。それに情報発信という社会的な貢献も加味すれば120点にもなると言ってくれました。僕は自信を持つべきです。チビでも不細工でもありません。確かに大人しい性格は否めませんがそれにしたって個性です。また統合失調症も類稀な個性を僕に与えてくれました。無論それは活用次第では破滅に至る可能性のある軍事的兵器に他ならないのですが。

 

 笑って過ごそう。自分に優しくしよう。ナルシストは敬遠されるかも知れないが、そもそも寸毫自己愛の片鱗を見せたくらいでナルシストと揶揄する人々の方が概念に束縛された哀れな連中なのです。人には固定観念があります。僕の父親も僕が統合失調症になってからも気の持ちようだとか入院する程じゃないと苦言を呈し、難色を示していました。僕は今も頑張って生きています。携帯からブログを投稿する時もありますが基本的にパソコンで座りながら記事を書いています。僕は草を生やしながらも無為無策の日本政府に非常に苛烈な憤怒を抱いています。日本政府は臆病すぎる。日本人のマイナスの精髄を切り取り肉塊にしたような連中です。そんな弱者に日本の未来を背負わせる訳にはいきません。僕には政治も経済も分かりません。しかし国力の凋落の先にあるのは単な冷酷な扱いだけなのです。力があるからこそ阿られ、阿諛追従され、悲憤慷慨されるのです。僕が日本政府を批判するのは力が劣化の一途を辿っているからです。

 

 笑う事は大切です。これは何度も僕が言ってきました。僕の笑顔は可愛いらしいですから積極的に笑っていきたいです。また高校時代僕はいじめにあっていました。僕に消しかすを投げつけたり、讒言を言われたり、軽んじられたり、奴らは畜生です。僕の統合失調症というハンデの重さをまるで分かっていません。統合失調症になって10年以上が経過しました。僕は今後も症状に翻弄されるのでしょうか。症状は変則的でいつ来るか分からないです。ただストレスやフラストレーションに脆弱的であるという特徴があります。あまり不可視の病気の話をするのもつまらないでしょうから別の話をしましょう。

 

 僕は金曜日にいつもフェイトゼロというアニメを見ます。深夜アニメなのですがこれが突拍子もなく面白いのです。深夜の前には金曜ロードショーがあり、僕はベッドに寝転びながら音声のみを聴いています。僕は聴覚が、耳をそばだてる能力が高いらしいです。その分視力が低下して、これではまるでモグラです。しかし僕の近視は遺伝です。僕の兄弟は一人を除いて皆眼鏡です。もっともコンタクトを使う人を除けば眼鏡は僕だけになるのですが。

 

 今日はヘルパーと一緒に青椒肉絲を作ろうかと考えています。今からワクワクしています。今後も僕は知的なリハビリとしてこのブログの更新を続けます。また僕は昨日祖母にブログのフォロワーが減って落ち込んでいると言ったら激昂されました。なら最初からやらなければ良いと言うのが彼女の論調です。それは僕にとっても至極当然の論理なのですが、余りにも自宅療養は暇すぎます。自分の為にブログを書くという選択肢があっても良いのではないでしょうか。幸いこのブログは良識のある御仁しか集わない為誹謗中傷されたり、難詰されたりはしていませんが。頑張って、頑張って、やっと掴んだ僕の生き方。今後も生きていきたいです。

 

 日本政府の無能ぶりには閉口してしまいます。良い円安などないのです。日本政府はもっと国や国民の利益の為に口先だけではなく動いていかないといけません。

 

 僕は今の窮状を見ても草を生やして生きていきたいです。僕には激烈なユーモアがありません、しかし独自の論理展開や文体はユーモアになり得るのではないかと思います。統合失調症が裏目に出る時もありますが、統合失調症を逆手に取り、栄華を掴む事も出来るのです。それだけの病的エネルギーを統合失調症は持っているのです。病的エネルギー、偉人の多くは病的に近いか病気の人が多いという病跡学的なアプローチがあります。また僕は昔精神分析に凝っており、小説の主人公を精神分析したりしていました。しかしそのような野卑な事では良い評価など得られる筈がありません。僕はあくまで精神科のクライアントなのです、出過ぎた真似はするべきではありません。するべきでは、ないのだけれど、僕は自分で理論精神学という学問分野を作りました。臨床の精神医療の一助となれればと思い作りました。僕は多分大馬鹿者でしょう、恥を恥とも思わない、不敵で淫猥な眼光を忍ばせた不埒な人なのです。

 

 僕はいい加減気づかないといけません。このぬるま湯生活に耽溺する事のデメリットを。僕は自分に自分で負荷をかけないといけません。かけすぎは良くないのですが懶惰に過ごしていれば本来の僕の魅力が大幅に損なわれる事不可避です。そうなれば僕は嘲笑を禁じ得ません。いや、僕はまだ本心では自分を愛せていないのです。だからこの多弁な文章があるのです。楽観的な事ばかりでは文字数を稼ぐ事が出来ません。僕と同じ年代の人々は今頃働いているのでしょう。しかしそれもまた人生、今の僕もまた人生を疾駆する人間であり負い目に感じる必要は全然ないのです。主治医もそう言っていました。医学部受験は諦めました。僕は過去の勉強のコンプレックスを拭えただけでも大きな成長だと思っています。

 

 死にたい、なんて言ってはいけません。僕はその代りに笑います、草を生やします。そうして嫌な事も全部取っ払おうではありませんか。細かい事など気にせずにただ快活に、能天気に笑う事、それが病前の僕の性格だったではないでしょうか。孤独になっても、いや孤独になる事で僕は更に自分に笑顔でいる事の大切さに気付かされました。偽善でしょうか。吹けば飛ぶような才能でしょうか。しかし僕はこの体躯で仁王立ちをして自分の人生を受け入れるに至っています。もう罵詈雑言など怖くありません、と言ったら嘘になります。統合失調症とはまことに恐ろしい問題でありながら同時に僕に気づきや力を与えてくれました。僕はこの病気に感謝してます。ユニークな僕がいるのもこの病のおかげです。後は笑顔を忘れず、前向きに生きていけば200点満点です。エッセイ上の闊達さ、奔流の如きリリシズム、饒舌さが何でしょう。そんな事よりも大切な、単純明快で、複雑怪奇な代物が僕の胸中にはあります。