僕の周りには幼少期から畜生が多かったのです。子供は僕の肌の黒いのを小馬鹿にしました。大人ですらそれを容認し、どこか間抜けに見えました。高専でも僕は軽んじられていました。意思疎通の乏しく、冴えない自閉的な僕は広大な迫害心の餌食になりました。僕はことごとく無視され、のみならず学業成績も不振であったためもう通常の人生から逸脱し邪道を志した事もあります。僕の寮生活の相部屋になった連中もまたご多分に漏れず畜生でした。高専と言えば後に知ったことですが随一の理工系学校の一つであるようです。しかし僕は規則を軽んじ、先輩にも盾突きました。僕からすれば正義を騙る向こう側が蛮族に思えました。僕は彼らを間抜けだと吹聴したいです。日本の世界に遅れを取る工学分野に隷属し、秩序の中でオタク活動、何の面白みもない単調な二次元の世界と現実の世界を混同している彼ら。四肢は大儀そうに投げ出され、脳髄は虐めに使用されるケースも少なくありません。彼らには学力の稀の劣等生によりどんぐりの背比べ、僕を冷笑侮蔑して置きながら自分自身の独創性の欠如と迷走ぶりを知るがよい、僕はそう彼らに罵詈雑言を与えます。本来なら温和な気質の僕ですがこういう畜生を考えると腸が煮えくり返るような心持ちが支配的になり、より人間的になります。


 僕も月並みに憤怒する事も多いのです。今はスマホから文章をしたためていますが、この間はどこか爽快です。畜生共はこの世から根絶すれば良いのです。これはファシズムの萌芽なのでしょう。畜生どもの肺臓は呼吸をしているのではありません。毒ガスを生成し、周囲を腐敗させているのです。それは比喩表現に違いないのですが。しかし立場や環境が違えば僕も軽薄だから畜生共の奸計に加担していた可能性も考えられます。したがって複合的な事情があるおかげで僕自身も畜生に対して一種の憐憫や哀愁を抱かずにはいられない。若者こそ平和的に生きる事の真価を知らない静謐で、吝嗇な大人がいる中はその一部は単に元気をなくし意気阻喪している場合もあります。


 畜生も同族を求める。僕のように孤高になる存在が彼らからすれば至極哀れに感じるでしょう。日本古来の哲学、惻隠の情。頑張って生きていても畜生的な部分は万人に備わってるから僕もいつ罵倒されるか分からないのです。それを検閲し、統御するのが超自我、両親の良心なのですが。歴史の暗黒面、それは人間同士が醜怪に吠えあい、雌雄を決し、絶望し、死に至るという過程の拡大化、および錯綜化によるものです。人々の人生は物語的であり、言語能力の巧拙に関わらず全ての人々が何かに影響を受けてたちどころに筆をとり文学的傑作が生まれます。今はそんな時代です。性別に貴賎なし、芥川作家においても女性の聡い軍勢が大挙して日本文壇に押し寄せています。話がそれましたね、想像力と独創性が鋭敏になってる際は枝葉末節を軒昂に表現してしまいます。


 僕の人生の汚れ、畜生ども。最初は有効的なペルソナを持ちながらも僕を嘲り、裏切り、いわんや僕の揶揄さえも厭わないのです。僕は畜生への憎悪を募らせています。しかしそう考える僕自身も真っ当な人間とも定義できず、どこか物寂しさを感じます。僕は幼稚園時代、喧嘩好きでした。多くの人を殴打していました。僕も紙一重なのです。畜生的な一挙手一投足がどのような二次被害を受け、巡り巡って自分自身の清らかさに累々と泥をかぶることになる事を、もっと万人が知るが良いと思います。僕は悲しい半生に思いを馳せ、歔欷したいような気分です。僕は根っからの善でも、根っからの悪でもない、ニュートラルでペルソナを使い分け社交的な場面に備えているのです。僕は自分自身の見栄っ張りを知るが良いのです。僕は英傑でもなければ、健常者ですらないのです。畜生は僕に美辞麗句を言う時もあります、打擲する時も、讒言を言う事も、罵詈讒謗を言う事もあります。僕は人間の本性を直に触ったような気がした時、慄然としました、そして総毛立ち、身悶えするような一縷の文学的修行として学ぶ事が出来ました。


 今でさえ、僕は人を畜生かどうか判断する力を持っていません。しかし僕は卑属で下卑たあの連中とは関わりたくないのです。肥大化した呪詛と怨嗟、それがこの記事で示されたことを、文明を、感謝します。畜生は低能である。低能は畜生であります。どうも、差別者の赤川です。僕は誰かを謗ることは元来の優しい性格、面妖なまでの優しい性格で困難なのだが今回は例外として僕の欠点、人間性、狂気を余すことなく表現出来ました。我田引水であります、自分の経験を凝固させるのは。エッセイは意匠を凝らし、魂の装填された時点で貴重な、そして巨大な足跡になります。