普段使わない語彙だとか表現だとかに面食らい、読む気が失せてしまう読者も多いです。余りにも虚栄心に溢れた発信は読者の心を掴まみません。僕は今後、出来限りひらがなで文章を書いていこうと思います。僕は何に悩んでいるのでしょうか、病気でしょうか、社会的な生涯についてでしょうか。僕はどうすれば良いのでしょうか。自分のやりたい事をやれば良いのです。ただ頑なにスタイルを維持する事で人目を引く事の出来ないという不利益は僕が被らなければなりません。童話を書くように、記事を書けば良いのです。宮沢賢治のように。妙なプライドなど投げ捨てて、時代に即した活動をすべきなのです。人は分かりやすい人を好み、分かりやすいコンテンツを好みます。それを利用して僕が成り上がれば良いのです。簡単な話ではないですか。晦渋な文章を書ける余力があるのなら僕には読者を熱狂させる力があってもおかしくはありません。鈍重で、意味深な言葉の羅列。論理性の欠乏しない、理路整然とした文章の構築、それが僕にとっては重要なのです。ただ極力ひらがなで書くと言っても大の大人が書いている訳ですから限界があります。僕は様々な文体やスタイルに溢れた世界に生きています。僕自身も時代の潮流の影響を受けるのは不可避的なのです。それでも読者の集中力に迫る優しい文体や文章、テーマを取り沙汰していきたいです。僕の文章はこれで最大限分かりやすくしたつもりです。明確な矛盾もないようにうやうやしく、そして丁重に扱いました。自分の語彙を誇る事無く、膨大な読書経験によるニッチな事柄を果敢に扱わず、僕は生きて、発信していきます。僕の文章は意味が取りづらいと大学時代の恩師が言っていました。僕もそう思います。自分で懸命に書いた文章を振り返ってみても赤面してしまうのです。誰だこんな狼藉を働いたのは、と激昂するとそれが自分な訳なのです。僕は一度スタンダードに立つ必要があります。基礎的な事を徹底し、自分なりに成長していく。ある程度人に阿る事がなければ成功はありません。殊に文学上の成功はないのです。

 

 これまでの僕の活動は無為だったのでしょうか、そうではありません。過去の僕の独特の文体や雰囲気も僕の魅力の一部です。しかしそれはあくまで過去の話です。僕はいつまでも未練がましく過去の方策に拘泥したくないのです。僕は大丈夫です、きっと僕は幸せになれます。この笑顔があれば。僕は人を笑顔にさせるのが好きだとは何度も言ってきた通りです。無論それは悪い意味の笑顔ではありません。平和的で、幸福な笑顔です。僕はこれまで散々悪口を言われてきました。負荷がかかっていたのです。しかし僕はそれに明るい要素で対抗したいのです。社会には色んなやばい奴がいます。僕は彼らのことごとくを受け入れる余裕はありません。まあそれでも僕は自分の仕事をやっていくまでです。まあこの仕事というのは勝手に僕が据え置いた、概念です。報酬は一切ないです。しかしながら社会の為になると思い、僕は活動を続けるのです。仮に今誰にも見られなかったとしても未来のいつかに捧げる産物として僕は示します。

 

 集中力の欠如や活字離れが声高に叫ばれて久しいです。しかしそれは魅力的な文章を書ける人々が少ないだとか、活字そのものが地味なものであったりするからなのでしょう。現代の人々は当然のように電子機器を使います。それによる恩恵もあるのでしょうが注意力が散漫になったり、人生が投げやりで中途半端になりがちという弊害があります。偉大な文明を四肢のように巧みに扱うのは非常な困難を要します。僕の文章は今でもかなり分かりやすくしています。難解な語彙や熟語、修辞を乱用するだけが文学的偉大さに直結する訳ではないのです。その至極単純な事に僕はようやく気づいたのです。僕は馬鹿でした、恥の多い生涯でした。この自宅療養期間において、僕はかなり慣れてきました。自分のペースも掴めるようになってきました。寸刻前酒を飲みましたが今はアルコールが抜けて頭がクリアになっています。僕は無駄なプライドを捨てるべきです。人生で重要なのは取捨選択が大事です。僕もその例外ではありません。優しく読者に寄り添うようなものを僕は作りたいと願っていました。そしてそれは叶いつつあると思います。僕の影響を受けた人々もいるでしょう。頑張って続けてきて、1000記事以上ブログ記事を書いて検索にヒットされやすくなりました。それにより僕は非常に安堵するのです。偉人になりたいという夢もありますがそれ以上に一里塚として僕は今までの自分の行動を褒めていきたいです。大丈夫です、僕はきっと大丈夫です。今後も同じように活動をしていきます。僕の心境は引きこもり生活の延長であるから少し愚鈍さや朴念仁さがあると思います。脳が麻痺しているのだと思います。それに伴い自分に負い目を感じて自殺を企図する事も多いです。

 

 自殺なんて、そんな事は由々しき問題なのでしょうか。自殺を考えた事のある人はこの零落国家である日本では多いのではないのでしょうか?それとも政治的経済的に無関心であるから自分を包み込む日本国家に対してもあまり関心がない人々が多いのでしょうか。僕は何をすれば良いのでしょうか。僕に出来る事はあるのでしょうか。外に出るのも怖くて、人も怖い、おまけに視覚過敏で暗い部屋でしか活動出来ないモグラ人間です、僕は。僕は誰とも比較する必要はないのです。文学的な絢爛さが何であろう、耽美さが何であろう。僕は分かりやすい言葉のみを使って、着実に人々の魂に染み入るような、ダイレクトに影響を与えるような活動をしていきたいのです。僕のブログ活動は気まぐれ千万です。ですから、連続するような劇薬的刺激は期待出来ません。文体も相当柔らかくしました。これ以上に柔らかくする事は僕には出来ません。この土曜日において、僕はテレビを見ながら、パソコンで音楽を際限なく流しながら作業をしています。僕はきっと大丈夫です、心配いりません、寂しい時もありますがそれを自分で大人として対処していきたいのです。僕は政治についてはもう口を出さないつもりです。ラーメンを頼んだのに刺身が出てくればきっと皆慌てふためくでしょう。それと同じ事です。僕のブログはそもそも政治を筆頭や基調にしていません。僕はこうしていれば良いのです。自分なりに意見を、本懐を示し、そして社会を変えてゆく。僕は優秀な25歳ではないでしょう。卓越した頭脳を持っているのなら統合失調症があっても東大くらいには入れるでしょう。しかし僕にはその実力も胆力もなかったのです。

 

 僕は統合失調症に甚だ感謝していますが、同時に恨みつらみもあります。僕は統合失調症発症以後、易疲労になり、弱虫になりました。僕は青春におけるこの一大事件に影響を受けて、とても悲しく思っています。

 

 ひらがなをなるべく使うと言いましたが、ひらがなばかりであれば表現の幅が極めて矮小になります。だから僕は自分に出来る範囲で伝わりやすい文章を書いているのです。僕の力不足で、まだまだ伝わっていなかったり読みにくかったりするのならそれは非常に申し訳ないです。また僕は心と心の温かさの広がりこそ重要だと考えています。僕の言ってる事が分からない場合は読者に問題があるからではありません、僕の伝え方に誤りがあるのです。心と心の力学、それこそが永遠に重要なのです。