哀訴嘆願

 僕は本当にこれまで一生懸命に生きてきた。不調が基調となり今現在仕事を休んでいるがだらけた日々を送っている訳ではない。社会のルールの中で生きている。資金面は障害年金で何とか食いつないでいる。僕は芸術にしろ、学問にしろ、一生懸命考えた。だからその価値はあると思う。でも今の僕は不遇の時代を過ごしている。このブログも1000記事を達成したのから本来なら自分に祝辞を述べたい程である。また今日は精神科に行った。主治医に僕の現状を端的にまとめたスマホメモを彼に見せた。八面玲瓏の、鷹揚な医師はいつも清澄な思考をしている。僕の病気について相応しい治療をすべく、薬の条件を変えてもらった。頓服が常備薬になった。それでも、天よ、運命よ、神仏よ、僕に栄光をください。僕はその為の準備を用意周到にしてきました。僕は主治医を尊敬している。また今後、僕は自分なりに幸福を掴みたいと思っている。この春に今までの努力が結実する、とどの占いも異口同音に言っている。しかし占いなんて所詮眉唾物。それでも信じるものは救われる。怪しい邪教の教祖や教徒ではないにしろ、スピリチュアルに傾倒しすぎなければ、上手く付き合って、利用していけば良いじゃないか。

 

哀訴嘆願である。僕は本当にそんな状態だ。もうこれまで本当に全力を投じて生きてきた。それは傍目から見て碌でもないようなものなのかも知れない。僕は生前に不幸の連続で終わるのだろうか、統合失調症発症を境にして。何だか考える事も欠乏してきたような気がする。高校の範囲の勉強をマスターして数日か経った。その事によって僕は堂々と生きられている。買い物はヘルパーに任せる事にしているし、訪問看護もそれを是認している。何度も何度も同じことを反芻する日々。未来に慄然とし、現在になす術なく生きている。もう何も頑張れない。今は自分のやってきた功績を認め、褒める事が重要なのかも知れない。今後の僕は障害年金に頼って無職で生きていこうと思っている。まあ暫定の事柄であるのだが。

 

この文体もかなり柔和になった、一時期の縦横無尽の言辞サラダ、支離滅裂、背水の陣とは異なり、僕は万人受けしやすいと思われるような文体を得た。こうしてキーボードを用いて文章をしたためる時間は本当に落ち着く、深潭とした安寧の区域、未開部族の跋扈する無意識の領域。そこに超自我が介入するのか、しないのか。僕は痴呆に脳髄がやられた。そして錯乱した表現を好んだ。この無辺の世界において文章上のアート性の向上は僕の目的とするものの一つである。僕は統合失調症でまともな知能を失った。今では前後不覚、軽度知的障害である事は歴然たる事実だ。白痴になって、新たな芸術分野、プログレッシブツイストの端緒とした。

 

また僕は高校時代に勉強が頗る苦手だった。統合失調症によって授業どころか、生命維持活動そのものが危急存亡の至りになった。そんな僕でもモテる事はあった、恐悦至極である。僕はあまり自覚する事はないが顔面は端整であるらしい。しかしそれを憚らずに発言すると反感を買い、揶揄されたり、嘲笑の憂き目にあったりする事は否めないのでリアルではあまりにも気に障る事は、支障のある事はしないようにしている。血潮が縦横無尽に僕の体内を駆け巡り、漲り、迸り、滾る。その結句として僕はこうやって発信をしている。自分の不快感をどうにかして溜飲を下げるようにしたい。奇をてらうような奇人変人御用達の発信は出来ない。おそらく恋人が出来れば急転直下、僕は幸福になれるのだろうが、今はそれが極めて難渋する。何故なら外に出る機会が非常に少ないからだ。今は人が怖い、外が怖い。幻聴も怒涛の如く、訪れ、僕はそれに大なり小なり精神的に右往左往している。

 

過去の燦然たる僕の雄姿。あの頃僕は学問の歴史に名を刻む発見をしようと呻吟して定理を発見し、分野を創始し、発明した。これは統合失調症にありがちな誇大妄想と思われるかも知れない。しかし物証はある。仮に大それたものではないにしろ僕は頑張って生きていた事は確かだ。僕は古典とされる名著を、普遍的な価値を伴う名著を読んで驚天動地を味わった、非常に感銘を受けた。今の僕は社会的に見れば塵芥、侏儒の類である。それでも生きている。生きている限りは誰かに希望の光を投じる事が出来るのではないか。たとえ少数であっても、人を動かす事、それは作者冥利に尽きる事である。僕はこうやって自身の中で攪拌された言葉と思想を結合させ、克明に、必ずしも順番通りではないが、行列として示してきた。これほどの事が出来るようになるとは、少年期の僕には想像も出来なかっただろう。当時は死ぬ事ばかり考え続けた。死の準備として自殺の動機に至る道程を踏襲しようと、文学に没入したりしていた。特に愛好したのは現代文学ではなく、古典文学である、古色蒼然でありながら、天変地異に思えた古典である。

 

 今回の記事は軽微に、しかしながら断続的に執筆した代物である。たちどころに、僕の人生は多くのケースで不能になった。学校も必死こいて卒業した。周りのサポートがあったおかげである。僕の周囲の秩序の中に、自殺を唆す人がいなかったのが救いである。僕も全くの善人ではなく、他人に自殺幇助にあたる発言をしたこともある。しかしそれは愚行だったと思う。僕はその事に非常に慙愧に堪えない。僕の発信が多くの人に膾炙し、動かすアイコンになれば良いなと思う。多分これも妄想だが僕はその切望が叶いつつあると思っている。その証拠も幾つか観測した。認知の歪みだ、と糾弾する者もいるだろう。それはまさに紙一重で解釈次第ではそう言っても過言ではないかも知れない。統合失調症の真理には侃々諤々の議論が必要だ。僕は誰かと舌戦をしたり、議論するのが圧倒されて至極苦手なのでその輪に入れそうにないのだが。卒論を酷評されて歔欷した時もある。

 

 僕が仕事に行けないのは僕が懶惰で無頼だからではない。統合失調症による生きづらさの顕現があるからである。僕は今後も詩人としての活動を続けていく。このエッセイも文学であり、散文詩であると見ても良いと思う。小説家でもあるし、数学者でもあるし、哲学者でもあるし、科学者でもあるし、音楽家でもある。変幻自在の僕である。それは僕の友達にも吃驚された事である。彼にはそう言ってくれてありがとうと低頭し、感謝したい。僕の発信に至るまでの数限りもない人々からのご鞭撻、非常に幸甚である。

 

 太宰は境界性人格障害との説が濃厚らしい。しかしその軽妙にして、技巧的な文体や作風、虚をつくような物言い、諧謔的な性格を契機とした、エンタメ作品として最高峰の珠玉の作品。僕はこの歳で、25歳で太宰治に敬服するようになった。三島も言っていたが太宰は非常に才気優れる男で、近代日本文学で彼に比肩する才能を持った人はいないと。

非常に傑出した文才を持った時代の寵児と呼べるような作家は芥川賞や直木賞を受賞した連中だろうか。真に不世出な存在はカリスマ性を兼備した、搭載した者なのか?その定義とは?僕はこのブログはただただ真摯に、文章として忠実に示したいという欲望に隷属し、行動をしている。そこにはユーモアの導入はない。僕もやはり時代錯誤の、前時代的な人間なのだろうか。僕の言動は全て蒙昧なのだろうか、誤謬なのだろうか。それでも構わない、僕は必死に生きている。その悠然とした姿勢が人に薫陶を受けさせる場合もある。

 

 僕は先日髪をカットしてもらった。非常に軽くて似合っていて良い感じだ。これから気温は日増しに温暖になっていく、水蒸気も横溢する季節にもなるだろう。幻聴による毀誉褒貶、それに伴う人生が統失のスタンダードである。意気阻喪し、空理空論に翻弄され、気づくと光陰矢の如し、時間は過ぎている。人生は死ぬまでの暇つぶし。何が潰えようと、自信を持った魂は高潔であり、格調高い存在である。

 

 今の日本は衰退中である。円安で苦悶する国民、世界での重鎮の立ち位置から追い出されそうになる日本。日本人は良く頑張ってると思う。どんな人も、勿論働いていない僕も。それなのに努力が報われないどころか辛酸の極みを味わう人々は不条理だ。もっとメディアも楽観を愛撫するような、吟味するような扇動的な事を流すべきだ。有象無象の、大衆に斜め上に阿った、媚態とも言える態度は一刻も早く改善すべきだ。楽しみを享受し、心地よい疲労と共に沈殿していく、そんな夜の尊さよ。ダヴィンチも言っていたが、立派に費やされた一日は長い。類まれな故人の金言名句である。

 

 奔流の僕の発信。それらは吐瀉物も混じった吐き気を催すようなものもあれば清冽なリリシズムのあるものである場合もあって玉石混合だ。僕のバイオリズムは様々な個性の輝きを変遷していった。今の平穏無事な時間だとしても更にメタな自分へと昇華させるよう、こうして文学に携わっている。恣意的に思える時もあるだろう、偏見からか偏執狂的にか杓子定規的なものもあるだろう。しかし僕はこのブログを他人から強制されない限り、超法規的措置が取られない限り、病的な検閲がない限り、閉鎖しないつもりだ。僕が頭の内に思ったらふらっと立ち寄ってください。諸氏に対する愛情を込めて。耳をそばだてる、すると幻聴が聴こえる。悪口雑言が支配的だ。貪婪の僕を冷笑侮蔑しているのか。やはり僕にも私利私欲の側面がある、エゴイスト的な側面がある。それの何が悪い。僕はもう自分を隠さない。等身大の自分を相手に見せる、すると相手は縮みあがり、消え失せる。僕は自由闊達になる。頑是ない子供の感性と、剛勇無双な大人の知性、それらが渾然一体となって今の僕の妖術的な、唯一無二の、瞭然な個性は出来上がっている。繁多な、培った成功経験、僕は負ける気がしない。それでも僕は超自然に拝跪し、忸怩たる自分を眼前に見据え、生きる事に徹頭徹尾、投じている。スタイルやパラダイム、固定観念は刷新しようとも根幹の生きるという部分は普遍の神秘だ。

 

 僕は大学で哲学を学び、学士を取った。その中で首尾一貫していたのがフロイトへの憧れである。僕は彼の精神分析のような偉大な理論を構築したかった。4年時からはガロア理論に匹敵するものを構築したいと思い、専門を哲学のみならず数学や科学にも広げた。しかしこんな幼稚な理由で学問に対峙する人間に果たして手痛い仕打ちがなかったのかと懐疑的になる読者もいるだろう。確かにそれはいた。僕を迫害する連中、僕を難詰する連中、僕を中傷する学生、多くの人々が僕の前で屹立した。大学生は大人である。したがって大人の責任や自由が付与される。その範囲の埒外でなければ何をしても大丈夫だ。僕のようにネットで発信活動をしてる人も膨大にいる。しかし幸運だったのが、僕が傷害事件を起こさなかった事だ。僕の本質は臆病であり、本来なら放埓な事は出来ない。しかし僕を傷つけた教員には僕は突如として憤怒の炎に燃えた。僕の中で怒気鋭い人格の萌芽が台頭したように思えた。

 

 日本社会はおかしい。政治家の不祥事も相次ぎ、洗脳された連中が跳梁する。働けない者は落伍者だとか罵倒する人間もいる。しかし僕は障害者である。統合失調症である。したがって僕は一般の常識に該当する人間ではない、例外なのだ。そしてその例外が社会的に認められる障害勃興期が卑近に近づいてきていると僕は思っている。色々な人が敷衍しているように悲観的な未来が訪れる可能性は十分にある。しかしそうする中で生きる活力を喪失してしまい、失意に暮れる事は本末転倒、元の木阿弥である。

 

 障害年金をあてにして生活をする事に対して負い目を感じてはいけない。そもそも障害年金は障害でばりばり働けない人間に資格のある事柄である。僕の高校時代には多淫な学生がいた。性的に早熟なのか、或いは年齢相応なのか、セックスも社会に浸透していると実感させられた。自らを知悉の大賢者と豪語するのは驕慢だ。少なくとも社会はそのような人には懲罰を与えるだろう。それが社会の縮図の一端に組み込まれている。懈怠の日々を過ごす大ぐらいも、性的に充足した依存症も、ドラッグに耽溺する脆弱かつ矮小な人々も、社会の中で生きている、かけがえのない命だ。僕も頑張って25年間生きてきた。これまでに沢山の嫌な事があった。陽キャラになりたい時もあったが僕には合わないと畢竟諦める事になった。僕の認識する現実と他の人、一般の認識する現実には齟齬がある。無論曲解しているのは僕の方である。どうにかして社会に適応しないといけないと焦燥してみるものの、苦痛に当惑し、狼狽するのがしばしば続いている。

 

 日本には俗諺として心頭を滅却すれば火もまた涼しという言辞がある。これは通俗心理学に乱用されそうな概念だが要するに捉え方次第でいかなる苦痛も凌ぐ事が出来るという事だ。僕は今、そのような言葉に叱咤激励され、生きていく。古今東西の多くの豊饒な知恵を得て、明晰な筆致で何かを饒舌に語りたい、それは時折大弁舌になるかも知れないが。僕はそう思っている。

 

 今日はヘルパーに来てもらっている。料理を少し手伝った。買い物は夕方の時間帯だと疲労困憊で鬱状態になり、忽然と調子が悪くなるのでヘルパーに任せている。今はそれで良い。社会的な接点だ、ヘルパーとの会話も。特段多弁的になる訳ではない。しかし良い刹那だ。

 

 僕は過去の僕の行動について弁明をしたりしてきた。しかしそれが凱歌を奏したのかどうかは分からない。社会的に僕の存在がもはや闖入者、参入者ではなく必要不可欠な統合失調症の泰斗になれればなあとは哀訴歎願している。

 

 これまで統合失調症という肩書、身分を利用しながら活動して数年が経過する。こうする事で僕は割と有名になったのではないかと思うがこれも僕の妄想だろうか。少なくとも統失界隈では有名であって欲しいが。少なくとも今は僕は仕事をしていない。今後する予定もない。本当に困憊として、眩暈は定着した。僕はたちまち狂人になった。人生の過渡期を経て。正気を失う事は脱帽に値する事ではない。

 

 統合失調症の物語は僕の死後も続く、なかなか美談どころの様相ではないのだ。積み重なった屍を経て、今の僕の生活がある。剣呑な、殺伐な、シビアな、シリアスな現実。そしてそれを見て傲然と物言いをする僕の浅ましさよ。なら行動しろと万人が思うだろう。友よ、確かにその通りだ。しかし現実は上手くいかないのが必定だ、殊に統合失調症なら。いや、これも言い訳か。しかし統合失調症を盾に逃げ口上、本性を隠蔽して発信しようなんて甘い考えだ。僕はもっと清らかな存在でありたい。人のはらわたの奥底に潜むものが邪悪なものなどとは思いたくない。僕の腹心は今でも過去の偉人達だ。そして僕もその偉人達のクラブに参加したいと願ってやまない人間なのだ。

 

 人の脳裡に巣くう甘美な理想。その理想が叶わないと知った時が転換点だ。人は無力である事からスタートする。赤子と同じように。僕も大言壮語や理想を高尚に掲げるのを辞めないといけない。淡白な希望だって、淡い幸福だって、月並みな人間関係だって悪くないものだ。矜持を投げ捨て、現実を認める。等身大の現実を。236㎝なんて荒唐無稽な身長を勇んで詐称していたが身長なんて170以上あれば別に困らないだろう。僕は考えすぎた。それほど人は僕の事を見てはいない。統合失調症だからやむを得ないが僕は自意識過剰過ぎるのだ。まずはそこを是正していかないといけない。自分を棚に上げて社会に悲憤慷慨したりするのは辞めだ。僕は無知であったことを知った方が良い。知るのに長い時間かかったが、いや、認めるのに、か。歴史上の権力者に伝記と銘打って阿諛追従したり、見るに堪えない、痛ましい惨状である。プライドが高いからこそ忸怩を感じる、ならプライドを捨てれば良い。高いプライドを。僕も有象無象の、衆愚の一員で、粗製乱造を際限なく繰り返す異常者だ。いや、僕は自分を褒めるんだったな。これは僕の無意識化の自虐癖のあらわれだ、どうにかしないとな。

 

 僕は何を目指しているのか、その事についてはこれまで再三言ってきた。何度も重複しているので辟易した御仁もいるかも知れない。今は部屋を暗くして生活している。視覚過敏の僕にとっては最適な環境である。このように自分の環境を自分で変える事はしていっても良いだろう。それが大人の権利だ。僕は大人の一員としてやるべきことをやっていきたい。僕は多くの人にそれを余すことなく表現していく。僕によって変わった人がいるだろうか。その返答は空虚である。僕の顔面は幻聴を筆頭とする諸症状にやられてもう笑顔も浮かばない。僕は笑顔が一番可愛いらしい、そう言われた事もある。それなのに僕はその魅力に蓋をしてしまっている。これでは勿体ない、宝の持ち腐れだ。僕は癒しで多くの人を包み込みたい。多くの人を幸せにしたい。まあでもこれは過大評価か。それでも何とか生きている。僕も生きて、僕の懇意な人達も生きている。僕を応援してくれる人も想定よりもいるようだ。僕は現実を悲観しすぎだ、厭世しすぎだ。それだけデストルドーが大きいのかも知れないが、僕は恵まれている。僕はこの休み中に何をしているのだろう。ただ四苦八苦して文章を書いているだけだ。僕の文章の流動性は、僕の論理の流動性と相関がある。そんな感じがする。特段その結論に帰納や演繹を試みた訳ではないのだが。

 

 数限りもない不調の一群。僕は煩悶する。それが人間として現代を疾走する事の副作用的なものなのだ。僕の文書が多くの人の心を打つ事を僕は願っている。願ってばかりだな、僕は。私欲のみならず僕は他の人にも幸福になって欲しい。無論人非人は度外視するが。それが、僕が人間である事の証左である。戦々恐々となるのは統失の症状を顧慮すれば当然の事である。統合失調症がもっと巷に一般化されれば良い、僕はやんわりと音楽や文学作品などでその大願にアプローチしているのである。まあもうギターは長い事触っていないが。僕はパンクっぽくもあり、プログレっぽくもあり、サイケっぽくもあり、ロックンロールっぽくもあり、ハードロックっぽくもあり、ヘヴィメタルっぽくもあるプログレッシブツイストの世界観を展開した。頑張って、頑張って、その果てにあるのは倦怠と虚脱、抑鬱のみか。

 

 日本社会も今のままでは前途憂慮の至りに堪えない。

 

 この記事は時折自嘲的に書く事もあったがやはり僕は自分が好きなのだ。放縦に行動をして、旺盛な知的好奇をめらめらと燃焼させ、表現する事が僕の独壇場である。少なくともこの場ではね。幾重にも連続する苦痛に伴って、耐えがたい、甚大な苦痛と苦悩を持って僕は本当に再起不能に陥った。このままで良いのかと思い、何とか統合失調症の治療を継続している。肺臓の焼けるような、四肢が捻じれるような、脳髄が攪乱されるような、統合失調症の悪夢。なって良い精神疾患などない。でも一度精神疾患になればそれがたちどころに個性になってゆく。僕は佇立する、統合失調症の白眉として、凝集された知識を持って、見てな、凍り付かせてやる。悪漢ども、イカサマ遁世者は面食らい、凝固する。また僕のこれまでの諸活動が再評価され、科学文明に、現代芸術に貢献して、幅を利かせる事を僕は祈っている。僕から溢れ出た着想、破竹の如き着想は幾つかの形式でまとめ、したためた。僕は懸命に生きたのだ。親類縁者の助力もあった。憂き目にあう事も、治療が裏目に出る事もあった、過去のヤブ医者の一部の見解が逆説的に示された事もあった。僕は今後も獅子奮迅の、粉骨砕身の努力を継続する。そうする事で人類に明るい未来を向けられるようになる事を祈って。スケールの大きすぎる考え方だろうか。

 

 手管、奸計、陰謀、悪だくみ、類語反復、どんな人間社会でもそれらを完璧に廃絶したものがあるだろうか。人を騙そうとして美辞麗句やおべっかを口にする、素朴に人に毀誉褒貶する人物の方が割と少ないくらいだ。その上に正義を騙る、人間の浅ましき生はここに極まれり。日本という国家は臆病者で、差別の怖い僕にとっては僕と一蓮托生のものである。したがって甚だ重要なのだが、今のご時世、日本国民は政治家と政策の劣等故、悲観的になりすぎている。余計な事、国の地位を毅然と考えているのは僕のような暇人くらいだ。僕は乾坤一擲に政治に出馬するつもりはないのだが、やはり今は由々しき事態だ。世知辛い事に変わりはないのだが。しかしながら極めて重要な20代の人生を、僕は有意義に使えているだろうか。僕の書き殴りをこれから先も人に刮目して見てもらおうじゃないか。

 

 僕は頑迷であるが、こんな僕でも喝采を浴びたいという通俗の心理がある。おそらく多くの人々もそうだろう。認められたいと願うのは、人間の典型的な欲望に相違ない。今は一見放縦とも言える日々を過ごしている。今の僕の身の上が嘘のような気がする。恍惚と不安の交錯した胸騒ぎを感じる。昔はこのようにまとまった休み期間を取るのは長期休暇を除けばなかったのだから。このブログは誰が読むだろうか。誰が読むにしろ、何らかの喜悦を読者諸兄姉に与えたい。僕は頑張って生きている。障害はあるがその事は周囲の強直者に伝え、何とか立ち回っている。僕はどうすれば良いのか。それは分からない。今は薬を飲んでしかるべき療養生活を送っている。僕が統合失調症になって10年以上が経過する。しかしその中で七転八倒をしてきた生きる人間の姿があった。それは紛れもなく自分であった。多くの活動を行い、このブログも1000記事を達成した。これは非常に素晴らしい事だ。そして僕は次のステップへと進む。健康的で、生きていく。生きるのが大事だ。

 

 僕は言葉というものを重んじてきた。しかし大学教授に言語能力が低いと呼ばれるだけあってどのくらい伝わってるかは不安である。そもそも僕の活動は矛盾だらけだ。矛盾が僕のスタンダードなのだ。その事を忘れてはならない。矛盾というのは生命エネルギーの放出であり、諧謔だ。閲覧者諸氏に楽しんでもらうにはボケも必要なのだ。それが、僕の場合はほとんど無意識に、意図しない場合で起こる。好き勝手書き散らして今に至るのである。

 

 思い返してみれば言語活動での自分の未熟さが恥ずかしい。しかしそれで良い。僕は言語遊戯としてこの文章を書いている。僕は言葉を上手く使う事が出来ない。それを逆手にとってエンタメとして読者に享楽させ、耽読させる僕の力。これは一朝一夕で出来るようになった訳ではない。僕は確かに頑張ってきた。引きこもりの今でも頑張っている。もう休んで良いんだよ。一歩ずつ一歩ずつ闊歩出来たら良いな。どうすれば僕は幸福になれるのだろう。机上の理論ではどうなっているのだろう。僕は多くの事を成し遂げた、それは達成感だ。

 

 僕の言葉の使い方は怪しい。大学時代も教員から酷評された程だ。まあそれも一里塚なのだろうが。しかしそれでも自分の気持ちを発散すべく文学活動を行っている。これは僕が独立独歩に編み出した生き方である。僕は昔から誇大的な男であった。統合失調症になったからには統合失調症の頂点に君臨してやるという野心があった。この野心は非常に頑迷固陋、気宇壮大なものであった。それ自体は最初の内は何の価値観や思想の転回を生み出さなかった気がする。文章の巧拙はあれど、僕の熱意を伝われるように僕は注意を払ってきたつもりだ。ストレスに衰耗しようとも頑張ってきた。

 

 二度目の高校に奮然として入学した時、僕はこれから新たな人生が始まるのだと思っていた。しかしその歳に統合失調症発症。視界が真っ暗になった。僕を成長してくれる病であるなら受容にやぶさかではないが、当時はそんな印象もなかった。ただ副作用が強く出て、社会生活もおぼつかなくなり、だしぬけに奇行をする、しきりに妄想の話をする。など色んな悪影響が僕の人生に生じた。でも今は僕を成長させてくれるに至った。統合失調症の良い面には感謝したい。それでも来世があるのなら絶対に統合失調症にはなりたくない、その小径には入りたくないが。もう25年、この間で騒然、激動、統合失調症の様々な事が軽微ながら変わっていった。僕は統合失調症の先駆者と言って良いだろう。しばらくは晦渋な文章を書くだけの奇人ではあったのだが。徐々に病気の概念が認められるようになってきた。しかしこれは僕だけの力で成し遂げたものではない。様々な人々の集積、累々たる屍があったからこそ出来た事である。僕の近況から形而上学的な広範な話まで今まで僕は書いてきた。過去記事も食指が動けば見てください。あまり彫琢のしていない文章だが、軒並み僕の情熱を感じるには十分だと思う。僕が死しても尚も悠然と、僕は存在したい。このネットの一隅で。再評価されると良いな。