太宰治は人間失格を書いた。それは彼の自伝的作品とされている。彼は玉川上水にて愛人と入水自殺をしたという。彼は今生きていればどのような作品を残していただろう。それとも書けなくなって作家として背水の陣にあったから死んだのだろうか。僕だって自分を人間失格と思った事もある。しかしそれは思春期の話だ。坂口安吾は太宰治を不良少年と評した。それは正鵠を得ていると思う。坂口は慧眼を持っていると思う。またこうして書いている内に僕の内部での思考が際限なく反芻され、非常に気持ちが整ってきた。そうだ、好きな事をすれば良いのだ、休みの時間、充電の時間は。僕は今日訪問看護に来てもらい、話を聞いてもらうつもりでいたがそれはやはりよしておこうと思う。僕は自分の力で立ち直る事が出来る。どんな手練手管がやってきても僕ははね返して見せる。僕は統合失調症だからなのか、関係ないのかも知れないが、無自覚に他人を苛立たせる場合が多い。発達障害的と言えるかも知れない。僕の至らなさが不和軋轢を生んでしまうのは勿体ない。今後は僕はもっと精神的に逞しくならなくてはいけない。今まででも同世代の人々より遥かに読書をしてきたし、様々な成功経験を積んできた。それは僕の財産だ。またこのブログも僕の財産だ。僕はこのブログをもっと大勢の人々に触れ、何かを感じてくれる為に平易な言葉で書くことに決めた。また僕は、もう世間なんてものに諂わない、世間というのは個人だと太宰が言っていた。笑われて、笑われて、強くなる、これも結句名言と呼ぶにふさわしいものだと思う。太宰は本当に天才的な作家であり、近年では徐々に海外でも注目を浴びているらしい。その程度がどのくらいかは分からない。しかしネット文化の台頭によって様々なものが発掘されるのは甚だ見ていて心持が良い。科学技術文明の進歩により人間は堕落し、滅亡するとの剣呑な言葉もあるが、その事については僕は真っ向から意見できるような聡明な人間ではない。秀麗な外見はあるかも知れないが、今の僕ではまだまだ未完成だ。でも頑張る、頑張って、頑張って、出来る時に出来る事をする。自分を認め、肯定し、大切にする。僕はどうしても生きないといけない。味方も理解者もいる。しばしば確執が生じてしまう、この世の中であるが、僕は何とか円満に過ごしたい。僕を傷つけて憚らない人からは離れて。人間失格、僕は自分で立ち直ろうとしている。人間失格ではない、自分に必要な事を理解している。それは犯罪というのではなく、健全な魂の活動だ。