僕は昔自分を主人公にして官能小説を書いたり長編小説を書いたりしていた。それは滾りたつ自分の欲望を、無惨な、陰鬱な現実に抗して作品の中に屹立させたかったからだ。私利私欲という低俗な感情を卑しくも芸術において昇華しようとしたのだ。もう小説や詩は書くつもりはない。でも人によれば褒められたりした事もある。しかし僕には文才がなかったのか、構成力がなかったのか、慧眼がなかったのか自分で満足出来る作品は完成しなかった。それも客観的に見ればどうかは分からないが。僕は文芸的な創作活動に限界を感じたのだ。大体僕は国語力がない。正しく書物を読む読解力がないから普段から自分で書く文章も支離滅裂なものになる場合も少なくはない。今は僕はランボーの地獄の季節を読んでいるが、それも四六時中ではない。滾る熱量に隷属して、僕は現在もこのブログを更新している。ポジティブ日記の代用として頑張っている。やはり多くの人も実践している通り、何かを文章で表現する事で人生が変わる事もある。僕は明日も仕事に行こうと思う。早寝をして、起きて、仕事に行く。調子の悪い朝は頓服でも飲めば何とかなる。僕は短期間の内に本当に様変わりした。多くの人々を魅了させられるかどうかは分からないが、それでも色んなものに傾倒しつつ、清濁併せ呑む経験をしていきたい。正直僕は言葉というものが嫌になってきた。それより僕はもっと感覚に即した快感が欲しい。性欲とかじゃなくて、風光明媚な景色に吃驚したりと。このブログはもっと多くの人に、外国人にも読んで欲しい。しかし長文を自分で翻訳して発信するのも粉骨砕身の努力が必要だ。それに加えて乾坤一擲で非常に心理的な負荷を伴う作業だ。ニートになりたいと思う事もある。しかし今の作業所は非常に恵まれた環境で、気兼ねなく相談出来る相手もいる。パソコンを使用した作業が専らの僕の仕事だ。まあ恋愛したいのなら外出しないとなあ、如何に戦々恐々としているとは言え。僕が仕事に行けない時があるのは逃げ癖ではない。病気の症状だ。そういう時は気軽に休めば良い。どうせB型作業所だし。工賃もごく僅かである。また僕の人生は僕の肉体と一蓮托生である。肉体を大切にしていきたい。しかし余りにも自分を大事にしていると腐敗してしまうのも、堕落してしまうのも怖い。僕の今の文章は錯乱しているし、奔流の如き思考があらかじめ用意されている訳ではない。感性の赴くままに理性のほとんどは度外視して滾りながらこれを書いている。出力する文章を十分にブラッシュアップ出来る能力があればもっと上等なものが書ける。近視眼的になっているのかもな。でもそんな僕も僕は好きだ。

 

 ここで懶惰に日々を過ごしていけば無頼派の作家と同じだ。元の木阿弥だ。僕はれっきとした社会人になるのだ。どうか僕のこの思いが読者に届いて欲しい。僕は必死で、孤軍奮闘している。それだけで僕は自分を愛せる。蛆虫然とした滾る自分を、たまらなく愛せるのだ。居丈高の統合失調症からの再起。傑出した存在でなくても良い。ありのままの僕で大丈夫だ。大丈夫、大丈夫。これを読んでいる読者諸兄もきっと大丈夫だからね。無責任に聞こえるかも知れないが僕は誠実に諸氏にその言葉を伝える。