僕は自分の存在が塵芥に思えてしょうがない。一挙手一投足が惨憺たる、無惨なものに思える。これは僕が統合失調症だからだろうか。最近は僕は仕事を休んでいる。疲れてきたからだ。独立不羈に生きている気になっているがやはり訪問看護などの助けが必要だ。でも人間は社会的な動物だ。別に卑下する事も悲観する事もない。そう考えていればやはり塵芥でないのかも、痴呆患者ではないのかもと思えてくる。何らかのアウトプットをすることで意気阻喪の精神を解消させる。そういうのを精神医学では昇華と呼ぶ。深呼吸をするのだ。そうする事でいったん落ち着く。大した事のない事で悩む事もない。僕は別に卑屈になるような事はない。ネット社会の台頭により、人の苦悩がより鮮明に、卑近になってきた。それは良い副産物だろうか?弊害だろうか。僕は鋭意こうして活動を行っている。しかし最近は熱意もないのでさしあたり1000字程度の分量を目標にこのブログを更新していきたい。僕自身何かを長文で伝えると同じ事の繰り返しで読者からすれば非常に辟易、閉口とさせるに違いない。僕のこのネットの一画での活動がいずれ理解され、激賞される日が来て欲しい。その嘱望は倨傲だろうか。それでも僕は前向きに生きていきたい。ほら、また出た。すぐに根を上げて人生の事に話を繋げる。これは狂気の残滓であろうか。これからも閲覧者の御仁にはご愛顧をお願いしたい。僕の人生は華やかなものではない。ここで書く内容も非常にユーモアが欠乏しているのだろう。しかしそれでもやっていく。僕は目下自分のこれからについて逡巡するばかりで具体的なプランは何もない。もう26歳だ、このままで良いのだろうか。僕のブログの分量は読む者を圧倒するような、非常に高圧的な代物であったに違いない。これからはそうではない。アングラなテーマを扱いながらもリアリズムで、同時にエゴイスティックで、諸氏から受け入れられるものを書きたい。僕も一人の人間だ、内向的で、当惑する。僕は今自宅でこうしてパソコンを利用している。何かをするのに必要な時間は十分持っている。主治医も休みながら、仕事は行ける時に行けば良いと助言してくれた。

 

 言葉自体が渾然一体とした巨大な飛来物のように読者に襲う事。それは良い事ではないだろう。さて、もうすぐ訪問看護が来る時間だ。自分の悩みを何の淀みもためらいもなく人に話す事。それは非常に一人暮らしの僕にとって珠玉のものなのだろう。