僕は粗製乱造の創作者になりたくなかった。統合失調症としてこれまで多くの発信を僕はしてきた。中途で脱落する者もいた。そんな中で僕は生き残った。そして今も尚、発信している。自分が塵芥や侏儒に思える時も多い。特に一人暮らしではマイナス思考も拍車がかかりやすい。高校時代の僕は世界が刺々しく見えた、また友達でさえも衆愚に見えた。僕は最近、何だか前向きになってきた。人や社会が優しく感じるようになってきた。心のフィルターが変わったのか、精神的に成長したのか、思い当たる可能性は幾つかあるが、とにかく今の僕は好調だ。成功の前兆のように良い事も続いている。模糊たる現代社会において自分の居場所を見つける事はある種の難しさがある。特に僕のような統合失調症だと尚更だ。今の僕は家に引きこもっている。外に出るのが戦慄してしまうのだ。そして自分のアウトプットとしてこの記事を書いている。カタルシスというか自分の思考の奔流を自由闊達に表現する事により僕は一種の悦楽を感じてしまうのだ。休日に家でゴロゴロして、外に出ないのはそれほど不健康な事だとは解釈されていないという。そう言えば青葉真司も統合失調症の疑いがあるらしい。僕も彼と同じと思えば筆舌に尽くしがたい、釈然としない嫌悪感を否応なく意識させられる。

 

 僕は鏡やガラスに写った自分の姿を見るのが苦手だ。僕は自分のルックスには自信を持っているが、だからと言って驕慢にはならない。上には上がいる。どの世界においてもだ。僕はまだ過去に憤懣したりする事もあるが、その程度は次第に下火になってきている気がする。僕の成功は近い、僕の作品や仕事はきっと理解され、文化や科学の一部になる。自分は最高だと思う。しかしそう思いつつも謙虚にいる事、客観的に自分を俯瞰する事を忘れずにいたい。そう言えばジョンレノンは一時期音楽活動から離れ、専業主夫をしていたがそれは別に音楽活動に嫌気がさしたからではないらしい。彼の芸術的アプローチには釈然としてしまう。芸術は日常茶飯事を含蓄するものであり、支配的な作品の形式も縦横無尽に変動させる事が出来るのだ。僕のこのブログも何と堅苦しい言辞や修辞を繁茂させるより読者にもう少し媚びたようなものであっても良いかも知れない。

 

 統合失調症の偉人も多い。自分の症状や苦悩を個性として芸術作品に落とし込む血気盛んな才気、勇気、僕も過去の統合失調症の偉人のようになりたい。僕は頑張っているから成功を掴んだり、幸福な人生をゲット出来る事が出来ると区役所と話した時に言われた。僕はほぼ反射的に自分の身の上話をしきりにしてしまう悪癖がある。このことにいい加減、辟易、閉口してしまう事も多いかも知れない。

 

 僕は視覚過敏で苦しんでいる。雨の日や曇りの日で外が暗くても証明のある部屋の中では度付きのサングラスをしてしまう。また僕はヘルパー利用について少し調べた。ヘルパーが勝手に一人で調理や掃除をやってくれるスタイルもあるらしい。僕は可能であれば調理に手伝いたくない。何故かと問われれば何となくという他に仕方がない。僕も何とか生きようとしている。自分らしく、自分を労わり、自分を褒める独り言も頻繁に言っている。こういうとナルシストのように思われるかも知れないが、ナルシストとは他者を恥辱する、糾弾する便利な文言だと思う。

 

 周囲を牽引させ、国の代表者になる事。それを夢見た僕も確かにいたと思う。でも今は刺激の多すぎる日々はどうしても疲弊してしまう。疲弊の果てには抑鬱がある。しかし他者との交流の中で安堵や幸福を見出し、それを自分のものにするにはある程度の苦痛や面倒くさい道程が必要だ。僕は勿論有名人でもなければ人気者でもないだろう。というか自分自身を見つめすぎ、自意識過剰になりすぎなのかも知れない、今の僕は。換言すれば内向的とも表現可能かも知れない。僕は一人暮らしをもう何年も続けている。大学を卒業すれば実家の和歌山に撤退して黙々と単調な仕事に没頭しようかとも逡巡した時もあったが、今は京都にいて多くの機会に恵まれて良かったと思う。平日五日、一時間ずつの仕事も今の僕を元気にさせる養分になっていると思う。

 

 結局信じるのは自分の判断だ。悲観主義や厭世主義、悲劇的様相に陶酔する、痴呆染みた連中を受け入れ、自分の人生に役立てようとするかどうかは自分の自由だ。一人一人の人生の主人公は各人自身でありやはりそれ以外にないのだと思う。僕は誇大妄想や関係妄想もある。自分のアイデアが盗用され、自分に対する手管となり眼前に躍り出るという事、それも珍しい事ではない。これは神の奸計だ。僕も青葉真司のような妄想性障害的な部分があるのだと思う。しかしそういう自分自身を愛する事。駄目なところもありのままに認める事。完璧主義になってはいけない。理想に憧憬するのは勝手だが、それで苦悶するのはやはりもう嫌だ。僕はもう苦しみたくない。今まで沢山苦しんできた。差別、迫害される事もあった。斜陽した、そして友達も離れていき、異性からは白眼視された。高校の統合失調症に急性期に女性からモテてはいたものの、今思えばあれは単なる偶然だったのだと思う。僕は確かに美形だし、長身だが、どこかどんよりしたような、淀みがあるような、清冽ではない印象がぬぐえない。僕も恋愛をしたい。175㎝以上の長身女性と恋愛をしたい。しかしこの理想もあまり頑なになれば自分の首を絞める事になるのではないか。恋愛は僕にとっての乾坤一擲のものであり、恋愛は未知の世界である。というかそもそも僕に恋愛をする資格があるのだろうか。統合失調症でもリア充になり、恋人がいたり、結婚したり、子宝に恵まれたりしている人もいる。千差万別、人次第という事だ。僕は過去占いをしてもらった事があり、その頃には僕の未来は結婚し、子供がいるだなんて言っていたが占いなんて眉唾物で信憑性の高いものではない。

 

 母親は僕をよく気にかけてくれた。今でもラインで彼女と僕は連絡を取り合っている。しかし25歳にもなって母親に依存するのはマザコンではないかと思われる危険性もある。僕も何とか一人で奔走しないといけない。腹心である自分の知識や知性を活用し、新たな世界を切り開いていかないといけないのだ。

 

 僕はヴェルヴェットアンダーグラウンドを愛好し、享楽している。僕の音楽活動、殊に4枚目以降のアルバムではヴェルヴェッツから大きく影響を受けた。ブライアンイーノがヴェルヴェットのアルバムを買った人は三万人程度であったが、買った人全員がバンドを始めたという名言を残した。僕は自分自身をまるでルーリードとジョンケイルが融合した存在になったように感じた、アルバム制作中は。これは偉大な存在を自分の人生に融和させ、溶解させる僕の恥ずかしい癖である。臆面もなく、僕は歴史を顧慮した上での誇大妄想を持ってしまうのだ。

 

 白痴のような精神性で、僕はこれまで活動してきたし、それはこれからもそうだろう、何らかの泰斗のような存在になっても初志貫徹、僕は初心を忘れる事はないと思う。統合失調症の症状に意気阻喪する事も多いがそれでも僕は死ねないから生きていく。独自の視点で天下を睥睨する、それは誰にだって保証されている権利だと思う。貪婪も収まり、今は自分を前にお辞儀の仕方を僕は心得ている。過去の、少年時代の僕から見れば僕は輝かしい存在ではない、零落とも捉えられるかも知れない。それでも生きる事に意味がある。僕には味方がいる。きっと、きっと大丈夫。前兆もある。出来れば無病息災が良かったけど、まあそれはやむを得ない。