僕はこのブログをしばらく更新していなかった。端的にその理由を言えば第一にネタが尽きたから、そしてパソコンが壊れたからである。僕はこのブログを自身の統合失調症の症状を改善し、幸福な生涯を立脚する為の道具として極めて私的な目的で認知行動療法として使っていた。さて、今まで僕は何があっただろう。僕は僕の音楽アルバムを五枚まで出した。長い間構想していたものを具象化する作業をしていた。年末年始はもっぱら実家の和歌山にいた。弟は成人式のようだった。僕も成人式があったのだが肥え太った、布袋腹の自分を衆人環視の中に投入させる事に抵抗があったのでいかなかった。僕は自分が罵詈雑言を浴びるだろう、揶揄されるだろうという事を想定していた。それが自身の現実に対する誤謬、曲解であろうとも僕はやはり人が怖かった。対人恐怖。三下の青年である僕にはこれは焦眉の問題である。長い間外出も怖くて、現時点でも必要以外には外出しておらず、B型作業所に平日に通所するのみで休日、週末は部屋でゴロゴロしたり好きな事をしたりしている。このゴロゴロも悪い話ではない。そうしている人は多いと仄聞する。平日は通勤時に運動もしている。概ね10分から15分間の運動だ。樺沢先生も運動は科学的に疾患治癒作用があると太鼓判を押している。まあ僕はもうしばらく樺沢先生の動画を見ていない。動画を見る食指が動かなくなった。社会学、心理学、精神医学と博識で、造詣が深い彼の金言は本当に過去の僕にとって感銘を受けるようなものであった。今の僕は自立出来ていると思う。一人暮らしが寂しいと思う事も往々にしてあるが、だからと言って平穏無事な環境を擲ってまで他人に迎合、阿諛追従することもない。僕の個性は既に完成した。これまで20歳から24歳までの時期には学問研究に東奔西走した、その間は彼女募集中と銘打ってはいたものの実際は異性には無意識的に歯牙にかけなかった。僕は小心者の三下である。僕のような人間が理想の長身美人との恋愛を謳歌出来るだろうか、いや出来ない。

 

 通勤中のバスで僕はシェイクスピアの作品を読んでいる。朝の読書は精神の泰平無事に図らずも影響を与えていると思う。想像力が掻き立てられる。朝以外にシェイクスピアを耽読、享楽しようとは思わない。実際無理矢理読んでも全然楽しくない。自分にとっても良くない事を続けるのは非常に宇愚に見える。僕はエゴイストなのだ。僕は自分のこのネット上での活動に辟易しているというか困憊している。長年活動を続けていても人気を博す事はないし、誇大妄想狂や驕慢風のキャラクターを演じていても何も満たされない。似たような凡庸にして蒙昧な発信を続けていた事で同じ事の繰り返しになる事は瞭然である。筒井康隆も小説はもう書かない、エッセイを書くと言っているが僕の心境は彼のそれに近い。無論僕のような三下とあのような白眉、巨匠と同じなどというのは彼に対する冒涜の最たる例だとも思う。

 

 僕はこれまで多くの精神疾患者、殊に統合失調症患者と関わってきた。彼らの多くは繊細であった。僕は自分の力で精神医学に一石を投じようと様々な思索を巡らす事も少なくはなかった。しかし今は一患者として出過ぎた真似はしないようにしている。デイケアも利用せず、社会参加は平日の作業所のみになっている。しかし僕は頑張っている。世の中に呪詛を向け、悲憤慷慨するばかりだった過去に比べ、今の僕はエネルギッシュである。黎明は失われたかも知れないが今は今で順風満帆である。ただ悲運に拝跪し、懈怠の日々を送るより力強く、もがいて強く生きる事が大事だという教訓を僕は広大無辺なコンテンツから学んだ。人間らしくもがく事を失えば、人は終わりである。まあ現代社会の青年達はこのような苛烈な感情の七転八倒があるかどうかは分からない。しかし僕は自分だけが特別だとも思わない。僕の言葉は奔流の如くで僕の滾る生命力の象徴である。象徴と言えばアルチュールランボーも象徴派の詩人だという。彼は20歳で断筆し、文学と決別したが今に至るまで彼の早熟な天才性を示す証左である作品は広く読まれている。宮沢賢治も詩人である。彼は生前は無名であった。理解者であった人々も尽力により彼は昨今では国民的作家の筆頭として挙げられる事も少なくはない。ゴッホも生前は無名だ。僕ももしかしたら、彼らのようかも知れないと思って活動している。しかしそれはやはり誇大妄想の一部であろうか。

 

 今日は僕は区役所に行って、認定調査を受ける。何の手続きかというとヘルパー利用の手続きだ。僕はもう5年以上も京都で一人暮らしを送っているが食事面でのサポートをヘルパーからもらえたら良いと思っている。さて、どうなることやら。僕は懶惰とは真逆だ、僕は行動派である。

 

 僕の身長は何センチでも構わない。170以上はあるしデカイデカイと言われる。のっぽなんて言われた事もあるし、実際自分が超長身だと言われたり超長身に見えたりしている時もある。肉体的にはコンプレックスを抱く必要はない。身長に固執する必要もないだろう。しかしたまにめっちゃ低く見えたりもする。まあそれは鏡やガラスが十分に現実を反映するものではない、一番よく見えた自分が本当の僕だと思っていれば良い。気が滅入って何の努力も身だしなみもしないようになるのは駄目だ。

 

 僕は今後はもう少し簡潔明瞭な文体で発信を続けていこうかと思っている。谷崎潤一郎も色々自分の文体を変えていったという。やはり難解な言辞、難解な言い回し、そして他の追随を許さない、他を圧倒するような知識への言及は控えるようにしないといけない。

 

 僕だって成功を掴みたい。その為に恋愛を度外視して生きたりしていた。あの頃はそれで良かった。今の僕は既に自分の全力を総動員して様々な功績を成し遂げた。それは多分僕にしか分からない達成感となっているだろう。

 

 このパソコンも復活した。これからは以前よりも大切にパソコンを扱おうと思う。修理代が4万以上もした。かなりの高額である。日々危急存亡の僕には痛い出費である。

 

 今の僕はもう学生ではない。学生に戻りたいとも思わない。社会人として生きる事が出来て僕は幸せである。僕の病状も幻聴や妄想はあるし、満身創痍で落ち込む、意気阻喪する事も少なくはないがそれでも何とか生きる事が出来ている。いつか僕の隣に僕の恋人がいて、家庭があって、温かい広がりで社会貢献をする事、それが出来たら良いなと思う。

 

 もう僕は以前のように空理空論を自己顕示的に公表したりはしない。僕は謙虚さというものを少しばかり得たのではないかと思う。それでもまだまだ目障りで白眼視されるようなところも多いが。しかし僕は本当にこれまで濃密な時間を過ごしてきた。色々な事があった。乾坤一擲の試みの怒涛。誰にも認められず、歔欷したり、慟哭したりすることも多いがそれでも僕は全力で、猪突猛進、獅子奮迅に生きてきた。絶望の表情でこの世を死んだように生きている若者も多い事だろう。僕は彼らに生きる活力を与えられないものかと日夜考えている。自分の道化師、三下としての役割を徹していく事が今の僕に与えられた使命なのではないかと思う。しかし僕自身も中々危うい存在である。統合失調症は治っていないし、様々な助力がないと生きていけない。どうしたものか。

 

 どうして良いか分からないが僕はただひたすら動いている。それは迷走か、はたまた日進月歩か。僕はこの2024年を生ききりたいと思う。どうしても僕は生きないといけない。僕の味方は大量にいる。さて、今回はこれにて擱筆。