僕は今、マイペースに生きるという事について真摯に考えている。この病気になって、学歴社会においては凋落した僕だがまだ僕は自分の人生に希望を感じている。昔どこかの学者が「私は希望を持ち続ける事を辞めない」といった文言を残したらしい。その心境はまさしく僕の今の心境と合致している。そういえばツイッターの職員が日本人のツイートを米国人も見られるようにするという提案をしたらしい。イーロンマスクもそれについて快諾とまではいかずとも同調の対応を示した。もしかしたら江戸時代から続く日本独自の英知や文明が今後の世界を牽引する動力源となるかも知れない。こう考えるのは短絡的だろうか。日本の江戸時代の和算なんて17世紀の関孝和に代表される日本人によってかなり発展していった。後の社会でも夏目漱石、福沢諭吉などの文化人などが日本の未来の為に必死の形相で改革を推し進めたに違いない。原爆投下後もGHQの先導や資金援助があったとは言え、20世紀にはアメリカ経済を凌駕するという危惧も向けられた事もある。その後日本経済は斜陽化し、問題点も見えてきた。凶悪犯罪、政治家の汚職、ブラック企業、いじめ問題、引きこもり。日本に精通している人間であろうとなかろうとこの辺の事は98年生まれの僕の人生において幾度となく耳にしてきた事だ。しかし僕は日本のポテンシャルを信じている。いくら外圧がかかり、日本人としての大義や士気を落とされていてもその内実では必ず各人にイノベーションを起こせるだけの力を宿している筈だ。そう思えないのは最初から諦めているからだ。もっと多くの若者が何度失敗してもまた七転八倒で何かにチャレンジ出来るだけの秩序やインフラが必要だと僕は考えている。その中で生きるのがマイペースの言葉である。尤も、マイペースというのは人によって千差万別である。その辺りは全員が模索していかなければならないだろう。僕は今就労移行支援を休んでいる。そしてマイペースに、そして堂々と過ごそうと思って生活をしている。自由にネットをしたり、音楽を聴いたり、テレビを見たりしている。しかし資金的には安定しているとはとてもじゃないが言えない。その窮状を解決するのが僕の過去に行った大仕事である。きっと僕の仕事が公に認められれば僕には一生働く必要のない資本が流入するだろう。

 

 僕はネット上の情報発信ではよく躁状態のようになって発信を行っている。そうでもしなければ僕は自由な文章表現が出来ない。その点は了承して欲しい。そしてそれは僕のみならず、もしかしたらネット利用者一般に拡大出来る定理であるかも知れない。僕は明確にその証明を行う事はあえてしない。僕の就労移行支援の職員は早めの就労移行への復帰を僕に提案した。しかし僕はまだ休む時期だと思っている。パニック障害や対人恐怖症、閉所恐怖症、過敏。統合失調症以外にもこのような症状が怒涛に僕を追い詰めようと躍起になっている。まさに激動、騒然としやすい精神構造である。僕は勿論働きたくない。今までも働いても上手く仕事が続かなかった。なにかと理由をつけて退職をしてきた。日常茶飯事においても困難さを抱えている今の僕が働くなんて絶対に無理だ。少なくとも今の僕には無理だ、僕はもう頑張れない。もう戦えない。僕はこれまでに懸命に生きてきた。このブログの読者であればその事は痛烈に理解出来る筈だ。僕の言語は、その漲る血潮と過剰な熱量によって紡ぎだされている。そしてそれは論文という形態を取ったり、創作という形態を取ったり、ネット上での情報発信という形態を取ったりするものの根は同じである。僕にとっては論理ですら下らない。この世の中には論理的な人間が吐いて捨てる程いるが、彼らの大部分は単なる批判好きや保守的な人間である、日本社会においては。日本人が優秀と呼ばれる理由の一つでもあるだろう。論理に強い、一般に秀才と呼ばれる人間が苦心惨憺の努力をして高学歴だの、華々しい目標達成などをし、彼らはいつの間にか自分のそのスタンスが絶対か、或いは最善のものだと錯覚する。彼らは上の立場になれば後輩や弟子にその独り善がりの正義を教える。一進一退で身に着けた奮闘の根源となる思想だ。彼らも、そしてその説得力、説明能力の卓越性から下の立場のものもそうであると確信を持つようになる。いつの間にか巨大な帝国のようなものが出来上がる。一億総中流の、ある意味新進気鋭の社会主義の顕現である。足並みをそろえる事、結託する事、集団を至上のものとする事、自らの安寧秩序の為に出る杭を打つ事、同調しなければ出る杭として打たれる事。無論こうした特徴は大なり小なりどこの国民も有しているものである。過去の僕はあたかもこれらの特徴が日本人のみに顕著に現れていると思い込んでいたがそれは誤りである。とにかくそのようにして構造は維持される。そして歴史はこのような大勢の人間をサンプルに形成されると僕は思う。

 

 しかし最近の日本社会は必ずしも上記のような印象ではない。少子高齢化によって国家の活動元である秀才そのものが力を落としていっている。そして残された秀才ですら日本のオワコン化を感じ取り海外へ行く。そうして頭脳流出が始まる。自分の労働に見合うだけの賃金をもらえない場所に長居していたって仕方がないだろう。そして多くの、推定99パーセント程度の凡人達は外国に関する賛美の精神を植え付けられ、国内の悪環境のみにフォーカスしたデマや情報に支配され、しかしかと言って日本語以外の言語における先入観、不得手さ、人種差別、或いは未知への恐怖心などから内にこもる事を好む。行ったとしても韓国だの台湾だの、東南アジアだの。まあ西洋が歴史の中心だとは言わないし、アジアにも魅力はある。それは分かる。しかし、言語化出来ないが日本という国家に関する懸念は僕の身ならず大勢の脳髄に定着している。しかしそのような事を考えても実際に行動できるのはかなり稀有である。

 

 僕は社会学的な話は好きではないし、得意でもない。しかし他にあまりネタがない。正直僕の情報発信は全盛期を過ぎており、ネタや情熱が著しく欠乏している。まあそれでも続けるが。何も全盛期を過ぎたのは情報発信だけではない。研究や創作、人間関係においても同様である。そのような人間が175㎝以上の長身美人との邂逅と逢瀬を望んでいるんだから自分で言うのも何だがかなり滑稽である。

 

 マイペースに生きるとは僕にとって言うのは簡単だが行うのは難しい。僕はいつも心理的に無理をしてきた。対人恐怖などの諸症状で無理をしないようにあまり刺激的なものには関わらないようにしても、自分の好きな研究や創作においては没頭していた。この没頭の中で僕は無意識の内に無理をしていたのだろう。僕の人生において過半数はやはり無理をしていた。15歳以後なんて勉強を全くしていないにしろ、自分なりに東奔西走していた。自分の熱意を向けられるだけの何かがある事は救いでもある。

 

 僕の自分にとって楽な生き方とは何なのか。僕の就労移行の担当職員は僕に努力をする事を強く推奨している。しかし僕は無神経な彼に苛立ちを募らせている。無茶を言うな。努力が出来ないから休んでいるんだ。また僕の返信を見てそう状態であると判断していた。とんでもない話だ。僕は躁鬱病でも統合失調感情障害でもない。僕の自信は根拠のあるものであり、妄想ではない。それを彼は度外視している。彼は僕の努力の軌跡や、論文や創作を見ていないのだろう、否、見ていたとしても大多数の人間はそれに価値など認められない。しかし僕の努力は必ず報われる。理想的な形となって結実する。

 

 痛みで何も感じられなくなるまで、社会は弱者を搾取し、差別し、迫害する。それは出る杭を打つという人間の行動に近いものだ。人間は無意識の内に出る杭を打ち、英雄や天才を過小評価し、遂にはその萌芽すらも奪う。彼らは僕のような真の天才を懐柔する事が出来ずに更にその出る杭を打とうとする熱量を発揮しようとしている。僕は無論戦えない。しかしこちらからは攻撃をせずに堂々とふるまい、小さなことを気にして精神状態を悪化させないという事は出来る筈だ。僕のネット上の情報発信は認知行動療法も兼ねたものであり、ここも例外ではない。堂々とふるまい、小さな事を気にしない為にはどうすれば良いか、僕は直観として感じ取った気がする。それはトランス状態を利用する事だ。自分にとって安心できる事を心に思い描けば自分の精神は次第に落ち着いていく。その材料の残滓は日頃の生活の中において発見できる筈だ。また他にも思いついた事がある。それは雑魚どもを雑魚だと認める事である。いつまでも、見境なく全員を聖人君子だと思うから傷つくのだ。要するに僕は勝手な人間像という理想を壊されて精神を病む。そして同じ人間である自分自身にも嫌気が差し、自殺衝動、デストルドーに犯される事になっているのだ。自分が特別だと思って何が悪いのだ。僕は臨床心理士からも公式にギフテッドだとお墨付きがある。無論優性思想によって他者を人権蹂躙するのは悪だが、心の中でそういう事を思っているのは寸毫も悪い話じゃない。それに見合うだけのものを僕は既に手にしているのだから。

 

 死にたい。そう考える若者がいる事自体は何ら特殊な事ではない。日本社会の先行きの不安や絶望。若者はそういった空気を繊細な感受性で機敏に感じ、そして死にたくなっている。大体自殺が必ずしも悪いものかどうか、倫理的にこの問題について何人の人が明確かつ、完璧な証明を行っている?確かに残された者の悲しみを考えれば自殺が良いものではないと感じるのは妥当である。しかしその内奥には感情が点在しているのではないか。僕は刹那的にそうも考える。

 

 僕の最近の記事は少し無理やり更新している感が否めない。けれども僕はこうしてキーボードをたたいて文章をひねり出し、読者諸氏に何かを訴えようとしているという気持ちには嘘はない。この玉石混合の世の中でむしろ僕のようなピュアで美しい者は貴重だろう。またこれから社会が僕のような存在を大切にしだすだろう。様々な問題が山積している中、僕のような天才の閃光が社会にとって少しでも有益な方向に応用、発展されれば僕は幸甚である、恐悦至極である。まだ僕は強く人生を生きられるだけの力はない。しかしそれは涵養していけば良いのだ。それにどれくらいの期間を要するかは分からない。僕は何度も何度も発狂してきた。そしてもはや強く生きるだけの力、駆動力は失われ、今後の人生も予断を許さない状況である。優勝劣敗、この言葉ほど僕が蛇蝎の如く嫌忌している言葉はない。僕はここまで猛者になったとは言え、まだ不遇の時代や不幸を回顧して煩悶し、自らに完全な価値を認められずにいる。もし周囲の人々が僕を激賞すればそれも少しは変わるかも知れないが。

 

 僕は15歳以前のように友達と乱痴気騒ぎをして、腹がよじれるような体験を出来ずにいる。そもそも僕は全体的に神経が過敏になっており、あまり賑やかすぎる場所にいる事は出来ない。だからこそ無意識の内に対人恐怖的な要素が僕に働きかけ、孤立させようとしている。しかし孤立しても今度は人が恋しくて寂寞感に苛まれ、気が滅入る。僕の神経は僕の天才的な頭脳とは反してそれ程精密に働くものではないらしい。まあ天才というものは万能型は珍しく、いくつかの分野に秀でていてもどこかの分野が人並みという事が往々にして散見されるらしい。僕は学校教育の枠にはまらない人間であったし、統合失調症の介入によってその性質は一際決定的なものになった。

 

 年齢とともに出来なくなる事はあるものだ。僕にとってそれは統合失調症を筆頭とする精神的障害に起因するものではあったが、健常者であっても急遽痴呆症になったり、がんになったり、不慮の事故で四肢損壊したりすることもある。これらは全人類にとっての危急存亡の問題でもあるのだが。

 

 統合失調症、この病との関係で今まで死屍累々の犠牲者がいた。或いは僕もまたその一群に加わるものなのかも知れない。さっきの秀才のケースと若干共通するかも知れないが僕達統合失調症当事者はもっと声高に、図太く、時には居丈高にその経験や教訓、倫理、理論、信条、人生を社会に対し訴えていかなければならない。これは老若男女問わずだ。僕のような若者がそれを先導して行っていかなければならない。出る杭となっても、非国民と呼ばれても。僕達は自分の力で、時には他者の記憶や力を頼りに己を絶えず鼓舞していかねばならぬ。

 

赤川凌我|note