私は今日午前中に二日分の買い物をしに行った。いつもの百円ローソンだ。最近私は学問の論文をかけていない。スランプのようなものだろうか。躁状態の時は雑多な思索が濁流のように脳内で氾濫するので書けるのだが今は無理だ。私はこうやってブログを書いているが毎日書く意味も特段見出せない。しかしアウトプットという点においては知的活動に一役を買っているとの解釈もある。まあいい。暇だからやるだけだ。コロナ時代で、それもゴールデンウィーク中の休日において出来る事と言えば読書かネットサーフィンだろうか。

 そういえば和歌山県紀伊田辺駅付近の精神科クリニックの医者に大学の入学祝いで貰った本、「ヘーゲル 大人のなりかた」は完成度の高い本だ。最近読み直してヘーゲルの主要な考えを簡潔明瞭に示唆されているし。凡庸な論文の如き如才が感じられなかった。非常に素晴らしい構造をしており社会について、神について、格率について、啓蒙について、そして一般的に取り沙汰される道徳について記載されていた。これはアリストテレスの書いた「ニコマコス倫理学」でも書いてあった部位だ。ニコマコス倫理学の場合は、アレテ―、善、厳密性、快楽について顕著に書かれてあったが、古代の道徳規範も盲然と書かれてあった。

 ニコマコス倫理学は、古代ギリシャにおいてアリストテレスの講義の下書きらしい。ソクラテスの弟子がプラトン、プラトンの弟子がアリストテレスという塩梅だ。ニコマコス倫理学は現在第3章まで講義で解説されてある。けだし、教員の言辞によるとこうだ。一章は物事の目的が階層構造になっている事、第二章は最も善なる職業は政治学であるという事、第三章は厳密性はどの学問でも同様ではないこと、そして二点目が若者は情動で動くので学問をするには値しないとの事である。

 最近は大学の卒論でフロイトについてフィールドワークをしてフロイトの理論を踏襲した独創的な論文を書くつもりだ。私はここや前のブログで掲載したフレーム理論を更に深淵にしていって完成させるつもりだ。その論文が私の哲学について完結した論文とするつもりだ。ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」のように。

 私は高校時代、前述した如く田辺駅付近のクリニックの医者に「息子さんは能力が高いから絶対大学行った方が良い」と母親に言及したらしい。私はこれまで知的な、かつ先駆的かつ独創的な論文を幾つか作成した。無論講義でも論文は書いたがそれについては大した熱量がなく、成績も関心のあるもの以外はそれほど得意だとは言えない。しかし大学に進学した事で知的な業績を幾ばくが完遂出来たのでまたそれで一躍世間から注目を浴びるかも知れない。大学は所謂中堅大学らしい。ゼミにはまあマシかなと思うような学生もいる。しかし私と会話の合う相手は一人としていない。これは私の知的早熟さゆえだろう。