殺人者

赤川 凌我

1.点火

私は最近、高校時代から贔屓にしていたブラックサバスやピンクフロイド、ビートルズばかり聴いている。どれも曲の構成が素晴らしい刺激的で「芸術」と銘打つに値する音楽だが、如何せんクラシックなので趣味の合う者はネット上以外に存在しているのをついぞ眼前に捕捉した事がない。他に聴くのも「絶対に聴いたことがある」、洋楽の名曲ばかりで自ら新たな境地を開拓しようという精神に乏しく、自分の習慣化した思考のレパートリーも大部分は著名な漫画や、著名な書物、そしてインターネット上の掲示板などで養育したものばかりで我ながら自らの小市民ぶりに辟易してしまう。こんな私は文明的な物の一切を頑なに拒む、時代錯誤的な捻くれた若者の成員であり、原動力が前時代的な発想の産物である事から他者の言辞から暗喩で蒸気駆動の機械と名状されていても何ら不自然ではない程である。そうだ、私は蒸気駆動の機械のようなものだ。しかし私はそれを寧ろ誇示する程の気概に満ち満ちている。

 さて、私はK大学の二回生で、現在試験期間中である。試験期間が開始して昨今は間もない。のみならず私は私の母親と電話する機会にも恩恵を享受出来ていない。昨日も母親と電話をするようラインで約束をしていたのだが、ギリギリまで母親を牽制した挙句、最終的には就寝してしまった。今日の朝になって携帯を弄ってみると何と昨日の晩には母親からの電話が来ていたようだ。非常に自らのバイオリズムの憂き目を見たと言及するに難くない。私は現在精神障害者専用のグループホームで過ごしている。私はその事に慢性的にほとほと嫌気を感じていた。そしてそれを感じる都度、あるケースワーカーに相談するのだがいつも一人暮らしをするのを却下されてしまう。一人暮らしに金銭的な問題が絡むのも分かるが、私はグループホームに生理的嫌悪感を覚える程苦手な男がいる。彼は辞意分が嫌われているという事に愚鈍なのか昨日も一昨日も私の部屋の前まで来て「赤川君いるかー」と何度もしつこく嫌がらせをしてきた。私は彼と同じ住居に住む事に甚だ遺憾である。私は障害者然とした彼が極めて煩わしく思える。そうかと言って彼が私より年配な事も併せて完全にシャットアウトしたくても出来ない。ある程度あの低知能と意思疎通を交わさねばならない事が非常に億劫である。

 私は精神障害を罹患してもう五年程になる。長い闘病生活の末、現在は地獄のようなグループホームなどという施設で暮らしている。家賃は六万円、そこに水道代や電気代も加算される。下手すれば殆どの下宿費用より高くつくという案配である。

 そして春休みは刻一刻と接近し、私は一通りの試験期間をおそらく進級は可能だろうと推断できる八分の自信と二分の留年の対する恐怖が私の脳裏をもたげつつ何とか経過し、大学は春休み期間に突入した。が、内心私はこの心身成長の過渡期において並大抵ではない程の際限のない不安を抱いていた。何に対して?自分自身の労働の問題に対して、乃至はグループホームとの住居移動の話し合いの、スタッフが反駁してくる筈であろう一連の想定できる言辞について、乃至は大学生活の不確定要素について。どうしたものか、私は地元の図書館と携帯及びパソコンでのネットサーフィンで時間を潰しているのであった。この春休み期間における静寂が私に物狂おしい程の寂寥感と倦怠感を抱かせるのに相違ない、十分な禍根となっている事は否めないのであった。私は今日も魑魅魍魎たる神経の世界の中で夜が更け、そしてルーティンのようにベッドで眠りにつくのであった。

 12月から3月上旬までは私の経験則で天気は三寒四温の気温変化を例外なく展開していく事は承知の上だった。そしてこの世界は私にも特赦することなく生きとし生けるもの全てに罰が均一に襲撃する自然の摂理である様相なのもまた承知の上だった。私は偉大な学者になるために勉強や読書で私自身の知的水準を向上させる事を目下に邁進していたが、現在は注意力散漫によって知的活動に滞りが生じている事は否応なしに認めざるを得ないのが私の現在での醜怪な現実であった。私は私自身の責任からそれらを概して受け入れる事に徹していた。私は過去に人間として冥利に尽きる程の激賞を送られたのも間違いなく事実であったが、華々しいまでに太陽の如き輝きを保っていた自分がここまで非生産的な存在になる程の凋落に見舞われる心持もただぼんやりとした絶望が支配的になっていると言及しても過言ではなかったのだ。

 そしてまた時は経過し、私は23歳になった。私は自らの抱える障害から止むを得ず職安に行って、ストレスの少ない職場を紹介され、私は寮生活が付随する関東のチョコレート工場で就職した。私は主に飲酒などの遊蕩に耽ることなく勤務を単調にこなしていった。しかし相部屋のチビの眼鏡男が私の癪にさわっていた。彼は私をIQ70程度の低能だと私に対して発言し、のみならず私を不幸な目に会わせようと私に対する罵詈雑言を職場に関連する民衆に吹聴していた。

私は身長が178㎝あったので彼のような低俗な様々な意味で小さい男は無視するに限ると思い、野放図にしていたのだが、2023年の六月十七日に部屋に居座りパソコンでネットをしていた私の頭を叩いてきた。その刹那、私の中の何かが爆ぜた。私は机にあったトンカチを彼の頭蓋に向けて思い切り殴打した。何度も、何度も、良い運動をしているかのような気分で、かつ自らのカタルシスを優先するように気が済むまで殴打し続けた。ふと我に返ると私の顔面には血がかかり、ベッドの上で彼は頭部から血を流し、血の海を作り、だらりと四肢を放置して傍目からも彼が死亡しているのは自明の理であった。一応脈も確認していた、鼓動は感じられなかった。彼は間違いなく死んでいた。机の上にウェットティッシュがあったので顔や腕に飛散した血潮を私は払拭した。そして血の付いた服を何処かに捨てるため服を着替え、大きなポリ袋に入れた。凶器もそのポリ袋に入れた。私は他の私が彼を殺した証拠を隠滅するため、少し寮を出て、大きめのスーツケースを買った。そこに彼の死体を入れ、寮からさほど遠方ではない海岸沿いのテドラポッドの隙間に投棄した。無論一連の証拠隠滅の際に、私の指紋が残らないように私は手袋をしていた。丁度その日は職場が休暇の日であったので、私は他の証拠を山中に埋めた。私はその後、チョコレート工場の仕事を辞め、遠い県、北海道に移住し、そこで行き当たりばったりの職に就くこととなった。件の彼は行方不明とされた。警察も私に聞き込みに来たが私はあくまでシラを切り続けた。証拠がなければ私を捕縛する事も出来ないだろうとの慢心が私の胸中にあった事は否めなかった。そして私は北海道の私のアパートに訪問した警察官に表面上は協力的な態度を取っていた。警察も私を容疑者にしていたようだが、結果として証拠は見つからなかった。当然だ、例のテドラポッドのスーツケースも最終的に人里離れた山中に埋めたからだ。そして私はその移動の際に絶景のサンセットを見物しながら海原に向かって咆哮していた。加えて私は自らを省察しても殊に殺人に責任を感じる理由が見当たらなかったので私は北海道で新生活を心機一転し、始めていった。私は太平無事に過ごそうというかねがね抱いていた夢を実現する為に生きようと思っていた。

2.発射

 私が北海道で過ごし始めて、はや二年が経過した。私はこの地でシステムエンジニアとして労働を開始した。昔高専という工学関係について勉強する高偏差値の学校に通っていた時にほとほと苦手だった。電気情報工学のプログラムが皮相にも私の生業となるとは私は予想さえしていなかった。当時は私の友人を巻き込んで高専に入学させた挙句、自分が工学に適性が無いと推量し、学校を退学し、新たな全日制の公立高校に再入学したものだ。私は二回目の高等教育機関での一年生という事で知的焦燥感を終始抱いていた。途中で不眠と諸事情での葛藤があった為、精神病のような諸症状を発露させてからは恋愛も勉強も部活も悉く芳しさを喪失し、文字通り地獄のような様相の時代だったのが私の高校時代であった。閑話休題だが少なからずプログラミングに対し暗雲が立ち込めていたのだが私のシステムエンジニアとして就職が出来たのは私の苦手意識が時間の経過によって次第に希薄化し、クリアな頭脳でプログラミングの諸技術を矢継ぎ早にマスター出来たからだ。しかし意外な分野で就職出来たのは良いが最近20代前半の頃に夢想していた専業の小説家になるという事にも熱量を帯びてきて何度も文学賞に応募し始めた。自分の小説が売れるかどうかは度外視して自分の物語を(とは言っても執筆したのは私小説に限定したのではないのだが)執筆するのは快調な出力のお膳立てとなる故に現実生活における言語性知的能力の練習となっていていずれにせよ良い習慣となっていた。私は自らの作品が箸にも棒にも掛からぬ駄作群である事は自認していた。太宰治賞にも芥川賞にも直木賞にも悉く落選していたし、学校教育に立ち返ってフィードバックしてみると自分が作家としてデビューするのが困難を極めるだろうというのも小説を執筆する以前から想定していた。従って小説家になろうとする事は堆く積もった自らの自尊心の残滓に過ぎない事も了解した上で執筆活動を継続させていた。つまり自分の立ち位置をしっかり捕捉して上での活動の一環であった。ところで私は最近中学時代以来の男性の旧友と再会を果たし、一週間に一回程、北海道の焼き肉屋で食事をしたり飲み屋で酒を飲んだりしていた。旧友は大学を卒業してから北海道で社長業をしているようで細々と仕事をしている私とは比較にはならない程の年収を稼いでいた。因みに彼は結婚もしていた。恋愛には元来縁のない私には彼が全くの次元の違う存在に感じている。私は殺人をしたり、学校の成績が思うようにいかなかった事の過去の苦い経験の余波が現在にまで尾を引いているように感じられた。「上手くいってる?」私はこのように彼に問うた事が頻繁にあった。彼は微細な営業の実情を私に語ったりしたがそれらは概ね気分上々の陳述であった。そして他愛もない世間話やナンセンスな冗談をある時を境に一週間に一回会っては無限順列の如く繰り返していた。そして無鉄砲な事だが私は自分のバンド、ザ・ソルロスのセカンドアルバム、「Progressive Twist」をスタジオで録音し、自費でCDにして売り出していた。それは曲数が五曲のコンセプトアルバムであった。身も蓋もない話だが私にはアーティストとして活躍したいという夢もあった。これも現実に対し妥協する態度で挑戦していた。

 日々を生活していく中で私は一度目の殺人をしたことなどすっかり忘却していた。そして私の人生に対する厭世的な知見も忽ち消え去っていた。また私は最近になって自らの身長についてのコンプレックスも忽然と消失させる事に自ずと成功していた。また私の知的パフォーマンスも病前以上に発達を遂げていた。それも社会に揉まれた中で知能、IQが鍛えられたのだろう。

 そしてある日の事であった。私は路上を闊歩していた、かつヒッチハイクをしていたらしい青年をショッピングモール付近で見かけて、声をかけた。因みに私の車はフォルクスワーゲンであった。「どうしたんだい?兄さん、何か困りごとかい?」

「ああ、僕はライブの帰りで帰りの電車の切符を買う金がなくなっていたんだ。良ければおじさんの車で家まで送って行ってくれないかな?」

「良いよ、乗せていってあげる。助手席に乗りな」

「よかった!ありがとう!今日はツイてるぜ!」

そう言うと彼は私の車の助手席に乗った。私は彼と親睦を深める為に適当に彼に言辞を投げかけた。

「兄さんは何のライブの帰りなんだい?」

「トム・モレロのいかしたヘヴィメタルさ!もうアドレナリンが湧き出て最高の時間だったよ!」

「ヘヴィメタル?私もヘヴィメタル好きなんだよ!ブラックサバスが高校の時分から大好きで愛聴しているんだ。ブラックサバスと言うと1970年代のイギリスを代表するレジェンドバンドさ!ところで兄さん、名前は?」

「龍之介!おじさんは?」

「良哉って言うのだよ、よろしく、龍之介」

「ああ、よろしく!ところでヘヴィメタル好きなんなら、CDとか持ってる?もし持ってたら車内で流してよ!」

「オッケー、ところで龍之介の自宅はどこ?」続けざまに私はCDを見つけて車で流した。

「札幌さ!」

「良かったらうちに泊まってく?龍之介は明日仕事あるの?もし差支えなければ私のうちで酒でも飲みながらヘヴィメタルを流しながら話でもしようよ!兄さんとは仲良くなれそうな気がするんだ」

「良いの?ならお邪魔させてもらおうかな。僕は酒飲みながら音楽聴くのも好きなんだ!」

そして程なくして私達は私の自宅に逢着した。私は彼からの侮蔑を感じなかったので半ば嬉々として私は彼を私の家の居間に案内した。私たちは自らの身の上話や趣味についての話をしながら酒を飲み、音楽を聴いていた。私はあくまで話の本筋に沿ったつもりで音楽CDを二枚リリースしていることを打ち明けた。

「おじさんの音楽聴かせてよ」と彼が言ったので私はCDプレイヤーにCDをセットして聴かせたギターとキーボードメインで作った私の音楽が彼の嗜好に合致するかは別として私は彼に私のCDを聴かせた。そして一通り音楽が終わった後、彼は円らな瞳をキラキラ輝かせながら、「これすごいよ!僕はここまで新しい音楽はついぞ聴いたことないよ!もっと大々的にマーケティングすればおじさんは偉人になれるよ!そうだ、僕はドラムとベースが出来るからおじさんと新しいアルバム作りたいんだけど、どう?」

「そうか?そりゃよかった。実は私はバンドメンバーが実質私だけだから寂しかったんだよ、ぜひ君にソルロスのメンバーになってほしい。歓迎するよ!」

「なら決まりだね!いやー、こんなところに思わぬビジネスチャンスがあろうとは!この出会いを神々に感謝しないと!まあ僕は無神論者だけどね!」それから私達はお互いの給料を削って、創作活動に勤しみ、音楽アルバムをリリースした。タイトルは私の案で「Supernatural Suite」とした。これが忽ち海外及び国内で注目され、ビルボードにビートルズ並みの大ヒットを記録した。そしてこれを境に私の才能は開花を開始したのである。高校時代、私のクラスの担任だった教師が私に「大学に行ったら、才能が開花すると思う」と言っていたが、大学在学中ではなく、大学卒業後に開花するとは想像しなかった。これが私にとっての私自身の人生及び人格の革命、銃の点火の後の弾丸発射部分である事を意味していた。

3.射撃後の銃

 私は成功した、のみならず高校時代や中学時代の同期達からも荒唐無稽かのように私に注目しだした。私は彼らの大部分は取るに足らないと考えていたので徹頭徹尾無視していたが、不思議と精神疾患が私の中で支配的になっていた過去と違って幾分か感慨深い優越感のようなものを感じていた。そして反面、常識的に考えれば売名目的で寄ってくる連中や金目当ての連中を悉く忌み嫌うような心境に私は陥った。そして私は殺人者であるにも関わらず、私自身の犯行を完全犯罪としたことに思うところを述べる事が出来た私自身の境遇に高らかな満足感を感じていた。また、私が出版社に提出した精神医学と数学及び物理学についての論文や小説がノーベル賞候補と目されるようになった。余りにも革命的な理論であった為にノーベル医学賞、ノーベル物理学賞、ノーベル文学賞の史上三連続受賞だと持て囃されるまでとなった。また、音楽の方面でもローリングストーン誌において史上最も偉大なミュージシャンとされ、また世に送ったシュールリアリズム的絵画やキュビズム的絵画を含蓄した私の個展も東京都で開催されたりした。そしてある日私はなかんずく私を虐げていた高専時代の低身長のクラスメートに東京で個展を開催した時に再会した。彼は「おい赤川、お前高専辞めた癖に今はこんなに成功してむかつくんぢゃ」と言った。私は過去においても現在においても彼のことは取るに足らないと思っていたので「あんた誰?」と故意に知らないふりをした返答した。

「伊藤だ」

「知らないな、まあとりあえずグッドバイ」

そして既に灰塵と化した過去の暗黒時代は私の目前に余りにも無様に横たわっていたことを私は確証したのだった。