偉大なる文明(ぶんめい)

                 赤川 凌我(あかがわ りょうが)

                 畢竟、佐川文明(さがわ ふみあき)は泥沼化した悪夢における英雄であった。厳密に言及するならば障碍者階級の英雄と呼ぶに相応しい男であった。

                 佐川文明の背丈は176cmで、顔面は端正な25歳の青年であった。彼は中堅大学を卒業した後、東京の有名大学の大学院に進学し、精神疾患の不利益を十分に被りつつ、アルバイトと修士課程の勉強を並行して取り組んでいた。

                 そんな佐川にも考人がいた。名前は聖友理奈(ひじり ゆりな)野暮な話だが、彼がナンパしてできた恋人であった。実は彼がナンパした時には彼女についての井戸端会議系の幻聴で佐川は情報の恩恵に恵まれていた。いや、幻聴じゃなかったのやも知れぬ。彼女の背丈は彼好みで小規模の図書館で堆い書棚よりも頭一つ分高かった。彼は兼ねてから知り合いや兄弟に臆面もなく自分の女性における歪曲した形のマザーコンプレックス、いや、ウォメンコンプレックスとでも換言すべきものを吹聴していた。それは彼の顕著露呈された精神状態の一種であるらしい。これには我々第三者から見れば彼の反省を入念に調べたデータから鑑みるに小柄な姉妹に対する反発感が尾を引いた結果だとも分析できるのである。我々の所感としてはひとえに彼は知能が早熟とは言え、若さを謳歌しているとも捉えたのである。彼は先程言辞を弄したように中堅大学を卒業するまで友人や恋人の一人にも碌に恩恵を受けず、一匹狼を甘受していた次第である。精神疾患を罹患しては往々にして並外れた孤独感や知的な淀みに彼は直面していたこともあった。さしあたり彼は弱者という枠組み内の成員であると判断するに我々は吝かではない。

                 またかれは20歳ごろから小説の執筆を彼のキャパシティでやれる範囲に限りやっていた。ピンクフロイドの曲、主に「アトム・ハート・マザー」や「シャイン・オン・ユー・クレイジー・ダイヤモンド」、「エコーズ」等、高校の自分から愛聴していた曲を聴きつつ、物見遊山でもするかの如き気分で執筆していた。目下専業作家になる為の彼の努力の一環としての執筆活動だったが、悉く彼の、出版社に相対し、応募する作品は短編小説ばかりであった。これは彼の持久力の欠如が原因となった一つの傾向に換算できる。さて、彼の生活やら半生やらを倒錯者めいた目で、誇張して言えば、慧眼で、まあともかく覗いて見ようという次第である。

                 「よう、佐川。研究の調子はどうだ?序ながら聞くがお前の美人モデルとの近況はどうだよ?」突如として佐川のデスクに知り合い以上友達未満の童顔を持つ安田実(やすだ みのる)が躍り出た。佐川は「お前の質問がざっくりしている節があるのは否めないが研究なら順調だよ。ヴィトゲンシュタインの主張を更に応用してみた画期的とも言える論文も出来た。友理奈の事は、まあ一緒にスタバで会話をしたり、ショッピングモールで買い物を楽しんだりしたよ」と佐川は応答した。更に次句を言った。「後、昨今の彼女はモデルを既に退職している。今は弁護士になる夢を追求する一介の司法試験受験者だ」と彼は補足した。「ちぇっ、上手くやりやがって、地獄に堕ちろ!」

「ははは。えらく辛辣だな。大丈夫だよ、お前も幸福になれるさ」

「ロールズのくじ引きに関する正義論の言説にも今は頷けるよ。寸分違わず彼の主張を追えるよ!畜生!」

佐川はそれでも実の罵詈雑言の過剰でない事に幾ばくか安堵していた。男には気性の粗野なパーソナリティを持つ人間が女性と比較すると存在確率が高い。これは経験則である。或いはステレオタイプかも知れぬ。現に佐川の父親の博文もそうだった。一人の精神疾患者、俗に言う所のメンヘラとして雑事に関して佐川は過敏であるから、軍事的な、或いは体育会系の人物に鉢合わせしない自身の幸運に佐川はほとほと感謝していた。

                 そして長い時は経過して五年後、彼は彫心鏤骨の作品群を量産する人気作家となっていた。また学位取得に関しても余念がなく彼は博士号を既に取得していた。そして彼の論文はダーウィンの「種の起源」やニュートンの「プリンキピア」、アインシュタインの二つの相対性理論に比肩する程の学問においてパラダイムシフトを起こした画期的な論文との評価を著名な学者陣から受けていた。無論提出した全ての論文でそういった扱いを受けた訳ではないが。また彼は古色蒼然とした体制に対する一人の反逆者としての立場、世代のアイコンとしての立場を徐々に確率した。遊び半分で彼の自宅を来訪する者達も後を絶たなかった。のみならず彼は新聞社からの取材を頻繁に受諾するような様相を呈することもあった。また日本障碍者支援協会からの激賞も受けた。だから、要するに彼は時代において象徴的な存在意義を維持するようになったのだ。それから音楽アルバム「ザ・ガバメントー心の政府」をレコーディングし、発売するとそれも商業的に成功した。製作したアルバムは世間の音楽業界における風潮の例に洩れず、コンセプトアルバムだった佐川は自分の音楽アルバムをピンクフロイドの「狂気」、現代は「ザ・ダークサイド・オブ・ザ・ムーン」に勝るアルバムにしようと目論んでいた。そしてその目論見は見事成就したのだから驚愕である。

                 殊に彼は同年代の人間達の中で絶えず閃光のような輝きを持ち、他者を魅了する明星として大成したのであった。彼は成功した、客観的に見ても、間主観的に見ても文句なしの偉人になった。そして彼は恋人の友理奈と結婚をして子宝にも恵まれた。時代の寵児はますます仕事に打ち込みめきめきと頭角を現すようになった。我々は彼が大物であるとの知見を深刻にせざるを得ない。しかし彼は満足してはいなかった。彼は神が不在である現代において殊更に真理を追求しようとする意志がきわめて高く、自らの栄誉をひしと誇りに感じつつ、もう一つのより大局的な基準で文明的か、そうでないかで自らの業績を分別していた。

                 彼は激甚の苦痛に満ちた彼の高校時代の追憶も少しずつしないようになっていた。彼の中の世間の判断基準と彼の判断基準のダブルスタンダードで彼は物事を思索するようにいつの間にか彼の中で変化が勃発していたというのが彼の心の中の詳細な実情であった。しかし彼には時代を牽引する資格などないと自身を捉えていた。自分が時代の寵児だと仮定すると彼は名状し難い歯痒さに襲われ、胃がよじれるような感覚にも苛まれた。艱難辛苦の時代には終止符がうたれたのに、幸福だからこその不安も彼は感じていた。

                 我々は割愛すべき箇所は割愛して来たつもりだったがそうして省いてきたものが多量に及んだ。その点において我々は十分に仕事を顧慮し省察せねばならないだろう。極めて個人的なこの記録を我々は余りにも煩雑に扱いすぎた。おっと何故だか我々の統合頭脳機構に何かが侵入してくる感覚を覚えた。我々は、いや、私、佐川文明は今まで語り手だった諜報機関の中枢機構における思考をジャックした。これで私に関する記録も主観的だが、恣意的に扱えるようになった。

                 何故私が語り手連中の思考をジャックできたか、それは私がとある日、超能力を対人関係の幾つかの事柄について話者が話す講演会で知り合った、中年の男性に力を貸与してもらったからである。そしてこれからの物語の語り手は以後私、佐川文明という事になる。

                 私は院生であった時分、幾度となく実と会話をした。実は彼も哲学専攻で私としょっちゅう哲学的な議論をした懇意な仲であった。私に友理奈という恋人が出来て、程なくして実も奈々子という彼女をつくっていた。私には彼の前途が順風満帆なものに思えた。私は15歳から21歳までの6年間は友人や母親や母方の祖母に依存していた時期であったが、25歳にもなるとその気概も些か衰弱の小径を辿った。これは私にとって歓喜に満ちた気分になる変化であった。私は母親から再三再四にわたって依存は駄目だとする言辞とサボタージュは駄目だという言辞を23歳くらいまで甘受していた。母親は大人としての私と母親の関係を確立させようと躍起になった。そうでないと母親の死後、私が荒唐無稽で惨憺たる人生の様相を呈するかも知れないという危惧ならびに懸念があったようだ。彼女の人生観と私の人生観には大幅な齟齬があった。しかし私は母を今でも愛している。無論、性的な意味ではなく。

                 ところで超能力については講演会で知り合った中年男性との握手で私にそれが寄与されたと知ったのは講演会が終了して私が自宅に帰着してからである。彼とはラインを交換しており、そこでの彼との会話で知った。私が最初に体得したのはテレパシーであった。友理奈に「会いたい」とテレパシーを送信すればタイミングよくラインで彼女からの通知が来た。この時点では偶然ともとれるが、友理奈は「不意に文明の声で会いたいって言葉が鮮明に聞こえたから連絡したのだよ」との発話を聞いて、私には新たな能力が備わったのだと確信した。

                 私は院生の期間中には高校時代からの名残で60年代から80年代の洋楽を耳にタコができる程愛聴した。殊に私の魂のバンドはビートルズ、ブラックサバス、」ピンクフロイドであった。この嗜好は大学生になる前から依然として形状を変遷せずにいた。そして私と友理奈の音楽の趣味嗜好には相違があったので私は彼女との音楽に関連した意思疎通では徹頭徹尾聞き役に回っていた。そして自意識過剰だが、私は彼女が私の一挙手一投足に意識を向けているのだと感じることさえ稀ではなかった。無論最初に邂逅した時分からである。しかしその認識は甘かった。友理奈は誰に対してもそういった態度を取っていたのだ。人気者の彼女の事だ、それが、彼女が彼女らしく生きていくハウトゥーなのだろう。

                 ところで私のディスカッションやらディベートやらには非常に綿密に、かつ用意周到にしないと碌に発言出来なかった。稀に周囲の人間を啓蒙する為に核心に近い事を減給する事に神経を使って持ち前のナイーブで自閉的な性格から直接的に核心に言及することはなかった。仮に私が核心だと捕捉している事が誤りだと思うと糾弾めいた事をされるのではないかという畏怖や戦慄を常々私は感じていた。とどのつまり私はマイナスのフィードバックを想像し、躊躇していたのだ。のみならず私は自分の主張が必ずしも鋭敏ではない事も理解していたので自らの体面を考慮せず盲滅法に発言し、その状況に安住する事をよしとしなかった。

                 しかし私は賢しい書物を読み漁り、それを参考にしつつ論文を書き、査読を通過し、その論文が様々な人々から激賞されるようになった。主に三つの画期的な数学、物理学、哲学、精神医学の論文についてである。私はそれから世間から天才の名をほしいままにした。私には困難が大挙して押し寄せる事もあったが、反対に人間的な温かみも受動することもあった、共同体で劣等感を感じやるせない思いをすることもあった、そういった紆余曲折を経てなんとか私は博士号を取り、大学教授のポストを狙える身分に私はなった。

                 私は当面、就職活動期に入らざるを得なかった。実は「後生だから良い企業に就職させてください!」と言い及んでいた。彼は博士号を取らなかったのだ。序ながら捕捉すると彼は私が博士号を取る前に院を出た。修士号は取ったらしい。私は哲学界での成功を夢想していたが現実はシビアなものだった。剣呑な療養生活との付き合いも甚だ長期に及んで継続していた。自分より知的水準の高そうな人間も膨大に見てきた私はいつの間にか傲慢になることはなくなった。その理由は却って惨めな気分になるからだ。

                 私は一時期、精神疾患であるに相違ないと判断せしめる程の孤独感や不安感、被害妄想からの襲撃を受け、精神病棟で入院生活を経た後、グループホームという障害者(主に精神の、だが)の集合住宅で暮らしていた。夕食後の向精神薬だけは宿直者が管理していたが、私はほとほとその事について閉口していた。薬の管理くらい自分で出来る、という私の反骨心を煽るようなやり方で、グループホームにいる間はやるせない思いを私は終始抱いていた。大方、宿直者が私の様子を確認できないからという愚にもつかない理由だった。そして私にはそこで苦手な入居者がいた。その人物は男性で年齢はその時の私の二倍程度、ひげが印象的で幻聴に対し叫んで反応しているのが、私が二階にいた時は顕著であった。部屋の狭さから一階へと移動した後には幾分ましにはなったが。そして元の木阿弥になるのも危険だと私の合意を得て、二年ちょっとその施設で過ごしたのだった。

                 そしてグループホームは京都にあった。大学も京都にあった。京都で暮らすにあたって、副産物が二つあった。一つは孤独感を中和させる執筆活動に目覚めた事と、もう一つは自己のマネージメントが出来るようになった、それも主にメンタルを含蓄した体調を目ざとく発見できるようになった事であった。ところで大学生活も後半を迎えると、私は痺れを切らして精神科に診察を受けることも稀ではなくなった。理由は前述したとおりだ。私にとって薬との付き合いは私にとって生命線だった。無為徒食の引きこもりニートとは違って私には執筆活動や勉強のタスクがあった。従ってメンタル面に異常が出たら即座に精神科に診察を受けることを余儀なくされた。いつの間にか私は足しげく病院に通うようになった。

                 小説執筆は古典文学の傑作の換骨奪胎でこなすように大学の学部の三年生の頃にはなっていた。また、大学で簡単な講義のみを選択し、宗教系の講義からは遁走するかのごとくシラバスを確認して選択しないことになっていた。また、同じ時期にモルモン教の教徒から勧誘を受けて私はラインを彼ら(二人いた)と交換した。しかしながらその事を母親に言伝すると母親と、そして事の顛末を知ったケースワーカーからも彼らとは絶縁しろと箴言を受けた。私はせっかくモルモン教の聖書を初めて手に入れ、喜び勇んで半分以上読んでいたがそれを読破するのを辞め、彼らのラインもブロックして削除しておいた。以来、彼ら二人組をグループホーム近辺で散見することはなくなった。新しい友達が出来たと思ったのも束の間、私は苦虫を噛み殺したような気分に駆られた。

                 それから私の高校時代について話そう。ところで私の自分自身についての記述は、私の歴史としての事実の配列はありのままではない、そのことを読者諸氏は念頭に入れておいてほしい。これからもそうである。私は地元の公立中学校を卒業してから工学について専門的な事を学ぶ工業高校のような学校に入学したが、専門科目がからっきし出来なかった事を始終苦に病み、一年後にはその学校を退学して、新しい高校に入学した。そこは偏差値も学風も痛ましいほどに平均的な高校だった。勉強の面において精神疾患を発症するまで、私は学年でトップクラスであった。また所属していた山岳部では「エース」と呼ばれていた。同じく一年の夏頃に身長185㎝の友達に感化されバレー部にも入部した。その頃の私の身長は168㎝、下手をすれば女子より低かった。バレー部の連中は非常に良好な連中で私は無上の安心感を覚えた。しかし幸福に反比例するように病気は更に悪化していった。私は女子にも多少もてていたが、自分には相応しくないと、少なくとも自分にはそう思えた栄光を手に入れて白けてしまった。上手く行き過ぎて辛いという謎の情動だ。そしてある日からは学校でも、自宅でも、電車でも露骨かつ意味明瞭で鮮明な悪口を受けてまともに通えなくなった。私はしばらく家にこもり一日の大半をネットサーフィンで過ごすようになった。また友人に自らの心境を吐露しても、糾弾されるような対応しかしてくれなくなりほとほと参ってしまった。しかし私は引きこもり、ネットサーフィンを続けていくうちにこれでは駄目だと浮足立ってきて、ある時点を境にした一連の私に対する迫害を精神病かノイローゼの一種だと推測した。

                 即ち、自らの知覚に疑義を呈したのだった。デカルトは「コギト・エルゴ・スム(我思う、故に我あり)」と言ったが、この時の私は「我思う、故に病苦あり」だった。その流れで学校近辺の心療内科を訪れたが出された薬の服用で私は肥える一方だった。薬の副作用でそういったものが存在するというのは後に知った。その時期は女性の操を犯したり、人殺ししたりしない事が奇跡だと思う位私は荒みきっていた。切り札である理性が半ば私の胸中に残存していたから私はそれらの悪行をせずに済んだのだろう。

                 ところで私は10歳前後に野球もののアニメ及び漫画に触発されて少年野球チームに入ったのだがこれが現在にまで及ぶ生涯、すなわち半生の最悪の一手であった。一部を除いた老若男女、狂人しかいなかった。プレイヤーも保護者もぬるすぎるほどの、「低能の見本市」で私は些か差別的なレトリックを用いる。私は土人どもに囲まれて差別を受けた。私は赤ん坊として生まれた時から色黒で元来はだが変色しやすい性質だったので幼稚かつ知的能力が著しく低い同年代の連中からガングロタマゴやら、黒人と言い囃された。所謂間抜けで無邪気な差別者に囲まれて私自身も朱に染まり、差別者の亜種として変貌を遂げる必要性に駆られた。そして私は周囲の目には極平凡な子供として認識されることに成功したことに野球をやめる以前にも以後にも実感した。

                 最終的に私を野球の束縛から解放したのは私の泣き落としであった。それが私の取るに足らない少年時代の一つの思い出であり、その大部分が決定的に私の人格形成に影響を与えたのは言うまでもないだろう。

                 さて、近況に話が及ぶ訳だが私は成功し、偉人とまで称されるほどの存在になった。ひたむきに小説執筆と論文執筆を継続させた努力が功を奏した結果なのだろう。しかし私は自らの研究も小説の執筆もつい数か月前に完結したとして今は障碍者雇用で働く人々のいる作業所のスタッフとして働いている。そして同時にテレビジョンの番組にも私は出演するようになった。また偉人や障碍者階級の英雄、以外にもノーベル文学賞、ノーベル物理学賞に受賞の栄養が与えられそうな日本人として大体的に注目を浴びている。ハイレンジのIQテストもして結果は201だった。いわば超天才に分類される知能指数らしいが私はその数値はたまたま算出されただけか知能テストそのものがいかさまであると考えている。標準偏差は15らしい。

                 私は先天的な性格で作業所の大勢の利用者からも好かれた。無論「優しい」等の良い意味での性格だ。実(じつ)は母親も同じような福祉関係の仕事についており、安月給だが定年まで続けることにしているらしい。私は私の研究と私の出版した本の印税で日本の長者番付にのっても可笑しくない程の金銭の蓄積があったのでジリ貧とは言え、福祉の仕事をするのに吝かではないという案配であった。私は豪遊もあまりせず人並みな生活を送っている。私の小説執筆等を包摂した知的活動の勃興期は二十代であると私は捉えているがそれは単に思い込みかもしれない。

                 私の超能力は他者の無意識の中、所謂夢やらその他の枝葉末節の意識できない意識を読み込むことができるようにもなった。これは他者に対する機転を利かして行動し、本人を満足させるに至る道程の役割の一部を担っていた。また、同僚の夢を当てたりする遊戯にも本格的に役に立った。またその様相をテレビ番組などでもオンエアされたりもした。またフロイトの提言した通り無意識の中にはやはりリビドーのようなものが一部を占める事に確証を得た。しかしそれをつっけんどんに探っても心証を悪くさせるだけなのでリビドー及び性衝動に関する事には敢えて触れないでいた。しかし快活でない者達や今にも死にそうな者達からは性的な衝動を私が透見した無意識では見られず、代わりに死に対する欲求や食欲等の想念がおおよそを占めていた。そのケースも一部について見られた。

                 また私は頭の中で「時よ、止まれ」と念じると現実世界で時が止まるようになったのは一昨日からである。時間停止が使えるようになってからは朝の活動時間を時間停止で延長したりして頗るいかさまめいたこともした。背徳感があったのはプールの女子更衣室に時を止めて入ったことである。女性の裸体を初めて見た時は不思議と勃起しなかった。別の生き物を見ているようだった。女性の裸体をみてからは、私は男子更衣室に戻り、家路につき、自宅へと戻った。実(じつ)は小学生の時分に私は時間停止抜きで間違って女子更衣室に入ってしまったことがある。その時には女性の全裸を見なかった。その時も下心など無かったのだが男子更衣室に逃げるようにして入って、着替えたら、一人の少女が男子更衣室の入り口にまで来て「隠れてないで出てこい!明日は血の月曜日よ!」と発言していたが血の月曜日とは何たる詩的で獰猛な言辞だろうと思った訳だが、同時に間違いとは言え、背徳感が強烈に私を犯し、その感覚が尾を引いていた。その経験と時間停止中の出来事は必ずしも無縁とは言えないものであった。

                 また私の音楽アルバム「ザ・ガバメントー心の政府」でつくったザ・ソルロスというバンドはビートルズを超えたとまで謳われるようになった。副題の「心の政府」の由来とは誰もが心の中に独裁的な政府を飼っているという意味での比喩だ。ザ・ソルロスはsorrowlossoloの文字でつくった造語である。ロゴも自分でつくった。レコーディングに協力してくれたのはその道のプロフェッショナルな人々であった。そして私はただ単にアルバム制作費用をためてアルバムを作成しただけだ。また電子音楽媒体でもCDのみならずアルバムを売却した。

                 私はいつの間にか大物然とした重い腰を得ていた。人生の過渡期のような注意欠陥性、多動性も殆ど日の目を見なくなって久しい。そう言えば、私の友人が数年前会社をおこしたらしい。株式会社ラゴスというネーミングで私はそのセンスに脱帽した。そしてその会社は押しも押されぬ大企業へと成長、見事な躍進を果たしたのだった。彼は成功して良い気になったのか中学校の同窓会に参加したらしい。私が大学生になって京都で再会した時は、高校までの縁は殆ど切った、同窓会にも行く気は毛頭ないと豪語していた。人の主張は憎らしいまでに転々と変幻するものだ。

                 また、病気についての治療は対人関係の中で体調を整えるだけではなく、向精神薬の投薬治療で日々を暮らしている。また休暇中には実家に帰って地元でボランティアの手伝いを私はした。軽度知的障害者のヘルパー資格の勉強の助太刀、主に彼らの書けない漢字を紙に書いて示唆したりもしていたが結局それも一日しかしなかった。それで暇になってきたのでまた書き連ねる事もなくなったので無作為に人の思考を透視しよう。私は目を閉じ変性意識状態、所謂トランス状態で東京の自宅から他の東京の地に意識を飛ばした。「あーあ。彼と付き合って三年が経過するけど彼と一緒にいるのも刺激的で新鮮なものじゃなくなってきたわね。両親が見合いしろ見合いしろとうるさいから仕方なく一度だけ見合いしてやったけど、何だか私、彼との接吻も同棲も接吻以外の性生活も却って鬱陶しく感じてきちゃったわ。男なんてこんなものなのね。お金を多量に持っているから将来安泰だと思って結婚もしてみたけど、本当に私、幸福なのかしら。さしあたりは安泰といったところだけど。もうアラサーだし年甲斐もなく無闇やたらに恋をエンジョイする訳にもいかないし。私の職業の作家活動だって最近はスランプ状態だし。仕事もしながら家事もしないといけない。尤もこの女性が家事をするというステレオタイプも癪なのだけど。私は神奈川県の鎌倉市、親は父が議員で、母がコスメメーカーの社長で、私は親の七光りと言うか、ともかく温室育ちの娘として育った有名小学校、有名女子中学校、有名高校にも進学した。それはひとえに私がペーパーテストを得意とする人間だったからこそ出来た話なのだ。また中学校の頃に心理検査の一環で知能検査をしたところ、IQ145であった。医者や他のセラピスト達は私の事を「知的にやや早熟」、とか「知的に早熟」だとか「とても頭が良い」などと私の頭脳を激賞した。医者からは「能力が高いから君は大学に行った方が良い」と言及したが、私は既にこの頃から専業の作家になることを夢見て、大量の作品を書き溜めており、」大学に行く意味も見いだせなかったので私は高校卒業後フリーターをしながら文学賞に作品を矢継ぎ早に応募していった。そして努力が実ったのか私は文学賞を取ることができた。その折にとある出版社から「物書きになりませんか」と言われたので私は即座にイエスの旨を伝えた。そこからはフリーターではなく作家になった」との思考を私は傍受した。尤もこの傍受という表現が超能力において正しいかどうかはわからない。また彼女の名前は村上千代(むらかみ ちよ)であるとの情報も掌握した。私の作家人生でいつか巡り合うことを想定して。

                 次の日私が五百回はきいたであろうピンクフロイドの「アトム・ハート・マザー」をききつつ作業所まで車で通勤していた。時刻は七時五十分であった。因みに私の車はメルセデスベンツであった。女性のような車体の曲線美を私はこよなく愛していた。最近家を出るとしきりに近所の興味に惑溺した視線を私は感じるようになった。インターネットでエゴサーチして見ると私の痛々しく、無様で、取るに足らないラインの情報で私を精神的に苦心させることが枚挙に暇がない程現実化していた。ティーンエイジャーの頃に私が病的に撮影した大量の自撮り画像も河川の大氾濫の如くネットの海に蔓延しており、私個人としては自らの顔が好きではないので、いやむしろ嫌いなのでそれらの電子情報には極力目を向けないことにしていた、ネットは豊穣な海のようなもので中には私に関する微生物に相当するような情報や「検索してはいけない」と銘打たれる毒素まで混入しているものだ。だから私は必要以上にネットサーフィンをしなくなっていた。代わりに超能力で常人には不可視の事も極めて度を越えて、「探偵ごっこ」のような遊戯を33歳にもなって耽る事も頻繁にあった。

                 そしてある日私は直面したのが村上千代の旦那の父親殺人事件である。今、それについて様々な糸口言わば超能力を駆使した糸口で犯人逮捕に向けて身を投げうった。村上茂雄、62歳頭部を鉄アレイで殴打されたのが死因。彼は流行作家、村上千代の旦那の父親だった。また事件現場はテレビ撮影の為に用意された楽屋であった。彼の楽屋に入ったのは計10名、共演者や家族、撮影スタッフなどといった様々なメンツが楽屋に来訪したようだ。また、鉄アレイはどこかで強奪したものではなく購入したとされる線が濃厚だった。私はその情景が脳裏に焼き付いた、警察は捜査と称して凶器の鉄アレイを所持していた人物を特定しようと近辺のホームセンターやスポーツ用品店の店員に何か醜怪な雰囲気を醸し出し、鉄アレイを購入した人物はいないかととんちんかんなやり方、または愚鈍なやり方でプロファイリングまでしていたので、一人の刑事におずおずと超能力で手を挙げさせ、意見を述べさせた。行動のジャックも私の超能力の範疇なのだ。「あのー。犯人がこの我々の動向を予め把握していたらどうでしょう?もしかしたら近辺の店ではなく、遠方の店や下手をしたら通販かも。いずれにせよ楽屋に出入りしていた者達のパソコンや端末の通販利用の形跡やらあらゆる場所の監視カメラにうつった容疑者各人を調査した方が最善かと思うのですが」すると操った彼の先輩らしき者が声をあげた。「こら加藤、余計な口を挟むな」成程、私が操った者の名前は加藤というのか、と私は思った。

                 「いや悪い発言ではないぞ、加藤。その提案を採用しよう」と今度は別の男が発言した。そして時は経ち、村上茂雄殺しの犯人が逮捕された。どうやら村上千代の旦那の兄が犯人らしい。父親が彼に遺産を分配しない事を聞いた彼が逆上して殺害したとの事だ。それまで茂雄の息子の悪行が半端なものではなく全て父が支談金で複数回和解してきたが、とうとう父の堪忍袋の緒が切れて、遺産を分配しないとの結果だった。凶器はネット通販で彼が買ったダンベルで間違いないらしい、その裏付けもとれているようだ。買ったダンベルの銘柄と指紋が使用された凶器と一致したらしい。そして事件は間接的に私、文明が解決へと導いた。そして確認する所によると村上千代の旦那の父親は数千億にものぼる大いなる遺産を持て余していたらしい。

                 千代がお嬢様なのは分かるが、旦那(確か村上達也)までもが御曹司で、富豪の家系だとは私も」度肝を抜かれた。それを仄めかす千代の思念もあったのだが。私は疲労感があった。この一件で。しかし私はまだ性懲りもなく「探偵ごっこ」を続けるのである。私は事件に対し神出鬼没であるから、疲労はしても周章狼狽することはない。身を引くことを覚えたからだ。しかしもう探偵ごっこの概要は語らない事にする、ただ沈黙するのみである。

                 我々は彼の物語に対する記録もそろそろピリオドを打とうとしている。しかし尚も彼は死に至るまで邁進し続けるであろう。そして我々は酒の入ったグラスを片手に彼に乾杯したい衝動に襲われるのだ。「文明!よくやった!文明の人知れずしてしてきた努力が実った事に乾杯!」と。我々は彼の幸福を願ってやまない。