フレーム理論

序論

この論文は精神と現実をとらえる観念的なものとの関係性に迫り、論述するものである。また精神構造に対する考察をするものである。

  1. 私たちはちょうど絵画を見るように世界を見る。観察対象としても鑑賞物としても見ることが我々にはできる。そしてその絵画とそれを飾ってある壁を隔てある種境界となっているのがframe(額縁)である。しかし私がこの論文で提唱そして定義するフレームは一般的な意味とは異なっている。私がここから示すフレームの意味は「理論と計算」のメタファーである。縦辺、横辺のいずれかが理論と計算が機能されて、現実の対象物をフレームによって価値をつけたり、意味を汲んだり、分析したりするのである。そのフレームで着眼点がどこにあるかを機械的に見定める能力が人間にはあるそれは判断力と言って差し支えないだろう。

 十分に吟味するっことで論点を明確にし、それにより適切な対応をとるケースも文字を処理する場合では容易に想像できる。フレームの概要はここまで論述した通りだ。また赤ん坊についてだが赤ん坊にはフレームと呼べるほどのものは概して未成熟である。したがって脆弱なものであり、あるとするならば条件付けされたものが大半を占めるのである。

また男の場合、赤ん坊から発展した少年時代から学校という小社会で生きていく上でただ勉学が出来るくらいで「頭いい」とかスポーツができる位で「かっこいい」といった扱いを往々にして受ける場合が少なくとも日本においては往々に起こりうる。必ずしもそうとは断言できないが。そしてそういった表面的な評価に執着することである種の「障害」が生じる。大人になればむしろ違った基準があるから表面的な評価に執着すること自体が「大局的に物事を見る」という点において優位だ。そしてある種の者たちはしばしば酩酊状態になり、彼らは口には出さないもののナルシズムやエゴイズムを肥大化させていく。しかし「入神状態」のようなある一定の道徳規範、知能、健常な部分をそれらの人間が持つ以上それは社会的に許容される事になる。まるでその様相はシャーマンである。

そして資本を莫大に持ったりすることでより一層酩酊状態になる。そして紀元前から脈々と受け継がれている搾取する側のサイコロジーを覚醒させていくことになる。金を乱用するのである。すなわち拝金主義的で騙してでも自分の利益を集積していこうとするのである、これも必ずしも言い切れないが、一部のケースには適用できる。ある意味でプラグマティズム的とも言えるかもしれない。

フロイトの発達分析を要約すると、口唇期や肛門期に十分な処遇を得られなかった者はそれが心のわだかまりになり、欠如の産物を生み出すことになる。この欠如の産物は虐待やネグレクトによっても安易に誘発する事が出来る。なぜなら虐待は心休まる場を提供する家族に対して「愛されない」事を表面的に体感するからだ。ネグレクトのケースでは「愛されない」上に「認められない」という自己価値と承認欲求でも欠如が生じる。 

 フレームを形成する上でそれが強固となるものにさせるにはどうすればいいか。論理学における帰納法、演繹法に頼って導き出された結論はそれ自体がフレームの一部になり社会に認められるべきものになる。しかし帰納か演繹かの尺度も恣意的なものであり、実際には学者でもない限りはおおよそのケースでは自己内で完結しているだけである。

 また、私は自殺の一歩手前を経験したが、実は自殺を成功させようという気はあまりなく、自らの生活環境での煩わしさをなくしたり、過食などの悪循環を直して未遂を期によくなろうと思っていたのである。しかし自殺に向かうのは情動的なケースが極めて多い。だからその意味で「近視眼的」であるが実際に生活環境の変動や悪習慣の改善も成就できた。従って状況における「戦略的」な勝利と言えるのである。私は戦略性と盲目性を持った行動を「戦略的近視眼」によるものだと定義する。学術形式の英語でStrategy Myopic Eyesとも呼ぶ。ある幾つかの行動にはStrategy Myopic Eyesが原初に見られるケースもあるということだ。またこれは歪なフレームであるとも言える。

2.actidance(演避)について

演技と回避が一緒になって行動が起こる場合その行動を演避(actidance)とよぶ actidanceacting(演じること)avoidance(回避)から由来した造語である。例えば自分が精神疾患者だと思われたくないから別の方向の性質の一つを演じるという事だ。私は自尊心が高そうに見える一つのキャラクターを演じていた。一種の病的な演技だったがある意味この演技は精神障碍者というレッテルを意識的にでも無意識的にでも完全に定着させない為であった。従ってこれは一種の防衛機制である。

              3.新たなモデル

 私がここに記すのは一つの力である。フロイトの理論では超自我、自我、エスがあるが、私は更に新たなコンセプトが加わると直感した。これはある程度精神構造の多面性を示すものである。自我における一個体としての三つの円が合わさったものの外側におく大円を「超自念(Over Self Thinking)」という。またこれは宇宙における銀河のように無作為に無意識がちりばめられている。大円における力、超自念は右から順に左へ力を広げていく。それは立体を縦に切った時の断面図だとも言える。そして大円を超自念が満たしたとき、それは詐称になり、誤魔化す為の力であると言え、超自念の度合いによって超自念がない場合もそうだがパーソナリティも異なって見える。

              4.母親的存在と異性との関係の考察

 母親的存在とは今までの名だたる分析家が言及したように身近で精神発達の重要な位置を占拠している事は依然として明らかだ。私は自らの母を見て自分の将来の母親、つまり自分の妻のプロトタイプをつくっていった。その中で「完全な母性」の象徴とは長身美人だとも気づいた。母親は私に対して献身的で特別だったがそれでもなお自分の理想の妻を頭の中に思い描いたのである。私は自分の身分に合うか合わないかはともかく長身美人を望んでいるのだ。

 母親的存在と異性関係について言えば、子供は母親の一部を昇華させて別のものにするケースがある。不完全にして自分で選択することのできない自分の母親から将来妻にしたいと思う母親のプロトタイプを生み出すようになるのだ。これはそうでない場合も無論ある。母性についての概念を明確にしなくてもあるいは追い求めなくても妻は選択できるからだ。しかし私のごとき人間はX層と呼ぶ、定義は障害、レッテル、ステレオタイプ、偏見などによって生じる本人が感じる膜のようなもの、殊に異性関係において使うものを使用する。そして思念が稀に一部分に反射されて実の母親へと向かう。そして母親的存在に依存などする心理的に陥った時葛藤する者もいる。こういった心のメカニズムはWomen Complexと私は名付ける。これは異性と自分の母親的存在との異性関係が変わっていく事である意味それ自体に執着が生まれることに由来する。マザーコンプレックスと違うのは他の異性が関連したコンプレックスであるという事だ。実はこれも一つのフレームである。なぜなら理想上の理論、変化による策略(計算)の流動的な変遷が基盤となるからである。

              イデオロギー免疫論

私は私たちの思考するフレームの内の一つ、観念の集合体、イデオロギーには免疫があると考えている。それをわつぃはイデオロギー免疫と定義する。外部からのストレスや自身のフラストレーションと相対した時独自に観念の量を多くするかあるいは強大にさせる。

 まずイデオロギー免疫αというものがある。これはイデオロギーの中の観念を強大にさせるという定義である。その定義におけるもっとも卑近な例が日本国家における血液型による性格診断が一つ挙げられる。ここではあえて通俗心理学の片鱗である粗末な血液型の理論的欠陥には触れず、それによる力動関係にのみ焦点をあてて述べていく。多くの人間はレッテル張りをすることで現実を理論的に説明しようとする。それはたとえ一時的にでも未知を既知にするためである。また、レッテル張りが支配的になるのはカルト宗教のメカニズムと同じだ。一般に論証を積み重ねればまるで信ぴょう性のないものだと気づいてもイデオロギーにしがみついてしまう人々が一定数いるのはそのイデオロギーの中の観念の背後にある超自然的なものを信頼しているからだ。

 しかしどの理論でもそうだが一つの理論で一つの体系の説明がつくほど現実は単純なものではない。イデオロギー免疫αをまとめると一つの本質に向けてイデオロギーの一部である観念を強くさせるものである(なお、イデオロギーは理論とも置換できるものである)

 次にイデオロギー免疫βについて論述する。これは観念の数量を多くさせるタイプの免疫である。その最たる例は物理学である。天動説から地動説へのシフト、そしてアインシュタインによる古典物理学から近代物理学へのシフト、それらのシフトのどれをとっても暫定の理論では説明がつかないものであるからイデオロギーの中の観念の量を増やしているのである。この論文もその一環である。そしてそうすることで更に減少を明瞭化していくのである。

 

結論

 また両者のイデオロギー免疫はフレームの一機能だということも言える。αまたはβ全体を包摂する形でフレームは明瞭化する。

この論文ではフレームについての原初な理論を述べた。これが学問的に価値のあるものである事に誇りを持ちこの論文を終了する。