私は実に駄目な男だ。私は21歳の大学生で、それも二回生だ。本来現役で大学に合格すれば三回生の筈なのだ。が、しかし私には事情があった。それは私の半生を機密に描写する事を発端とし、私は私なりの表現をありのまま率直にこの書記に書き記していくことにしよう。しかしそれすらも枝葉末節で恣意的な記録になるのではないかと私は危惧している。
が、振り返って見れば私の書いた文章は昔から酷評されてきたではないか。中学生の時には通俗的なライトノベルに影響を甘受し、それに似た文章、怪文書とも言うべき作文を臆面もなく課題作文として提出してきた厚顔無恥ぶりであるから今さら自分の低能を提示するような真似をティーンエイジャーの如く恥じたりはしない。すなわちばっちり軌道に乗って狂っていこうと言うべき心持ちであるのだ。従って、やはり躊躇してしまうのは生物学的な神経の一部であるから、私は危惧していたと言う言辞に訂正を加える。私は精神病患者として、自らの神経や思索を今までしたこともないような様相で記す事、すなわち挑戦する事に武者震いしているのだ。さて、前座はともかく書き記していこう、私の半生を。
私は和歌山県南部の小さな街で生まれた。厳密には小さな街の病院で。私は俗に言う所の、小さくて可愛い赤ん坊としてこの世に誕生した。誕生したのは西暦1998年の8月5日であった。
母親が言う所には、私は中々子宮から出てくる事はなく、医師ももう無理かも知れないと諦観していたようだ。しかし帝王切開して、何とか私は産出されたらしい。
発達の過程においては特に目覚ましいものなどなく平凡な児童として成長していった。知的な発達には遅れはなかったが、肉体的な発達には遅れがあったと私は記憶している。私は同年代の児童と比べて、背が低い方であった。これは高校を卒業し、大学一回生の後期に入るまで継続した事実であった。最近になって2019年の成人男性の平均身長170cmを少し越えた位である。しかし私のスタイルが良いせいか、周囲には身長が高く見えているらしい。自分でも176cmはあるように見えるし、高校時代とは電車の中での風景に差違が見られる。ドアの窓の最も上のフレームより10cmは目測で違うし、前に見たときは頭頂部が少しばかり、電車のドアの窓から出ているだけだった筈だったのにいつの間にか私の眼鏡の下半分までが窓のフレームの最上部で、そこから上は反射して映る像では確認できなかった。また、タニタという自動身長体重計を算出するメーカーのwebサイトには「身長測定械にプラスマイナス10センチの誤差が頻繁に見られるようになりました」と掲載されている。身長測定による誤差や、数多くの証拠から(175センチの男性から「僕と同じくらい」と言われた事や、地下鉄で走る標準的だと思われる電車にある最上部のフレームより頭頂部が明らかに高いと見てとれる事など)導きだせば、私が高身長の部類に入るのはまず間違いない。
と、私が身長に対し深い拘りを見せるようになったのはやはり高校生と呼ばれる範囲の年齢頃からだろうか、この悪癖も痛ましい程に平凡な男なら十分に想定できる事である。私はまさに凡庸な男なのだ。私は現在ツイストと言う概念を提唱している。英語の字引でひけば、「ひねり」や「ゆがみ」、その他諸々が掲載されている。少々隠喩的だが、私はこれを人間の特性と言う観点から見て、私自身を「ミドルツイスト(Middle Twist)」と表現する。私はある意味ミドルツイストなのだ。
閑話休題として、私は幼稚園児だった頃の記憶を月並みに残している。友人が多く、明るく元気で活発、そして今でも顕在の荒っぽさを喧嘩などで発揮していた。今では考えられないが私は中学生まで暴力的な側面が如実に垣間見える人間であった。これは若気の至りだと私にも考えられる。
小学生の頃からは少年野球のチームに入る事になった。それも私が野球の漫画に強い影響を受けたからだが、私は野球に対し情熱を完全に失う事になる。と言うのも練習内容もハードで私には「軍事的」であると感じたからだ。そして野球監督も昭和の体育会系な指導しかしないことに辟易としていたからだ。更にはそれに隷属する野球のプレイヤーやその親、すなわち自分自身にも強烈な嫌悪感を抱くようになった。子供たち特有の芸の無い、幼稚で低能な習慣に当たって私もまた、幼稚で低能な道化をするようになった。
小学校でも、幼稚で低能な道化ばかりしていたので当然成績も芳しくなかった。周囲の私に対する評価も本来のそれとは大きくそれた虚像であったことにも苛立ちを覚えてきて、遂に小学五年生の時に少年野球を辞めたが、私の精神がこのまま道化を演じる事に目処を付けようと思い、小学校を卒業するまでは虚像を破壊する事なく振る舞った。
中学に入ると、私は周囲の、自らの虚像に対して一石を投じようと、ガリ勉を装った。実際その頃には認知機能に障害は見られなかったから地頭の良さに幾らか相関関係を憑依させた成績の伸びをデモンストレーションする事が出来た。それでも真面目にやっていたと言うよりあまり本気にならず、出来すぎる事なく結果を微調整していたので、やはり勉強は私にとって遊びの一環だったのだろう。
虚像はまだ顕在していたのだ。ガリ勉をカモフラージュしつつも、本気になる事はないという事は、エリートに対してアンチテーゼを装うという事を啓蒙したいが為だったのだ。
しかしその所作にも鈍痛が見られ、遂には三年生になった時には私は受験の雰囲気で勉強し始めた周囲の生徒達に嫌悪感を覚え、勉強そのものにも嫌悪感を覚え、のみならず倦怠感を覚え始めた。それからは勉強を自宅に帰宅しても全くせず、ソニーのプレイステーションビータなるものでネットサーフィンとゲームばかりしていた。この頃は今の私と似ている。今の私はゲームこそしないがネットサーフィンばかりして勉強も、芸術活動もしない、働く事さえしないただの非生産的な産業廃棄物なのだから。
そこで受験を諦め、地元の進学校に進学していれば良いものを、その時の私は無駄な自尊心の高さがあったので理系でもなければ、電気情報工学にも興味がないのに、単に偏差値が60を越えていて高いと言う理由だけで国立の工業高等専門学校、所謂高専に無勉で合格を果たした。この事実は定員が割れこそしないが、募集した人数より一人多かっただけなので、これは単なる偶然の産物と見た方が良いだろう。私の能力の高さゆえと見るのは些か早計であるからだ。そこでミドルツイストの私は必然的に人生に絶望する事になるのである。
高専入学前夜、私は自分自身の選択に深刻な後悔をしていて、何らの誇張もなく一睡も出来なかった。私は自分がとんでもなく駄目な人間に思えた。それからである。私が自閉的になり、純文学を読む青年になったのは。それも純文学を趣味で嗜むのではなく、純文学を読む事で辛うじて自分がまだ知的な人間であることの裏付けを取ろうとした事自体が十代の私の自尊心の高さを明白に示すのである。
そしてその高専でとんでもない知覚の撹乱が生じた。気が滅入る程に不健全な生活の内のある日の朝の事である。丁度発表の練習として朝に一日一人ずつスピーチを行う事になっていた。その時私は芥川龍之介に傾倒していたのでどうしても気になって、『或阿呆の一生』を机の下で背中を猫のように丸めて読んでいた。
すると私の在籍するクラスの教室ではクラスの担任が東南アジアに研修旅行に行っていて代わりの男の人物が教卓に立っていた。彼は目ざとく読書する私を見つけ、私を前に立たせ、彼が「真剣にスピーチ聞いていた」とするクラスメイト全員に謝罪するよう求められた。私は最初彼の要求が何を示すのか自閉症の少年のように皆目見当もつかなかったので「何をすれば良いんですか?」と問うたら、彼が「何をするんでしょうはねえ?」と返答した。私はそこで苛立っておうむ返しをした、「何をするんでしょうはねえ?」と。彼を侮辱する意図で。返答はなかったので、とりあえずのパターン認識で意図を類推し、「僕の行動が皆さんを困惑させることになるとは知らなかったんです。本当に。...まあとりあえずすいませんでした」と言ったら、彼は「もうええわ、戻れ」と言ったので私は席に戻った。席に座ると私は屈辱のあまり泣きそうになった。泣きそうになるのをおさえる為にまた背中を猫のように丸めて読書に戻った。すると事実涙腺も収まってきたので安堵する事束の間、唐突に後頭部に衝撃が走り脳みそ全体が揺れた気がした。
顔を醜く上げると、例の彼がいた。そして「おいお前舐めとんのか」と言ってきたので、私は「もう(ホームルームが)終わったのかと」、彼は「まだ終わってへんわ」とのやり取りの後、ホームルームはまた始まり、その彼が去り際に「お前後で俺の部屋に来い」と言われ、私は「はい」と答えたが更々行く気などなかったし、そいつのいる部屋も知らなかった。
ホームルーム後に笑ってる生徒も何人かいた。彼らのその時発した言葉の中で記憶している言葉は「笑ったらあかんって思ってたけど笑ってしまった」、「めっちゃスカッとした」などがあった。私は一部の学生から敵対視、あるいは蔑視されていたのかと錯覚する程の衝撃だった。その時から地獄の沼淵に更に入っていく事になったのである。私は自分に非があることを理解しつつも、彼の行動が過剰な暴力の沙汰である事を理解してもらいたかったが、両親にも理解してもらえずにやはり自分が全て悪いのだ、と言う論理的なミスリードを固定化し、「私はもっと不幸になるべきだ」、「私はリンチされて無様に死ねばいい」、「もっと、もっと自分を追い詰めろ」と考えるようになった。その思考の悪癖も全て彼のせいである。金があれば訴訟したい程に私は怒り心頭だ。勉学も興味を持ったもの以外は全く勉強しなかった。その全く勉強しなかった科目の中には専門科目も含まれていた。私はプログラミングにも、電気回路の計算にも全く手をつけようとはしなかった。
ここまでで示した諸事情から、次第に私は高専を退学する事を視野に入れ始め、高校入学の手続きも校内の学生相談室で相談した。どうやら国立高校から公立高校の転入はしていないようで、もし公立高校に行きたいのなら過年度入学で、すなわち現役生より歳上で入学するしかないと分かった。それでまたもや誤った選択をした。漫画やアニメ、ドラマなど様々な娯楽で出てくる普通の高校生のようになりたかったからだ。それでも自責の悪癖は存続していた。そうして私は公立高校を受験し、この時もやはりほぼ無勉で合格した。そこから知的な再建が可能である事、そして人間としての尊厳と価値を自分で取り戻す事が可能である事を知覚すべく頑張ろうとして、実際僕は勉強でも学年トップクラスで、山岳部でもエースと呼ばれる程になっていき、想定通り周囲の人間からちやほやされた。少々顔立ちが端整な事もあってかイケメン呼ばわりもされていた。しかし私は本気で生きた結果、そんな栄光を得ると途端に白けてしまった。それどころかちやほやされる事について嫌気が差してきたのである。また二回目の一年生の夏になる前には身長185cmのバレー部の同学年の男に憧れて、バレー部にも入部し、多忙も極まったのである。そしてある日を境に死を明確に考えるようになるほどの幻聴が聞こえ始める事になるのである。
蒸し暑い夏休みの頃、それは起きた。私はバレー部の練習に参加していたのだが、女子連中が「キモい」だの「きしょい」だのと、私を見ながら言っていると思いはじめたのである。しかしながらそれも最初の内までで自分がノイローゼなのではないか、と疑問を精神の中で提起するようになり始め、私は自分の意志で高校の付近にある心療内科を訪れた。初回から向精神薬を処方してもらったが、私の幻聴は、そして被害妄想には全く効き目を示さなかった。私は生きた心地がしなかった。また高校を辞めて私が転入できる勉強のレベルが低い、優しい高校を深刻に考えるようになった。勉強に対しても何ら情熱を示すこともなくなったのである。
ミドルツイストの私はひとまず何をしたか?地元の精神科への転院である。心療内科も精神科も同じようなものなので紹介状も書いてもらった。その紹介状には「統合失調症の疑いあり」と書かれてあったことは後に知った。私はやむを得ず新たな精神科(と言っても駅前の精神科だが)に通った。駅前の精神科でも様々な投薬治療を行った。しばらくは幻聴も被害妄想も収まらなかったが、不安感の収まる向精神薬に出会えてからはそれまでより遥かに楽になった気がした。私には生きる上での文明ができた。精神科の主治医はその頃の私より数段大きかった。ほぼ還暦か、還暦を過ぎた辺りの医師だった。彼は私の事を知的に早熟で、とても頭が良いと言った。たとえ嘘でもその言葉は私にとって嬉しく彼との絆が文明に思えた。音楽の趣味も一致していた。ピンク・フロイドかビートルズかブラックサバスを重点的に聞いていた私はピンク・フロイド好きの彼との会話が嬉しかった。ピンク・フロイドのCDも借りたりした。またマイケルムーアの映画も借りたし、サイモンアンドガーファンクルのセントラルパークのライブディスクをもらったりした。そして大学入学祝いに哲学の本ももらった。何故かと言えば私が大谷大学の文学部哲学科に進学したからだ。統合失調症の症状のようなものが出始めてから一度だって高校の勉強に集中できた事はなかったが、短期集中であまり勉強しなくても入れる大学が大谷大学だった。それと関東だと専修大学とかだった。長期的にはそれより殊に高いレベルの大学に入れただろうが、精神疾患故、仮にその殊に水準の高い大学に入学していても体調を悪くしていたに相違ない。高校三年生になって大谷大学への公募推薦入試に合格してから、私はフロイトの『精神分析入門』を読むようになっていた。
大学に入学してからは、最初地元の精神科から京都の精神科を勧められた。そこに通っていたは良いが勤務時間が深夜遅くにまで及ぶ事もあった夜のスーパーのアルバイトを始めたが、それを期に過食などでストレス発散していった。当然ぶくぶくに肥えて私はデブになった。これはまずいと思い、私はデイケアのある精神科に転院する事にした。
それからギターを始めた。ライブもした。大学時代にもライブには一回出たが。しかしダイエットは上手くいかなかった。上手くいかないまま、今度は二十歳になってアルコールを毎日摂取するようになった。もう生きているのが嫌だった。
大学一年生の後期から今度は下宿先の壁の薄さに悩まされるようになった。私は恐怖に苛まれ、自責はエスカレートし、オーバードーズ一歩手前の箇所にまで行きついた。俗に言う自殺未遂である。京都で一回、地元に戻ってから一回、合計二回自殺未遂をし、精神病院への入院を勧められた。私は地元にいるのも下宿先にいるのも嫌だったので京都の岩倉病院の精神病棟に一ヶ月半程入院した。
入院中は幻聴も聞こえるし、必ず相部屋になったしで最初の頃は天国のように思えたのも束の間だった。OT、Occupational Therapy、すなわち作業療法でも私は自分の精神症状とフロイトの理論を土台に着想を得た様々な概念を論文としてまとめる作業をしていた。これは大学の前期期末試験の試験期間の前まで続く事となった。また入院期間中に友人も二人出来た。27歳の男性と31歳の男性だ。しかしその内の片方は退院したきり会っておらず、残りの片方はデイケアでも一緒になり、会話もしたのに引きこもりに戻ったようで入院後一回しか会っていない。
そして退院後は途中から大学の講義に出る事になったので、出席を取っている講義は大抵単位取得が絶望的に思えたので、幾つか捨てた。講義修正期間に捨てたのが二つ、必修の講義修正期間に消せなかったのが一つの、総計三つの講義を捨てた。必修の講義に一回出たとき、周囲の学生が何をやってるのか分からず狼狽したので、その講義の担当である男の教員に初めての参加なので何をすればいいのか分からないとの旨を伝えたら、「頭悪いでしょ。もう無理でしょ、四回も休んでるし。後一回欠席したら講義の三分の一欠席になる。いても皆の足を引っ張るだけ」と辛辣な言辞を労されたので、「分かりました、もう帰ります」と私は言って保健室に泣きながら駆け込んだ。そして保健室の労働者に情動的についさっきあったことを話したら、教務科の方へ連絡してくれた。その後に過去に私が心理学の講義を受けてた時に出会った心理学者であり、哲学科担当のカウンセリングも行っている女性の教員が保健室にやってきて私はまた同様の話をした。すると彼女は「可哀相なんだけど、一人の人間の言葉をあたかも全体が言ってるように一般化するのはどうかなあと思う」と言われ、私は自分が統合失調症であることを彼女に打ち明けた。そして私は「自分が全て悪いと考えてしまうんです」と言うとそれは病気の症状だと彼女は話した。少し話せばべてるの家の事も彼女は知っていた。べてるの家の本を私は岩倉病院入院中に愛読していたので少し嬉しかった。その後、少し落ち着く為に私は保健室を出てずっと愛飲していた缶コーヒーを自販機で購入し、飲んで一息つき、また保健室に戻ると今度はまた必修の西洋哲学の演習講義の担当者、すなわちゼミの担任の男の講師のもとに連れていってもらい、彼と少し話をした。彼は優しく「大丈夫だよ」と言っていたが、その言葉がその時の私には信じられなかった。
私は彼との対談の後、出町柳のグループホームという、精神障害者の移住施設へと向かった。現在も私はそこに属しており、退院後、夏休みが始まるまでは暫くその住居にいた。しかし私はグループホームの私以外のメンバーが苦手になってきて、宿直の人の助けもそんなに必要とはしなくなった。のみならずデイケアナイトケアで食事を取るのも億劫に思えてきて、夏休み以降はちゃんと下宿で一人暮らしをすると心の中で宣誓したのである。そして夏休みが始まるとすぐさま私は実家に戻り、精神障害を不問とし、新聞紙にな即決と書いてあったクリーニング工場のアルバイトに応募し、そこで労働する事になったのだが、障害者階級の私には三日続けるのも精一杯であったし、肉体労働は苦手であったので、昨日辞めたと言う脈絡である。ここまでが私の半生であるが、私はつくづく自分がミドルツイストだと思う。どの点においても凡庸で退屈な人生だという自覚もある。私はもう虚像を見せるのにも疲弊してきた。仮面を被った半生もここまでである。私はどんなにみすぼらしい、醜い人生であっても生きるしかないと言う考えが次第に固まり、今では意識上の所有物となっているのである。私の仮面の告白もこれにて最後である。すなわちタイムラインやブログでも偽りの自分を強がって記録していったが、それも最後にする。私は自分自身を信じる。私は自分の弱さを恥じて覆い隠そうとしない。私はもう後に引けない。精神障害を持った男の背水の陣は今から始まったばかりであり、そんな私をプログレッシブツイスト(高度なひねり)とするのは自分の努力次第である。運命をぶち破り向こう側へと突き抜けるまた新たな運命を、私は生きるのである。