沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園

 

6月23日は「慰霊の日」です。沖縄県では、糸満市摩文仁の平和祈念公園にて「令和6年沖縄全戦没者追悼式」が開催されます。

 一般参列者の会場への入場や式典終了後の一般焼香も実施することとしております。一般参列者の入場は日曜日となることから、多くの方が参列を希望されると想定されます。

 

 

 

大田実中将


また大東亜戦争の沖縄戦で自決した旧海軍沖縄方面根拠地隊司令官の大田実中将の命日にあたる6月13日、出身地の千葉県長生郡長柄町でも例年供養が行われています。大田中将は自決前、通信手段を失った県の代わりに「沖縄県民斯ク戦ヘリ。後世県民ニ対シ特別ノ御高配賜ランコトヲ」で結ばれる電文を海軍次官に送ったことで知られる。

 

 

海軍戦没者慰霊之塔の傍らに建立されている、仁愛之碑。「沖縄県民カク戦ヘリ…」で有名な海軍司令官太田実中将の海軍次官に宛てた最後の電文。

 

発 沖縄根拠地隊司令官

 

宛 海軍次官

 

左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度

 

沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ

 

沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ

 

然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ

 

而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ

所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ

 

看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ

 

更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ

 

是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン

 

糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ

 

沖縄県民斯ク戦ヘリ

 

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

 

(電報の現代語訳)

 

沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。

 

沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。

 

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。

 

どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。

 

看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。

 

さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。

 

つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。

 

食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。

 

沖縄県民はこのように戦い抜いた。

 

県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。

 

 

 

当時の訣別電報の常套句だった「天皇陛下万歳」「皇国ノ弥栄ヲ祈ル」などの言葉はなく、ひたすらに沖縄県民の敢闘の様子を訴えている電文です。

大東亜戦争において、地上戦が行われ、多数の住民が戦火に斃れた沖縄戦でした。中将自らの最期にあたっても、通信手段を失った沖縄県の県民の苦闘ぶりを報告し、県民に対して「後生特別ノゴ高配」を願った仁愛あふれる一文は、多くの県民の心を慰め、戦後は心ある政治家、陸軍中尉として、支那で終戦を迎えた自由民主党代議士だった山中貞則氏を動かし、山中氏は佐藤栄作氏を動かした。大田中将の遺志が沖縄の祖国復帰の原動力となったのです。

復帰後の初代沖縄県知事である屋良朝苗知事は、大田中将の電文を「沖縄本土復帰の原点」と評価していました。

屋良朝苗知事は、大田中将の3男・落合畯(たおさ)さんと会って、中将への感謝を次のように語っています。

 

「あなたのお父さんが自決寸前に、沖縄県民の苦労を電報で知らせてくれたお陰で、今、こうして色々な対策を講じてもらえ、ようやく本土に復帰できた。私をはじめ沖縄県民は大田中将に本当に感謝している。」と・・・

 

「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを」

 

昭和天皇の大御歌です。

昭和天皇は、終戦直後から国民を見舞い、励まそうと、全国津々浦々を行幸された。8年半かけて全都道府県を訪問され、1411カ所にお立ち寄りされ、国民を励まされた。しかし沖縄だけは米軍軍政下にあって、行幸が適ず、機会がきたのは、昭和62年、秋の国民体育大会でようやく行幸の機会ができたのだが、その直前、病に倒れられた。手術の3日ほど後、昭和天皇は「もう、だめか」と尋ねられた。「沖縄行幸はもうだめか」と問われたのである。

昭和天皇の沖縄への思いは、大田中将の後生特別ノゴ高配ヲ」にこたえられるかの如く筆者には思えてなりません。

昭和天皇の遺志は上皇陛下に継承され、特別な思いを上皇陛下は沖縄によせられました。

例年騒々しい沖縄の6月23日ですが、今年の慰霊の日は静かに戦没者の御霊が安かれと祈りたい。

 

天皇彌榮(すめらぎいやさか)